第3話 無能教師と「教科書通り」の火の玉
キーンコーンカーンコーン……。
どこか間の抜けた鐘の音が、学園の広大な敷地に響き渡る。
俺は分厚い「初等魔法史」の教科書を小脇に抱え、胃の痛くなるような重圧と共に教室の扉の前に立っていた。
(帰りてぇ……)
切実に、そう思った。
魔王城の最前線で勇者パーティと対峙していた時ですら、こんなに胃がキリキリしたことはない。
扉の向こうにいるのは、この国の将来を担うエリート貴族の子供たちだ。プライドはエベレストより高く、沸点は液体窒素より低い、扱いづらさの塊のような連中である。
「……ふぅ。やるか、給料分だけは」
俺は「死んだ魚のような目」をデフォルト設定にして、ガラガラと扉を開けた。
「――はい、席についてー。授業始めますよー」
俺が教壇に立つと、教室内のざわめきが一瞬だけ止まり、そしてすぐに再開された。
チラリとこちらを見た生徒たちの目には、露骨な侮蔑の色が浮かんでいる。
「何あれ。新しい先生? うわ、超地味」
「魔力、全然感じないんだけど。昨日からいる用務員の人じゃない?」
「あーあ、ハズレかよ。自習にしてくれねぇかな」
聞こえてますよー。地獄耳のスキル発動してなくても全部聞こえてますからねー。
「えー、今日から『初等魔法史』を担当するゼクスです。教科書の3ページを開いてください。今日は『魔法構成の基礎と変遷』について……」
「先生」
俺の言葉を遮るように、教室の中央から澄んだ、しかし侮蔑を隠そうともしない声が上がった。
ビクリと肩を震わせて視線を向けると、そこには窓から差し込む陽光を一身に浴びて輝く、金髪の美少年がいた。
公爵家嫡男、レオナルド・フォン・ローゼンバーグ。
「はい、何でしょう、ローゼンバーグ君」
「そのような退屈な講義、時間の無駄だと思いませんか? 我々が学びたいのは、歴史の埃をかぶった理論ではなく、戦場で即座に勝利を掴むための、実践的な魔法です」
(……出たよ、実力主義マウント)
俺は心の中で特大の溜息をついた。
魔族も人間も、力のある若造ってのはどうしてこうも好戦的なのか。
「い、いやぁ……私はただの臨時講師でして、そんな大層な魔法は……」
「謙遜は美徳ではありませんよ。さあ、基礎中の基礎、『ファイアボール』で構いません。貴方がこの教壇に立つに相応しい実力があるのか、まずは見せていただけませんか?」
レオナルドが挑発的な笑みを浮かべる。教室中の生徒が、値踏みするような視線で俺を見つめていた。
ここで断れば、今後の授業が学級崩壊することは確定だ。
(仕方ない。軽くあしらうか)
俺は渋々、チョークを置いた。
「……分かりました。では、基礎魔法がいかに重要か、実演しましょう」
俺は右手を軽く前に突き出した。
意識するのは、魔力の「完全制御」。無駄な熱量拡散、不必要な発光、余剰な運動エネルギー。それら全てを削ぎ落とし、純粋な「燃焼現象」だけを抽出する。
「――『火球(ファイアボール)』」
ボッ。
俺の手のひらの上に、ピンポン玉サイズの青白い火の玉が出現した。
音もなく、揺らめきもなく。完全な球体を維持したまま、空中でピタリと静止する。
表面温度は三千度を超えているが、熱遮断結界を三重にコーティングしているため、周囲の空気すら揺らがない。魔力ロス率は0.0008%。理論上の限界値に近い、至高の『ファイアボール』だ。
(どうだ。この完璧な静寂。プロが見れば卒倒するレベルの超絶技巧だぞ)
俺は内心でドヤ顔を決めつつ、生徒たちの反応を待った。
教室が静まり返る。
「…………ぷっ」
誰かが吹き出した音が、静寂を破った。
「……あはははは! 何それぇ!」
「ちっさ! ライターの火かよ!」
「熱くもねぇし! 古臭い昭和の魔法?」
(昭和ってなんだよ! 知らん元号でディスるな!)
教室中が、爆笑の渦に包まれた。
俺は呆然と、自分の手のひらの上の芸術品(ファイアボール)を見つめた。
「ふふっ……」
レオナルドが肩を震わせて笑っていた。
「いや、失敬。まさかこれほどまでに『枯れた』魔法を見せられるとは思いませんでしたよ。見てください、その豆電球のような弱々しい光。熱気も覇気もない。まるで先生の人生そのもののように、こじんまりとしていて退屈だ」
レオナルドが立ち上がり、優雅に指を鳴らした。
「魔法とは、こうあるべきです!」
ドォォォォン!!
レオナルドの手のひらから、バスケットボール大の紅蓮の炎が噴き上がった。
ゴウゴウと凄まじい音を立てて燃え盛り、熱波が教室の前列にいた生徒の髪を焦がす。火の粉がバチバチと飛び散り、黒板の縁が炭化していく。
「キャー! レオ様素敵ー!」
「すげぇ! 教室の中でこの火力!?」
生徒たちは熱波に顔をしかめながらも、そのド派手な演出に大喝采を送っている。
「どうですか、先生。これが『魂』の入った魔法です。貴方の魔法には、見る者の心を震わせる情熱(パッション)がない。ただ教科書通りに術式を組んだだけの、死んだ魔法だ」
レオナルドは勝ち誇った顔で炎を消し、決定的な一言を突き刺した。
「はっきり言わせてもらえば……僕たちの踏み台にすらならない、凡庸さです」
(…………はぁぁぁぁぁぁぁ!?)
俺の心の中で、何かが荒ぶりかけた。
馬鹿か、こいつらは! その無駄な爆音と熱波は、魔力が制御しきれずに外へ漏れ出してる証拠なんだよ! エネルギー効率で言えば精々15%程度! 残りの85%をただの騒音と暖房としてドブに捨ててるのと変わらんのだぞ!? 俺のファイアボールは、対象に接触した瞬間にのみ全熱量を解放する一点集中型だ。もし俺がこのボールを床に落とせば、この校舎の半分は消し飛ぶんだぞ!?
喉まで出かかった膨大な技術解説と罵倒を、俺は必死に飲み込んだ。
俺の任務は潜入調査。あくまで「無能な窓際教師」を演じなければならない。
「……はぁ。なるほど、勉強になります」
俺は引きつった愛想笑いを浮かべ、そっと手のひらの超高密度火球を握りつぶして消滅させた。
シュン、と小さく音がして、莫大なエネルギーが何事もなく霧散する。レオナルドは興味を失ったように席につき、ふあぁ、と欠伸をした。
(クソがぁ……!)
魔王城でも学園でも、評価されるのはいつだって「見た目」と「雰囲気」だけか。本質を見ようともしない節穴どもめ。
「あ、あの……先生……」
殺伐とした心で教科書に戻ろうとした時、最前列の隅に座っていた小柄な女子生徒が、おずおずと手を挙げていた。瓶底眼鏡をかけた、リリィ・アストラルだ。
「はい、何ですか」
「そ、その……今の先生の魔法……『音』がしなかったのは、どうしてですか? 普通、燃焼反応には空気の膨張音が伴うはずなのに……」
お? まさか、気付いたのか? 魔力による大気制御と音響中和のプロセスに。
「それに、あの青白い色……不純物が極限まで取り除かれた完全燃焼の色に見えました。もしかして、ものすごく高度な……」
「リリィ! お前またマニアックなこと言ってんのかよ!」
後ろの席の男子生徒が、リリィの頭に消しゴムを投げつけた。
「い、いたっ……!」
「先生の魔法がショボいだけだっての。考えすぎだろ、ガリ勉」
「うぅ……ご、ごめんなさい……」
リリィは小さくなって黙り込んでしまった。
「……えー、授業を続けます。教科書の4ページ……」
俺は淡々と授業を進めたが、誰も聞いていなかった。
◇
キーンコーンカーンコーン……。
授業終了のチャイムが、俺にとってはゴングのように聞こえた。
逃げるように教室を出る。廊下の隅で一番安い缶コーヒーを買い、冷たい液体を喉に流し込んでも、胸の焼けつくような不快感は消えない。
「プライドが……すりおろしリンゴみたいにグズグズだ……」
深いため息をつくと、廊下の向こうから教頭が歩いてきた。
「おや、ゼクス君。初授業はどうだったかね?」
「は、はい……。生徒たちの活気に圧倒されましたが、なんとか……」
「そうだろうね」
教頭は俺の言葉を待たずに被せてきた。
「君には期待していないから安心したまえ。ああ、それより、放課後の業務があるのを忘れていないだろうね? 君の本分はそちらだ。飼育小屋の掃除だよ」
「……はい。直ちに」
俺は無言で頭を下げた。教頭が去っていく背中を見送りながら、どす黒い感情が渦巻く。
(授業じゃ評価されない。魔法技術も見てもらえない。俺の居場所は、あの泥まみれの小屋だけってわけか)
いいだろう。人間相手の授業なんて、こっちから願い下げだ。
「待ってろよ、スライムども。今から最高の授業を、お前たち相手にしてやるからな……」
俺は作業着に着替えると、怒りを推進力に変えて、校舎裏の飼育小屋へと向かった。
だが、小屋に近づくにつれ、俺の肌が粟立つ。スライム独特の甘ったるい腐臭に混じって、何かが「溶けた」ような、異質な臭いが漂ってきていた。
(……なんだ、この胸騒ぎは?)
長年の戦場で培った勘が、警鐘を鳴らしている。
小屋の隙間から、ドロリとした濃紫色の粘液が、まるで生き物のように這い出してくるのが見えた。
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