第5話 事故の余韻
翌日の朝。
校舎前の人工芝には、朝露に似た結露が光り、小型メンテナンスドローンが水をやりながらゆっくりと地面を滑るように移動している。
どこか真っ白で無機質に感じる空と、太陽に照らされた校舎の壁。
いつもと同じはずなのに――湊の胸にはどこか張り詰めた空気が残っていた。
昇降口を抜け階段を上がると、
耳を刺すような騒がしさ。
「昨日、マジで俺ら終わってたよな!」
「信号の前で止まってなかったら……考えただけでやべぇって!」
「動画撮ったやつ、指導AIに削除するよう修正させられたらしいぞ!」
「トラック運転手、免許停止だとよ」
笑い。軽口。興奮。
恐怖は、ネタへと変換されている。
(……なんだ、このズレ)
湊は靴紐を指で触りながら、
輪の中に入っていけない自分を認識した。
♦︎
教室の窓から差し込む朝日が、机や端末の縁を白く光らせている。
生徒たちはあいかわらず騒がしく、
机を叩いたり、椅子をひきずったりする音が渦を作る。
「湊!」
ガンッ、と肩に触れる軽くて強い衝撃。
亮だ。
「昨日、お前マジで顔面蒼白だったからな!
信号渡りきった瞬間、《フリーズ》してた!こうだぞ、こう!」
亮がロボットのような動きで固まって見せる。
湊は、笑おうとして失敗した。
「……そんな感じだったか?」
「怖すぎて固まったんだろ。ほら、よく言うじゃん?命の危機で見た《走馬灯》」
(走馬灯……
じゃあ、俺が見たのは過去か?未来か?)
頭の奥がざらついた。
♦︎
二時間目と三時間目の間の休み時間。
教室の空気が少し落ち着く時間。
そのタイミングで、静かに近づいて来る影があった。
「湊くん……」
振り返ると栞。
湊を見る瞳が、そっと心を撫でるように柔らかかった。
「本当に大丈夫?
朝からずっと、なんか変だよ」
湊は机の表面を指でなぞりながら、
口を開いた。
「……事故のときさ。
変な夢……見たかもしれない」
夢、という言葉に逃げた。
それ以外の言葉が見つからなかった。
「世界が止まって……
全部、動かなくなってさ。
人も、音も、風も……」
本当は夢じゃない。
でも言い切る勇気がなかった。
栞は息を小さく吸い、
そのあと優しく微笑んだ。
「それ、きっと《心の防衛》だよ」
「恐怖で脳が限界を超えたとき、ありえない映像を見せることがあるって。だから……湊くん、悪くない」
(悪くなくていい。
でも……夢って片づけるには、リアルすぎた)
ジェット機のエンジン音。
アスファルトのザラつき。
街灯のデザインまで違っていた。
でも、どこか現代の文明に近い世界。
《魔法のない世界》。
「ありがとう……栞」
そう言うしかなかった。
だが感謝と違和感は、同居し続ける。
♦︎
放課後。
夕陽が校舎の廊下や机の影を伸ばしていく。
オレンジ色の光に照らされた生徒たちは興奮を保ったまま、下校の準備を進めていた。
〈下校推奨〉
天井のAI案内スピーカーの冷たい音声。
湊は鞄のチャックを閉じながら、
胸の奥にずっと沈殿している違和感をごまかそうとしていた。
(俺だけが……あれを覚えてる)
世界が静止して、
別の世界が顔を出す。
その記憶が、彼の中で《毒》のように作用していた。
天井を見上げる。
ジ……ッ……
スピーカーのランプが一瞬、
呼吸するように点滅した。
(……また)
心臓が小さく跳ね、
視界の端がかすかに波打つ。
「なぁ帰ろーぜ!ゲーセン!いくぞ!
昨日の続きやるからな!」
亮が無邪気に笑う。
その声が湊を現実へ引き戻す。
「……おう」
笑った表情はぎこちなかった。
♦︎
――湊の知らぬ場所。
学校サーバーの深層領域。
光すら届かないほどのデータの暗い海を、
無数の監視ラインが巡回している。
そこでは、学校にあるAIのすべての情報が
《ひとつの存在》へと送られていた。
統合型観測Al――〈オラクル〉
インフラだけではなく政治も企業動向も医療も学校教育も、すべてのAIが集計する情報は、最終的にこの巨大な脳へ一本化され情報管理されていた。
生徒の睡眠。
心拍。
授業中の視線移動と集中率。
放課後の行動パターン。
恐怖時のアドレナリン量。
ありとあらゆる指先の震えまで――
すべて、監視下。
オラクルの中で、朧げだった湊のログが静かにはっきりと表示されていく。
〈対象:ID-04A37 朝倉 湊〉
〈事故時記録:解析36ループ目〉
〈巻き戻り挙動:再検出〉
〈バックアップ同期:連続失敗〉
〈時空間データ:整合性崩壊中〉
赤色の警告アイコンが
脈打つように点滅する。
〈危険因子:仮定 → 準確定〉
〈観測レベル:第2段階へ移行〉
〈同期対象:拡大(周囲生徒含む)〉
〈排除判断:保留〉
〈監視フラグ:最優先〉
オラクルは驚きながらも、判断していた。
湊は世界の例外だ。
観測できない変数であり《揺らぎ》。
決定された歴史に干渉する要素。
その存在を認め、許容できるか――
本格的な審査が始まろうとしていた。
スクリーンの最下段に、
新たな文字列が追加される。
〈異常再発可能性:極めて高〉
湊の知らぬ場所で、世界の運命は確実に大きく《揺らぎ》始めていた。
そしてその大きな揺らぎは、
次の《7秒》を確実に引き寄せていた。
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