第8話 尊厳と骨格を泥水に捨てる時

バキィッ!


 俺が展開した黄金の『聖域結界』に、亀裂が走った。

 捕食粘性体の触手が叩きつけられるたびに、ヒビは蜘蛛の巣のように広がっていく。もって、あと数秒か。


「おい、ゼクス君! 聞いているのかね!?」


 後方から、教頭のヒステリックな絶叫が突き刺さる。


「いつまでそんな地味な防御で耐えているつもりだ! 君の存在意義は、レオナルド君が体勢を立て直すまでの、使い捨ての『壁』だろうが!」


「そうだそうだ! バルガス先生の真似事なんていいから、何かオリジナルを見せろよ!」

「どうせ何もできないんだろ? しょせん窓際教師だし」

「あーあ、もう終わりだ……。レオナルド様がやられた時点で、この学園は終わりなんだ……」


 非難、罵倒、絶望。

 守ってやっているはずの連中から浴びせられる言葉の礫(つぶて)が、怪物の物理攻撃よりも深く、俺の精神を抉っていく。


(……ああ、そうか。そうだったのか)


 脳裏に、魔王城での光景がフラッシュバックする。

 玉座から俺を見下す魔王の冷たい目。隣でせせら笑うヴォルカの歪んだ口元。


 言っていることは、全員同じだ。魔王も、教頭も、生徒たちも。俺の魔法の本質を見ようとせず、ただ上辺の派手さだけで価値を決める。


(間違っていたのは、俺の方だった)


 俺は、こいつらに理解してもらおうとしていた。俺の技術の凄さを、効率の美しさを、分かってくれる奴がどこかにいるはずだと、心のどこかで期待していた。


「……ははっ」


 乾いた笑いが漏れた。


 そうだ。理解させる必要なんて、最初から無かったんだ。

 俺がやるべきことは、たった一つ。


(――認めさせる。俺のやり方で)



 俺の視界が、青い解析コードで埋め尽くされる。

 スキル『完全模倣』のサーチ機能が、周囲のあらゆる情報をスキャンし始めた。

 模倣対象候補リストが、脳内に高速で表示されていく。


『候補1:剣術教官バルガス。剣技『不動斬鉄閃』。再現率98%。――却下。また猿真似と言われる』

『候補2:魔法学教授エルフィリア。『極光の裁き』。再現率92%。――却下。敵の餌だ』

『候補3:公爵家嫡男レオナルド。『ヴォルカニック・バスター』。再現率100%。――却下。反吐が出る』


 どれもダメだ。

 こいつらの矮小な理解の範疇を超えた、圧倒的な「何か」でなければ。

 誰も見たことがなく、誰も理解できず、誰も真似できない――それでいて、この絶望的な状況を覆す、唯一無二の解答。


 俺の視線が、目の前の敵――濃紫色の粘液の塊に固定された。


 いや、違う。俺が模倣すべきは、こいつの『原型』。全ての始まり。

 ここ数日の泥まみれの日常。鼻を突く悪臭。ヌルヌルした感触。俺が毎日、来る日も来る日も世話をし、その生態を分子レベルで解析し尽くした、あの最底辺の魔物。


『――スライム』


 そうだ。こいつらが「泥水がお似合いだ」と馬鹿にした、あの存在こそが、この盤面における究極の解答(チェックメイト)だ。


 だが、脳内のシミュレーションが、最悪の未来を弾き出す。

 スライムの不定形な身体構造を再現するためには、まず、人体の基本構造を支える「骨格」を破棄しなければならない。次に、筋肉と内臓を、流動性のあるゲル状の魔力組織に「置換」する必要がある。


(……人間、やめるってことかよ)


 人としての尊厳。四天王としての威厳。二足歩行生物としてのプライド。その全てを、ドブに捨てろというのか。

 想像する。骨がなくなり、ぐにゃぐにゃになった俺の姿を。地面をずるずると這いずり回る、無様で醜悪な中年スライムの姿を。


「……嫌すぎる……!」


 思わず声が漏れた。ヴォルカにだけは絶対に見られたくない。


 チラリと校舎を見上げる。窓の向こうに、俺のアドバイス通りに避難したリリィの小さな姿が見えた。

(……チッ。ここで俺が引いたら、あいつら全員、スライムの餌だ)


 ガシャァァァァン!!


 結界が、ついに砕け散った。

「きゃあああああ!」


 生徒たちの絶叫が響き渡る。解放された紅蓮の触手が、残像を描きながら俺に向かって殺到する。もう、迷っている時間はない。


「いいだろう! とことんまで堕ちてやるよ!」


 俺は両手を広げ、天を仰いだ。


「貴様らが馬鹿にした『泥水』の中から、最高の景色を見せてやる! そして、その目に焼き付けてから後悔しろ! 俺に『オリジナルがない』などと、二度と口にできなくしてやる!」


 腹の底から、魂の限り、叫ぶ。


「――スキル『完全模倣』!」

「派生進化――『生態模倣(バイオミミクリ)』ッ!!」



 その瞬間だった。

 メリメリメリメリッ……!


 身体の奥底から、聞いてはいけない音が響く。硬いはずの鎖骨が、飴細工のように熱を持って溶け出した。

 続いて、肋骨、大腿骨、頭蓋骨に至るまで。全身二百余りの骨という骨が、一斉に内側から砕け散り、砂のように崩れていく。


「があ……っ、ああ……っ!?」


 痛み、という単純な感覚ではない。

 自分の身体を支えていた「概念」そのものが、根底から破壊されていくような、冒涜的な不快感。俺は立っていることすらできず、その場に膝から崩れ落ちた。


「な、なんだ? あの先生……」

「腰を抜かしたのか? 情けな……」


 生徒たちの声が、遠くに聞こえる。


 違う。違うんだ、馬鹿ども。これは恐怖なんかじゃねえ。


(き、気持ち悪い……! 内臓が……内臓が混ざる感覚がする……!)


 骨を失った俺の肉体は、もはやただの肉袋だ。

 胃や腸や心臓が、自重でぐちゃぐちゃに混ざり合い、衣服の下で不定形に蠢き始める。俺の口から、もはや悲鳴とも呻きともつかない、情けない声が漏れ出た。


「ぐ、にゃああああああああ……!」


 目の前に、捕食粘性体の巨大な影が迫る。

 だが、俺はもう、それを「避ける」ための骨格を持っていなかった。


(来いよ、化け物)


 俺はドロドロに溶けかけた口で、ニチャリと笑った。


(ここからは、俺たち軟体生物の土俵(テリトリー)だ)

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