凍えた心と、鶏肉のミルクポトフ

路地裏の冷たい石畳。

俺は泣きじゃくるララ と、意識が朦朧としているミミ を見下ろし小さく息を吐いた。

スローライフ計画は、これで完全に頓挫した。

だが、今はそれどころではない。


「クロエ 、宿に戻るぞ。人目がある。俺がこっち(姉)を、お前はあの子(妹)を頼む」


「お、おう! けど、ミミちゃん! ぐったりしてるぞ!」


「ああ。背中の傷が深い。衰弱もひどい。だが、死なせはしない」


俺は檻の前に膝をつき、ぐったりとしたミミの背中にそっと手を当てる。


(ひどい…。骨まで響いてる。ただの鞭じゃない、魔力を込めた『懲罰鞭』か)


あのクズ商人、絶対に許さん。

俺は、クロエやララに気づかれぬよう、最小限の魔力で、しかし3周分の経験を込めた神聖魔法を行使する。


「――【高速治癒(ハイ・ヒール)】、及び【解毒(キュア・ポイズン)】」


「(……え?)」


俺の手が淡く光ったのを、クロエが目敏く捉えた。


「ユート、お前また、詠唱もなしに…」


「静かに。今は傷を塞ぐのが最優先だ」


ミミの背中にあった、生々しい裂傷が、まるで早送りでもしているかのように塞がっていく。

だが、ミミの意識は戻らない。


(ダメだ。外傷は治せても、長期間の栄養失調と精神的ショックは魔法じゃすぐには治せない)


「ララ 、だっけな」


俺は、震えながら姉を見つめる妹に声をかける。


「お姉さんは、ひとまず大丈夫だ。死なない。でも、すぐに温かい場所で休ませないと」


「……う、…う……」


ララは、目の前の奇跡(治療)よりも俺が姉に触れていることにまだ怯えている。


「クロエ、頼む」


俺は、ミミの体を【無限収納】から取り出した清潔な毛布でくるむと、ひょいと(Fランク冒険者には不可能なほど軽々と)横抱きにした。


「行くぞ」


宿屋『旅人の羽』。

俺の自室(簡易キッチン付き)のドアが静かに開かれる。


「……っ!」


部屋に運び込まれた瞬間、それまで泣きじゃくっていたララが再び警戒心を最大に引き上げた。

彼女は、ベッドにそっと寝かされた姉(ミミ)のそばに飛びつき、部屋の隅、ベッドと壁の隙間に陣取る。

そして、俺とクロエに向かって小さな虎が威嚇するように、牙を剥いた。


「くるな! 触るな!」


「お、おい、ララちゃん? 大丈夫だって! ボクらは味方!」


クロエが慌てて両手を上げる。


その時、ベッドの上でミミが小さく呻いた。


「……ん……ララ……?」


「お姉ちゃん! よかったにゃ!」


意識を取り戻したらしいミミは、状況が理解できず、怯えた兎のように辺りを見回す。

そして、見知らぬ部屋、見知らぬ人間(俺とクロエ)を見た瞬間顔面蒼白になった。


「ひっ……! い、いや! どこ、ここ!? あの人は!? 売られたの!?」


「だ、大丈夫だお姉ちゃん! ララが、ララが守るから!」


ララがミミを背中に庇い、姉妹は部屋の隅でお互いを抱きしめ合い、ガタガタと震えている。

特に姉のミミは、妹のララを背中に隠し俺たちを(特に男である俺を)鋭い目つきで睨みつけていた 。


(……ダメだ。完全に、人間不信(トラウマ)のど真ん中だ)


俺が不用意に近づけば、逆効果にしかならない。

俺は一歩下がり、隣にいたクロエにそっと耳打ちした。


「クロエ、あの子たちのこと、頼めるか?」


「え? ボクが?」


「ああ。俺より女の子同士の方が安心するだろう。あの様子じゃ、男の俺が何を言ってもダメだ。体を拭いて、何か清潔な服を……あ、金はこれ使ってくれ」


俺は、有り余る資金の中から金貨を数枚クロエの手に握らせる。


クロエは、俺の意図をすぐに察したようだった。

彼女は、震える姉妹を一瞥しそして、かつての自分を思い出したかのようにふっと息を吐く。

そして、ニッと笑った。


「……うん、任しといて!」


クロエは、さっきまでの戦闘的な斥候の顔から、快活な「お姉さん」の顔に切り替える。

彼女は、両手を上げてゆっくりと姉妹に近づいた。


「よっ! ボクはクロエ! 見ての通り、ただの盗賊だ! アンタたちは?」


「……っ」 ミミが息を呑み、ララが唸る。


「あー、そう警戒すんなって! 大丈夫、あのデブ(奴隷商人)はもういないよ! ボクらも、アンタたちをどうこうしようってんじゃない」


クロエは、ベッドから安全な距離を保ったまま、その場にあぐらをかいた。


「ていうか、ボクもさー、昔、信じてた仲間に裏切られてさ。死にかけたことあんだよね」


「「!」」


クロエの突然の告白に、姉妹の耳がピクリと動く。


「ま、ボクの場合は、そこの無愛想な師匠に、メシで釣られて助けられたんだけどさ!」


クロエはカラカラと笑う。


「だから分かるぜ。今、誰も信じられないって顔してる。でもさ、大丈夫。あの人、無愛想だし、面倒くさがりだし、スローライフとか言ってすぐサボろうとするけど……」


クロエは、俺を一瞥しニヤリと笑う。


「……悪い奴じゃないよ 。ボクが保証する」


その、何の裏表もない太陽のような笑顔。

それは、長い間、暗闇の檻にいた姉妹にとってあまりにも眩しすぎた。

ミミとララの警戒が、ほんの少しだけ、ほんの数ミリだけ和らいだのが分かった。


「……さて! とりあえず、そのドロドロの服、脱ごうぜ! 気持ち悪いだろ?」


クロエは、俺が渡した金貨をチャリンと鳴らす。


「ボク、ちょっとそこの服屋で、可愛い服買ってくるんだ! どっちがいい? 赤いのと、青いの!」


「……え?」


「いいから! 女の子はオシャレしねえと! 待ってろよ!」


クロエは返事も聞かずに、嵐のように部屋を飛び出していった。

残された姉妹は、呆然とその場に座り込んでいる。


俺は、その隙を見計らい静かに部屋を出る。


「(さて。クロエが服とタライ(お湯)を調達するなら、俺の仕事は一つだな)」


俺は、宿屋の主人に厨房を借りる交渉に向かった。

あの姉妹に必要なのは薬でも魔法でもない。

何よりもまず、温かく、栄養があり、そして「優しい」食べ物だ。


宿屋の厨房は、幸いにも昼の仕込みが終わって空いていた。

俺は(もちろん追加料金をたんまり払って)厨房を借り切るとさっそく調理に取り掛かる。


(さて、何を作るか)


(あの二人は、極度の衰弱状態だ。いきなりステーキ丼みたいな脂っこいものは、胃が受け付けない) (必要なのは、栄養価が高く、消化に良く、そして何よりも……心が温まるもの)


俺は【無限収納】から、次々と食材を取り出していく。


(3周目(剣聖)時代に飼育していた、地鶏『ロック・チキン』の胸肉。これなら脂が少なく、良質なタンパク質が取れる)

(野菜は……『アークライト産ニンジン』と『高原キャベツ』。それに、隠し味の『月光タマネギ』)


俺は、カンストした【料理】スキルを(見た目上は)発動させず、しかし脳内ではフル回転させ、手際よく野菜を刻んでいく。

トントントン……。

小気味よい包丁の音だけが厨房に響く。


(まず、鶏肉と野菜をオリーブオイル(もちろん自前)で軽く炒め旨味を閉じ込める)

(次に、ブイヨン(これも3周目で仕込んだ『黄金鶏のガラ』から取った特上品)を投入)

(そして……これだ)


俺が取り出したのは真っ白な液体。

『ミルクレイル』と呼ばれる、高山に生息する魔獣(温厚)から採れる、濃厚で滋養強壮に最適なミルクだ。


(これを、たっぷりと注いで……あとは、弱火でコトコト煮込むだけ) (味付けは、ヒマラヤの『千年岩塩』とドワーフの『白胡椒』でごくごく薄めに)


やがて、厨房から宿屋の廊下へ、そして、俺たちが借りている二階の部屋へと、湯気と共に信じられないほど「優しい」匂いが漂い始めた。

バターでもクリームでもない、ミルクと野菜と鶏肉の純粋な旨味が凝縮された、甘くまろやかな香り。


「……ん?」


部屋の隅で、クロエが買ってきたお湯で体を拭いてもらいながらも、まだ警戒を解かずに固まっていたララ の鼻が、ぴくんと動いた。


「……お姉ちゃん…。なんか、いい匂い、するにゃ…」


「……え?」


ミミ も、恐る恐る鼻を動かす。

この一週間、腐ったパンと生臭い水しか与えられていなかった彼女たちにとって、その匂いはもはや現実のものとは思えなかった。


くぅぅ……。


ララのお腹が、正直に小さく鳴った。

その音に、ミミの顔が少しだけ和らぐ。


クロエは二人の体を拭き終わり、買ってきたばかりの、清潔で可愛らしいワンピース(ララには黄色、ミミには水色)を着せながらニヤニヤ笑っていた。


「へへん。だろ? あれは、ユートの『必殺技』だ。ボクもあれでイチコロだったんだぜ」


「……ひっさつ、わざ…?」


「まあ、楽しみに待ってな!」


コンコン。

控えめなノックの音。


「(!)」姉妹の体が再び強張る。


「大丈夫だって! ユートだ!」


クロエがドアを開けると、そこには湯気の立つ深皿を二つお盆に乗せた俺が立っていた。


「……できたぞ。『鶏肉と野菜のミルクポトフ』だ」


俺は、姉妹を刺激しないようできるだけ静かに部屋に入り、テーブルの上にお盆を置く。

クロエが、姉妹の背中を優しく押した。


「ほら! 冷めないうちに食えって! 大丈夫、毒なんか入ってねえから!」


姉妹は、おずおずとテーブルの前に座る。

目の前には、湯気を立てる乳白色のスープ。

柔らかく煮込まれた鶏肉、鮮やかなオレンジ色のニンジン、とろとろになったキャベツが顔を覗かせている。


ゴクリ。 今度は二人の喉が同時に鳴った。


だが、姉のミミは、スプーンを手に取ったまま、動かない。

彼女は、スープと俺の顔を交互に見比べ、震える声で呟いた。


「……毒が、入ってるかもしれないウサ」


長い間の虐待が、彼女の心をそこまで蝕んでいた。


「あ? バカ! 入ってるわけねえだろ! ユートのメシは世界一――」


クロエが怒鳴ろうとするのを、俺は手で制した。


その時だった。


「……」


匂いに負けた妹のララが、姉の制止も聞かず、おずおずとスプーンを手に取り、スープを一口口に運んだ。


「(!)」


ララの、虎の耳が、ぴょこん!と真上に跳ね上がった。


(……あたたかい)

(……やさしい、あじ)

(……しょっぱくない。くさくない)

(……おいしい……)


ララの、ずっと恐怖に強張っていた顔が、ほわっ、と、まるで雪解けのように、綻んだ。


「……おいしい、にゃ」


その、無垢な一言。

生まれたての赤ん坊のような、何の曇りもない、純粋な感想。

それを見た姉のミミの瞳から、警戒の色がすうっと和らいでいくのが分かった 。


ミミも、震える手でおそるおそるスープを一口。


「……あ……」


温かい液体が、冷え切った喉を、胃を、そして、凍てついていた心をゆっくりと溶かしていく。


俺は、そんな二人を無理強いせずただ静かに見守る。


「ゆっくりでいい。食べられる分だけでいいからな」


俺のその温かい眼差しが、最後の「鍵」だった。

ミミの大きな兎の瞳から、それまで我慢していた涙が、ポタ、ポタ、とスープ皿に落ち始めた。


「……う……うう……!」


「お姉ちゃん?」


「……おいしい、です……! あったかい、です……! うわああああん!」


一度泣き出すと、もう止まらなかった。

妹のララも、姉につられたのか、それとも味がしみたのか、 「おいしいにゃあ! おいしいにゃあ!」 と、二人して、スプーンを動かしながら、ボロボロと泣きながら、夢中でスープをかきこんでいた。


クロエが、やれやれ、という顔で俺の隣に来る。


「……また、泣かせたな、師匠」


「(知らんがな)」


食事を終え、涙も枯れ果て、そして何より、清潔な服に着替えた姉妹は、見違えるように落ち着いていた。 いや、落ち着いただけじゃない。


(……あれ?)


クロエと俺は、顔を見合わせた。

煤や汚れで隠されていた素顔が現れた二人は、俺たちが想像していたよりも、ずっと――。


「(……可愛いな)」


ララは、勝気な虎の瞳が印象的な、活発そうな美少女。

ミミは、銀髪と大きな兎耳が庇護欲をそそる、儚げな美少女。


見違えるように可憐な美少女だったことが判明する。

俺の(4度目の)スローライフ計画が、また一段と騒がしくなる予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る