第8話

リーチュとの奇妙なお茶会が日課となってから、アシュトン・バレフォール自身は、自分に何かの変化が起きているとは全く自覚していなかった。


彼の日常は、以前と何ら変わらない。

朝は誰よりも早く騎士団の練兵場に現れ、夕暮れまで若者たちに厳しい訓練をつける。

書類仕事は山のようにあり、食事は味のしない栄養補給の作業。

そして、眠るだけの宿舎に帰る。

そのはずだった。


「そこだ! 剣先が甘い! そんなことでは実戦では死ぬぞ!」


練兵場に響き渡る、アシュトンの容赦ない叱責。

新米騎士たちは、氷の騎士団長の気迫に完全に呑まれ、震え上がっている。

いつもの光景だ。

アシュトンの眉間の皺は、今日も深く刻まれていた。


厳しい午前の訓練が終わり、短い休憩時間。

騎士たちが木陰でぐったりと座り込む中、アシュトンは一人、離れた場所で水筒の水を呷っていた。

乾いた喉を潤しながら、彼は、ふと昨日の午後の出来事を思い出していた。


(……『これは毒見よ』、か。あの女、とんでもないことを言う)


リーチュが、自信満々にハーブクッキーを差し出してきた時の顔が、脳裏に浮かぶ。

傲慢なようで、どこか楽しそうで、不思議な女だ。

そして、あの甘くないクッキーの、意外なほど……悪くない味が、舌の上に蘇る。


その瞬間。

アシュトンの鉄仮面のように硬い口元が、ほんの、ほんのわずかに、ふ、と緩んだ。

それは、笑顔と呼ぶにはあまりに些細な変化。

例えるなら、凍てついた湖の表面に、一瞬だけ走った小さな亀裂のようなものだった。


だが、その奇跡の瞬間を、偶然にも一人の若い騎士が目撃してしまった。


「え……?」


騎士は、自分の目を疑った。

そして、慌てて隣の同僚の肩を揺する。


「お、おい、見たか!? 今、団長が……!」


「あ? 何だよ、うるさいな。疲れてんだよこっちは」


「団長が、笑ったんだ! 今、確かに!」


「……はぁ? お前、とうとう暑さで頭がおかしくなったか?」


誰も、彼の言葉を信じようとはしなかった。

『氷の騎士』が笑う。

それは、雪だるまが火を噴くとか、石像が歌い出すというのと同じくらい、あり得ないことだったからだ。

騎士は「見間違いだったのか……?」と首をひねるしかなかった。


しかし、その日を境に、王国騎士団では奇妙な噂が囁かれ始めることになる。


「なあ、聞いたか? 最近、団長の様子が少しおかしいらしい」


「ああ、知ってる。俺も見たんだ。執務室で書類を読んでる時、一瞬だけ、眉間の皺が消えてた」


「俺なんか、昨日、食堂で団長がスープを飲んでる時に、『悪くない』って呟くのを聞いたぞ! あの味のしないスープをだぞ!?」


些細な変化。

他の誰かであれば、気にも留めないような僅かな変化。

だが、相手があの氷の騎士アシュトン・バレフォールであるだけに、その些細な変化は、騎士たちにとって天変地異の前触れのように感じられたのだ。


この奇妙な現象に、最初に確信を持ったのは、副団長のダリウスだった。

彼は、アシュトンとは騎士学校時代からの付き合いで、団長の数少ない友人でもある。


「団長、失礼します。例の遠征部隊の報告書ですが」


ダリウスがアシュトンの執務室を訪れると、主人はペンを片手に、窓の外をぼんやりと眺めていた。

その横顔は、いつもの険しさが嘘のように、どこか穏やかに見える。


「……ああ」


アシュトンは我に返ると、ダリウスから書類を受け取った。

その時、ダリウスは気づいてしまった。

アシュトンの指先に、微かに土の匂いと、ハーブのような香りが残っていることに。


「団長。何か、良いことでもありましたか?」


ダリウスが、ニヤリと笑いながら尋ねる。


「……何がだ」


「いえいえ。なんだか最近、雰囲気が柔らかくなられたような気がしまして。まるで、春の陽光を浴びた氷山のようですな」


「……気のせいだ。報告はそれだけか」


アシュトンは、ぷい、とそっぽを向いて書類に目を落とす。

その反応を見て、ダリウスは確信した。


(これは、何かあったな。それも、相当面白い何かが)


ダリウスの言葉は、騎士たちの間の噂に火をつけた。

「副団長も気づいているらしいぞ!」

「やはり、俺たちの見間違いじゃなかったんだ!」

騎士団は、にわかに「団長の変化を観察する会」と化し、誰もが遠巻きにアシュトンの動向を探り始めた。


そして、彼らは一つの事実にたどり着く。

アシュトン団長は、毎日決まって午後二時半になると、誰にも何も告げずに、一人で馬に乗って騎士団本部を出ていく。

そして、きっかり一時間後に戻ってくるのだ。


「一体、どこへ……?」


「まさか、密会……!?」


「相手は誰だ!? どこのご令嬢だ!?」


騎士たちの間で、様々な憶測が飛び交う。

だが、その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。


ただ一人、副団長のダリウスだけは、地図を広げ、アシュトンが向かう方角を指でなぞっていた。

その先にあるのは、広大なクライネルト公爵領。

そして、森の中にひっそりと佇む、一つの離宮。


「なるほどな……。『氷の騎士』を溶かすのは、王太子殿下との婚約を破棄された、あの元・悪役令嬢というわけか」


ダリウスは、誰にも聞こえない声でそう呟くと、実に楽しそうに笑った。

王国騎士団を揺るがすこの大事件の真相が、とんでもなく面白いものであることを、彼の長年の勘が告げていた。

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