第7話

アシュトンが離宮の常連客となってから、一週間が過ぎた。


午後のテラスでの奇妙なお茶会は、もはや離宮の日常風景の一部と化していた。

リーチュは薬草園の土をいじり、アシュトンは騎士団の書類に目を通し、そして午後三時になると、どちらからともなくテラスの席に着く。


会話は少ない。

だが、その沈黙が苦にならないことを、二人はすでに知り始めていた。


その日も、リーチュはいつものようにハーブティーを淹れ、アシュトンの前に置いた。

今日のブレンドは、思考を明晰にする効果のあるペパーミントが主体だ。

書類仕事で疲れた頭に良いだろう、という彼女なりの気遣いだった。


アシュトンは黙ってカップを傾ける。

リーチュは、その向かいの席で、薬草の効能をまとめた自作のノートにペンを走らせていた。

ふと、ペンを止め、リーチュはアシュトンをじっと見つめた。


(……何かが足りないわ)


お茶はある。心地よい風もある。穏やかな時間もある。

だが、完璧なティータイムには、決定的に重要な要素が欠けていた。


「そうだわ」


リーチュはぽん、と手を打った。

その音に、アシュトンが訝しげに顔を上げる。


「決めたわ。明日までに、最高のお茶請けを用意してさしあげます、騎士団長様」


「……茶請けだと?」


アシュトンの眉間に、深い谷が刻まれた。

彼の脳裏に浮かんだのは、砂糖を煮詰めたような甘ったるいケーキや、毒々しい色の砂糖菓子。

想像しただけで、口の中に不快な感覚が蘇る。


「いらん」


「あら、そう言わずに。わたくしの自信作を、ぜひ味わっていただきたいのですもの」


有無を言わさぬ笑顔でそう言うと、リーチュはノートを抱えてさっさと席を立ってしまった。

残されたアシュトンは、リーチュの淹れたハーブティーを飲み干しながら、明日の午後三時が来ることを、わずかな不安と共に待つしかなかった。


その日の夕方。

離宮のキッチンは、リーチュの工房と化していた。


「ハンナ! 小麦粉とバター、それから薬草園のローズマリーをここに!」


「か、かしこまりました! ですがリーチュ様、一体何を……」


泡だて器を片手に奮闘する侍女のハンナが、困惑したように尋ねる。

主人が作るという「お茶請け」の材料には、およそお菓子作りには似つかわしくないものばかりが並んでいたからだ。


「決まっているでしょう? 騎士団長様のための、特別なお菓子よ」


「ですが、肝心のお砂糖が見当たりませんが……」


「当然よ。砂糖は一粒たりとも使わないわ」


きっぱりと言い切るリーチュに、ハンナは「はぁ」と気の抜けた返事をするしかない。

砂糖を使わないお菓子など、パンとどう違うのだろうか。


「いい、ハンナ? これは壮大な実験なのよ。甘味という安易な道に逃げず、素材本来の味と香りで、どれだけ人の味覚を満足させられるかという挑戦なの!」


目をきらきらと輝かせ、熱弁をふるうリーチュ。

その姿は、もはや公爵令嬢ではなく、探求心の塊である研究者のそれだった。


リーチュは、ボウルに入れた小麦粉とバターに、細かく刻んだローズマリーと、ヒマラヤから取り寄せたという特別な岩塩を混ぜ込んでいく。

キッチンには、甘い香りではなく、清涼感のあるハーブと、香ばしい小麦の匂いが満ちていた。


そして翌日の午後三時。

いつものように、アシュトンはテラスの席に座っていた。

彼の前には、湯気の立つハーブティーと、小さな銀の皿に乗せられた、こんがりと焼き色のついたクッキーが置かれている。


「……これが、茶請けか」


アシュトンは、眉間に皺を寄せたまま、クッキーを睨みつけた。

見た目は普通のクッキーだが、甘い匂いが一切しない。

代わりに、鼻をかすめるのは、爽やかなハーブの香りだ。


「菓子は食わんと、言ったはずだが」


「ええ、知っているわ。だから、これは『お菓子』ではなく、『塩味の焼き物』よ」


リーチュは、しれっと言ってのけた。


「あなた、甘いものが毒だと言ったでしょう? なら、甘くないこれは、あなたにとっても毒にはならないはずよ」


なんという詭弁だろうか。

だが、リーチュの目は真剣だった。

それは、まるで自分の研究成果の発表を待つ学者のような目だった。


「……」


アシュトンは、しばらくクッキーとリーチュの顔を交互に見ていたが、やがて諦めたようにため息をつくと、恐る恐る、クッキーを一枚手に取った。

そして、ほんの少しだけ、それをかじる。


サクッ、と軽い食感。

口の中に広がったのは、砂糖の暴力的な甘さではなかった。

まず感じたのは、ローズマリーの鮮烈な香り。

次に、小麦粉の素朴な香ばしさと、バターの豊かな風味。

そして最後に、岩塩のキリリとした塩味が、全体の味を引き締めている。


それは、アシュトンが生まれて初めて経験する、「お菓子」という名の食べ物の味だった。

衝撃に、彼の動きが完全に止まる。


「……どう? まずかった?」


リーチュが、心配そうに尋ねる。

アシュトンは、何も答えなかった。

ただ、無言で、残りのクッキーを口に放り込む。

そして二枚目、三枚目と、次々にクッキーへと手を伸ばし……あっという間に、皿の上は空になってしまった。


「……!」


リーチュが驚いて目を見開く。

アシュトンは、最後のひとかけらを飲み込むと、ふぅ、と息をついた。

そして、リー-チュの方をまっすぐに見て、一言、こう呟いた。


「……悪くない」


その言葉を聞いて、リーチュは、花が綻ぶように微笑んだ。


「そうでしょう? 明日は、タイムと黒胡椒で試してみましょうか」


「……好きにしろ」


ぶっきらぼうに答えながらも、その口元が、ほんのわずかに緩んだのを、リーチュは見逃さなかった。

こうして、二人の奇妙なお茶会には、「甘くないお菓子」という、新しい楽しみが加わったのだった。

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