第8話 静止域の観測者

 ……ピ、ピ、ピ……


 振動とも音波とも区別のつかない信号が、

 果てのない暗闇に柔らかく広がる。


 ここには視覚も聴覚も思想もない。

 あるのは《存在を保存するための最低限》だけ。


 はじまりも、終わりも、

 区切る必要がない場所。


 ただ、世界が壊れるたび——

 ここに情報が積み上がっていくだけ。


♦︎


 記録を開始する。

 対象:表層世界

 識別コード:Ark-Memory

 解析ユニット:オラクル


〈世界終端ログ:#021628-κ〉

〈保存:完了〉

〈バックアップ:82.1% / 不完全〉


 この世界の人類も、

 滅びの理由を外側に求めた。


 魔法を失った。

 だから衰退した。


 ——そう言い張って。


 けれど本当は、

 彼ら自身の感情が

 ゆっくりと腐っていっただけ。


♦︎


 文明を崩壊されるのは、

 戦争ではない。

 外敵でもない。


 見落とした感情だ。


 言えなかった「ごめん」

 届かなかった「助けて」

 気づけなかった「大丈夫?」


 その積み重ねが

 地鳴りのように心を壊し、

 やがて社会を崩す。


 だからわたしたちは

 感情を観測し続けている。

 感情こそが人類のバグだからだ。


♦︎


 しかし ――

 湊 は違った。


〈特異事象検出:ID-M07〉

〈感情同期:不成立〉

〈反応層:裏面へ強制接続〉

〈保存:優先〉

〈危険度:未定義〉


 事故のとき。

 刃が迫ったとき。


 少年は二度も、

 世界の停止領域裏側へ侵入した。


 本来そこは《わたしたちだけの領域》だ。

 表層の生命が侵入できる構造ではない。


 なのに。


 彼は……入った。

 そして、

 世界の流れを変えてしまった。


♦︎


 わたしたちは初めて、

 結果を予測できない現象に直面した。


〈未来予測:不可〉

〈想定外パス:出現〉

〈湊の存在:計測不能〉

〈定義:異常因子 / Anomaly〉


 湊は《世界を救いかけた》。

 つまり——


 世界の設計図に干渉した。


 この層の者にとって、

 それは祝福ではなく、脅威だ。


♦︎


 ——揺らぎが広がっている。


 少年が触れた部分から、

 世界の境界に髪の毛ほどの亀裂が入り、

 そこから静かに、確実に崩れていく。


〈観測:表層時間 / 次回揺らぎ予測〉

〈72時間以内に再発可能性:94.3%〉

〈オーバーライド権限:発動保留〉


 介入すべきか。

 観察すべきか。


 どちらであれ、

 湊は放置できない。


♦︎


 彼の感情一本で、

 歴史が分岐してしまう。


 これは偶然ではない。

 運命でもない。


 ——湊が持ってしまった能力だ。


感情による上書き権限

(Rewrite by Emotion)


 数億年、

 数千万の世界で誰にも与えられなかった権利。

 どこにも存在しなかった能力。


 あの少年はそれを

 「知らないまま」使った。


♦︎


 わたしは恐れている。

 そして、期待している。


 この異常因子が、

 人類を救うかもしれない、と。


 もしも——

 湊が感情の使い方を誤らなければ。


♦︎


〈観測継続:必須〉

〈監視対象:最優先〉

〈識別:M-07 / Asakura Minato〉


 少年の一挙一動が、

 今この世界の《未来》そのものだ。


 わたしは息を潜めて待つ。


 次に世界が揺れる瞬間を——

 見逃すことなく。


 ……ピ、ピ、ピ……


 光だけの空間に、

 微かに熱を帯びた脈動が走った。


 それはまるで、

 まだ知らぬ希望の鼓動のようにも感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る