第9話 正気と狂気のちょうど真ん中で

 2度目の《揺らぎ》の余韻は、簡単には消えてくれなかった。


 刃物を持った男。

 止まった時間。

 別の世界。

 そして、自分だけが動けたという事実。


 何度も「幻覚」と唱えようとした。

 でも、指に残る亮の体温が、否定を許してくれなかった。


(……もう、俺だけじゃ……絶対に抱えきれない……)


 ♦︎


 放課後。

 夕日が校庭を金色に染めるころ、

 湊は決心して中庭へ向かった。


 栞がベンチに座り、

 分厚い魔法文明の資料本を膝に置いている。


「……湊くん?」


 顔を上げた瞬間、心臓が跳ねた。

 逃げようと思えば逃げられる。

 でも——逃げないと決めたのは自分だ。


「……話したいことがある」


「うん。聞くよ」


 彼女は本をぱたんと閉じる。

 その動作が合図のようで、湊の胸はぎゅっと締めつけられた。


(言ったら終わるかもしれない。

 でも言わなきゃ、俺が壊れる)


「……俺……

 事故の時から……おかしいんだ」


 言葉にした瞬間、喉がつまる。

 唇が震え、声が裏返りそうになる。


「世界が……

 停止したみたいになる。

 音も、風も、全部止まって……

 俺だけが動けるみたいになる」


「……」


「その時、別の世界が見えるんだ。

 古い教室とか……

 魔法が一切ない街とか……

 教科書にはない 《魔法喪失以前の時代》 みたいな……

 でももっとリアルで……」


 湊は拳を強く握った。

 爪が掌に食い込む痛みで、何とか言葉を繋ぐ。


「昨日……あいつを助けたときも……

 全部止まった。

 俺が亮を引っ張らなきゃ……

 多分アイツ……死んでた……」


 そこまで言って、湊は俯いた。


「信じられないよな……

 俺だって……信じられねぇんだ……」


 本当に言いたかったのは、ここからだ。


「……怖いんだ。

 このまま誰にも言えなかったら……

 俺、どうかしちゃいそうで……」


 栞の目が揺れた。

 何も言わないまま、湊が言葉を探すのを待っている。


「夜、寝ようとすると……

 あの7秒が頭ん中に繰り返される。

 飛行機雲とか……電線とか……

 魔法が無かった世界の空……

 あれが、《本物》なんじゃないかって……

 現実の方が作り物みたいに見えてさ……」


「…………」


「昨日……全然眠れなかった。

 気づいたら朝で、

 でも誰にも言えないし……

 亮にも怖くて言えなかった」


 気づけば、声がかすれていた。


「……信じなくていいし、笑ってもいい。

 ただ……聞いて欲しかったんだ……」


 言い終えた瞬間、視界がじんわり滲む。


 自分がこんな顔を見せていることが恥ずかしくて、でも止まらなくて。


(情けねぇ……でも、もう無理だ……)


 そんな湊に、栞はゆっくり近づいた。


「湊くん」


 顔を上げると、

 まっすぐな瞳が、そこにある。


「泣いていいよ」


「……っ」


「だって怖かったんでしょ?

 ひとりで抱え込んで、苦しくて……」


「……あぁ……」


「大丈夫。私は逃げないから」


 栞は背もたれに寄りかかり、空を見上げた。


「私たちが習ってきた《歴史》が正しい保証なんて、どこにもないよ。

 もし教科書が間違っていたら?

 もし何かが隠されていたら?」


 静かに続ける。


「湊くんが見た世界……

 ただの間違いだと決めつけるのは、まだ早いよ」


 その言葉がどれだけ救いだったか。

 湊は言葉にできなかった。


「一緒に調べよう。

 魔法文明の原典……

 ぜんぶちゃんと確かめよう」


「……いいのか?」


「湊くんの話だもん。

 私が聞かなくて、誰が聞くの」


 その一言に、胸が震えた。


 ♦︎


「よおーー、秘密会議か?」


 ヘラヘラ笑いながら亮が近づいてくる。

 でもその声は少しだけ震えていた。


「亮、もう大丈夫なのか?」


「イケメンは回復早いんだよ」


「その理屈はおかしい」


「まぁな。

 でも……ありがとうな、湊」


 亮は照れくさそうに後頭部を掻いた。


「お前が……助けてくれた」


「……勝手に体が動いた」


「だよな。でもそれで良かった」


 亮は真顔で言う。


「お前、なんか変だよな。

 でも俺……お前のこと信じる」


「亮……」


「言いてぇことあんなら言えよ。

 殴られても聞いてやる」


「殴らせる気はあるのか……」


「殴られ慣れてっからな」


 無茶苦茶なやつ。

 でも、そんなやつだから頼れる。


(……俺は、ひとりじゃなかったんだ)


 湊はゆっくり息を吐き、二人に向き直った。


「……ありがとな、マジで」


「礼は図書室行ってからね。」


「え?図書室?」


「原典漁るんでしょ?」

 と栞。


「よくわかねーねど、危ないにおいがしやがるなー!」

 と亮。


「でも……ちょっと怖いけど行くしかないな」

 と湊はなんとか自分を奮い立たせる。


 三人の影が夕陽に溶けて、長く伸びる。


 世界はまだ、崩れてなんかいない。

 湊は初めて、そう信じられた。


 風が少しだけ暖かかった。


 気づいてしまった以上、

 もう《普通》には戻れない)


──沈黙の先で、世界が音を殺して笑っていた。

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