第3話 北風の噂

 足跡が途切れた場所を越え、さらに北へ進むと、

 空気がひどく冷たくなった。


 草原は同じはずなのに、

 風の匂いが違う——そんな感覚があった。


「……寒くなってきたな。」


 バルトがマントを締め直す。


「ここらはこんなもんなのか?」


「いや、違う。」


 ティムールは馬を止めた。


「季節はまだ冬じゃない。

 なのに“冬の風”が吹いている。」


 兵たちの間にざわめきが広がった。


 その時だった。

 谷の向こうから、誰かがこちらへ走ってくる影が見えた。


「待て、武器は構えるな。」


 ティムールは手を挙げて隊を制した。


 影はふらつきながら近づいてくる——

 そして、倒れ込むように地面へ崩れた。


 駆け寄ると、それは敵対部族の戦士だった。

 鎧は破れ、腕に深い傷がある。

 だが血の乾き方が妙だ。


「……戦った傷じゃない。」


 ティムールは膝をつき、傷口に触れた。

 かすかに焼けたような匂い——

 斬られたというより、何か硬いものに叩きつけられた跡のようだ。


「おい、生きてるか!」


 バルトが水袋を差し出すと、男の唇が震えた。


「……お、前たちは……どこの……」


「タラスの南だ。敵じゃない。」


「……逃げてきた……あいつらから……」


 男は震える指で、北を指した。


「誰だ? モグールか?」


 男は首を振る。


「違う……あいつらは、戦いに来たんじゃない……

 村を……まるごと……連れていく……」


 兵たちが息を呑む。


「どういうことだ?」


「わからない……でも……

 気づいたら、後ろから囲まれていた……

 音が……なかった……」


 男は空を見つめて、言葉を探すように呟いた。


「風みたいだった……

 気づけば仲間が消えて……

 気づけば村がなくて……

 気づけば……俺だけで……」


 そこで男の声は途切れ、肩が震えた。

 泣いていた。


「戦って……すら、いない……

 なのに……負けたんだ……」


 その言葉に、隊の中で寒気が走った。


 ティムールは男の肩に手を置く。


「敵の数は?」


「見えなかった……

 でも……一人じゃない……

 もっと……遠くから来た気がする……

 草原の匂いじゃ、なかった……」


 ティムールは目を細めた。


(やはり……草原の部族ではない。

 靴跡も、消えた村も……全て繋がっている。)


 男は最後の力を振り絞るように言った。


「……頼む……あいつらに……気をつけろ……

 逃げられるなら……逃げろ……」


 そして意識を失った。


 兵たちは誰も言葉を発せなかった。

 ただ北風が隊の間を抜け、冷たく吹きつける。


「ティムール……これ、どうする?」


 バルトの声は小さかった。


 ティムールは空を仰いだ。

 北から吹く風が、耳元でざわめく。


(戦じゃない……もっと違う“何か”だ。)


 恐怖ではなく、

 「未知のものに触れた」ときだけ起こる静かな感覚。


 やがて、ティムールは馬を降り、隊に向き直った。


「……この男を連れて帰る。」


「帰るのか?」


「ああ。

 この話は評議会に伝えなければならない。」


 ティムールの声は落ち着いていた。


「そして……もう一度北に戻る。

 今度は、もっと深く。」


 バルトは息を飲んだ。


「お前、何を探すつもりだ?」


「敵が何者なのか。

 そして——」


 北の空を見つめたティムールの目は鋭かった。


「草原に何が“入り込もうとしている”のか。」


 風だけが答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る