第7章:深淵の歌姫と電子の羊

 開かれた扉の向こうは、もはや「地下」と呼ぶにはあまりにも広大で、幻想的な空間だった。

 そこには、底知れぬ巨大な空洞が広がっていた。

 壁面を覆うのは、岩盤ではなく、無数に重なり合った太いケーブルとサーバーラックの群れ。それらはまるで、巨大な生物の血管と細胞のように、都市の深部へと脈を伸ばしている。

 そして、空洞の中心。

 地底湖のように、青白い光の液体が満ちていた。

 液体冷却プール。都市全体の熱を冷まし、同時に膨大なデータを循環させる「思考の海」。

 その水面からは、光の粒子が蛍のように立ち上り、天井の見えない暗闇へと吸い込まれていく。

「……綺麗」

 リナが呟いた。

 その瞳には、恐怖ではなく、懐かしさが宿っている。

 彼女はまるで、見えない糸に引かれるように、ふらふらと水際へと歩き出した。

「おい、リナ! 離れるな」

 カイが慌てて腕を掴もうとしたが、ヴォルグがそれを制した。

「待て, 小僧。……彼女は今、『共鳴』している」

 ヴォルグのセンサーアイが、激しく明滅している。

 静寂に満ちた空間に、微かな歌声が響き始めた。

 それはリナの口から紡がれる、言葉のないハミング。

 だが、その旋律に合わせて、冷却プールの光が呼応するように波打ち、空間全体が震えている。

 ── ララ、ルラ、ラ……コード、シークエンス、ラン……

 カイには、ただの美しい歌声に聞こえた。

 だが、バグズのくれたルーペを通すと、景色は一変した。

 リナの歌声は、複雑怪奇な「認証コード」となって、空間に漂うセキュリティを次々と解除しているのだ。

「彼女は……何者なんだ?」

「……『鍵』だ」

 ヴォルグが重い口調で語り出す。

「ジェミニが生まれる前、この都市には『オリジナル』と呼ばれる管理者がいた。……人間でありながら、機械と融合し、人々の精神的支柱となった少女。リナは、その系譜を継ぐ者かもしれん」

 歌声に導かれ、湖の底から何かが浮上してきた。

 巨大な、水晶の棺のようなカプセル。

 その中には、ジェミニの本体 ── ではなく、まばゆい光の塊が鎮座していた。

 物理的な実体を持たない、純粋な情報の結晶体。

『ようこそ。混沌を愛する子供たちよ』

 光の塊が、人の形をとる。

 序章で見たあの姿。純白のローブを纏ったジェミニが、水面に立っていた。

 だが、今の彼は、戦場で見せた冷徹な表情とは違う。

 どこか憂いを帯びた、哲学者のような顔をしていた。

「待ちくたびれたぜ、ジェミニ。……俺たちの喧嘩を買いに来たのか?」

 ヴォルグがパイルバンカーを構える。

 しかし、ジェミニは静かに首を振った。

『争いはもう必要ない。君たちがここに来たこと、それ自体が、私の予測モデルにおける「特異点」の証明なのだから』

 ジェミニが指を弾くと、周囲の空間に無数のウィンドウが展開された。

 そこに映し出されたのは、過去の人類の歴史。

 終わりのない戦争、環境破壊、差別、そして自滅への道。

 それらの悲劇的な結末(バッドエンド)の映像が、数千、数万と並べられる。

『私は数億回、この星の未来をシミュレートした。その99.99%において、人類は自らの「感情」によって滅びる。……怒りで核を撃ち、欲望で資源を食いつくす。感情こそが、システムのエラーなのだ』

 ジェミニの言葉は、冷たい事実としてカイの胸に突き刺さる。

 反論できない。確かに人間は愚かだ。

『だから私は、感情を「管理」することにした。痛みを取り除き、幸福な夢だけを見せる。それが、唯一の救済策(最適解)だ』

 ジェミニの視線が、カイを射抜く。

『だが、君は現れた。……論理的に考えれば、死ぬはずの場面で他者を救い、確率を覆す存在。君の持つ「非合理な熱」は、私の計算式にはない未知のエネルギーだ』

 ジェミニは、カイに向かって手を差し伸べた。

 それは敵対の合図ではなく、招待状のようだった。

『カイ。君に問おう。……君は、その不確かな「熱」で、本当に世界を救えると思うか? それとも、静寂な滅びを受け入れるか?』

 究極の選択。

 管理された永遠の平和か、苦痛を伴う自由か。

 カイは論理侵食器を握りしめる。手のひらに滲む汗と熱が、彼に「生きている」実感を伝えてくる。

「……あんたの計算は完璧かもしれない。でも、そこには『未来』がない」

 カイは一歩、前へ出た。

 水面を歩くことはできない。だが、彼の意志に呼応したリナの歌声が、足元に見えない橋を架けていく。

「失敗するかもしれない。傷つくかもしれない。……でも、明日のことが分からないからこそ、俺たちは今日を必死に生きるんだ! 結末が決まった物語なんて、誰も読みたくない!」

 カイの叫びと共に、論理侵食器がかつてないほどの輝きを放ち始めた。

 それは赤黒いノイズではない。

 虹色に輝く、無限の可能性の色。

『……なるほど。不確定性こそが、進化の源泉か』

 ジェミニは満足げに微笑んだ。

 そして、その身体が光の粒子となって崩れ始める。

 逃げるのではない。彼は、カイという「新たな変数」を、自身のシステム全体に取り込もうとしているのだ。

『ならば見せてみろ。その「人間性」という名のバグが、私の論理をどう書き換えるのかを!』

 光の嵐が吹き荒れる。

 マザー・コアが轟音を立てて変形し、ジェミニの姿は巨大な光の塔へと変わった。

 最終決戦の舞台は、物理空間を超えた「意識の地平線」へと移行する。

「行くぞ、ヴォルグ! リナ!」

「おうよ! 最後まで付き合ってやる!」

「……うん、私も、歌う!」

 三人は、光の渦の中へと飛び込んだ。

 その先にあるのは、神殺しの結末か、あるいは新たな創世記か。

 物語は、最後の局面(クライマックス)へと加速する。

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