路地裏の絶望と、絶対零度の介入
「……ユート?」
俺の隣で、クロエが怪訝な声を上げた。
「お前、すげえ怖い顔だぜ…?」
俺は答えなかった。
「行くな」と忠告した舌の根も乾かぬうちに、俺自身の足がその薄暗い路地裏へと向かってしまっていたからだ。
(最悪だ)
メインストリートの喧騒が、一歩踏み込むごとに嘘のように遠ざかっていく。
ここは、街の光が届かない場所。
鼻を突くのは、腐った残飯の匂いと獣の糞尿の匂い、そして…錆びた鉄のような微かな血の匂い。
そして、その元凶はすぐに視界に入った。
「(……檻、か)」
路地裏の行き止まり。
ゴミの山に隠されるように置かれた、一つの薄汚い鉄檻。
その中に、二人の小さな少女がいた。
「ひっ……! ご、ごめんなさい……ごめんなさいウサ……!」
か細い、泣きじゃくる声。
銀色のふわふわした髪、怯えに震える大きな兎の耳。
彼女は、檻の隅で必死に頭を抱えている。
「お姉ちゃんに手を出すにゃ! この悪魔!」
それを庇うように、もっと小さな少女が、痩せ細った腕を広げて立ちはだかっていた。
虎の耳と尻尾を持つ子。
二人とも、栄養失調で肋骨が浮き出ており、身にまとっているのはボロボロの雑巾と変わらない布切れだった 。
「(……獣人。それも、子供だ)」
クロエが息を呑む音が聞こえた。
「……奴隷、か。アークライトは表向き、人身売買は禁止されてるはずだが…路地裏じゃ関係ねえか」
彼女もまた、裏社会の闇を知る者としてその光景のヤバさを瞬時に理解していた。
檻の外には三人の大人の男。
一人は、見るからに悪辣な人相の、脂ぎった男(奴隷商人)。
その手には、黒光りする革鞭が握られている。
残る二人は、棍棒を腰に下げたいかにもな手下(ごろつき)だ。
奴隷商人は、ララの精一杯の威嚇を鼻で笑った。
「悪魔? どっちがだ! エサ代も稼げねえ穀潰しのくせに、口だけは達者だな、虎ァ!」
パァン! 乾いた破裂音。
鞭が空気を切り、ララの細い腕を的確に打った。
「にゃあっ!」
ララは悲鳴を上げるが、決して倒れない。
その瞳は、恐怖に濡れながらも、まだ死んでいなかった。
(……はぁ)
俺の頭痛がひどくなる。
(なんで俺の休日(スローライフ)は、こうもテンプレな悪役とエンカウントするんだ。ギルドのボルガといい、こいつといい、世界の悪意が俺に集中してないか?)
俺はまだ冷静だった。
この世界の闇は深い。
いちいち首を突っ込んでいたら、スローライフどころか命がいくつあっても足りない。
クロエも、俺の「関わるな」という最初の言葉を思い出したのか、悔しそうに唇を噛み締めながらも動かない。
だが、奴隷商人は悪役のセオリー通り、聞いてもいない情報をベラベラと喋り始めた。
「黙れ! てめぇらが元はどっかの『王家の血筋』だかなんだか知らねぇが、今は俺の商品なんだよ!」
(……ん?)
俺の眉が、ピクリと動いた。
(王家の血? ……うわぁ、出たよ。絶対面倒くさいフラグだ。ただの奴隷じゃないのか。厄介事がダブルで来やがった)
クロエも「王家…?」と息を呑む。
この姉妹が、ただの獣人ではないことを最悪の形で知ってしまった。
奴隷商人は、ララの反抗的な目がよほど気に入らないらしい。
「その生意気な目! 気に入らねえ! 妹(ララ)の方から、先に『躾け』直してやる!」
商人は、今度こそ本気で、鞭を振りかぶった。
狙いはララの顔面。
「いやああああっ!」
ララが思わず目を閉じる。
だが。
ドサッ。
鞭の音ではなかった。
重く、鈍い音がした。
「ぐ……ぅ……っ…」
「……え?」
ララが目を開けると、そこには、自分を庇うように折り重なった姉(ミミ)の背中があった。
あの、誰よりも臆病で、ずっと震えていたミミが、最後の最後で、妹を守るために自ら盾になったのだ 。
鞭は、ミミの痩せた背中を容赦無く打ち据え、彼女は声も上げられずに、そのまま檻の床に崩れ落ちた。 ピクリとも、動かない。
「……お、お姉ちゃん…?」
ララが、信じられない、という顔で姉の体を揺する。
「お姉ちゃん! 起きてよ! ねぇ、お姉ちゃん! にゃああああん!」
(…………あ)
俺の中で、何かが、プツリと切れた音がした 。 面倒くさい? スローライフ? 知ったことか。
目の前で、たった一人の家族を守ろうとした臆病な少女が、理不尽な暴力で踏みにじられた。
その事実が、俺が3度の人生で封印してきた「元・勇者」 の魂を否応なく叩き起こした。
「……ユート…?」
俺の隣で、クロエが怯えたような声を上げた。
彼女は、俺のオーラが瞬時に変わったのを感じ取ったのだ。
さっきまでの「面倒くさがりな一般人」の気配が消え失せ、代わりに、底なしの静かな怒り、絶対零度の圧が俺の全身から放たれていた。
俺は、路地裏の物陰から、堂々と日向へと一歩踏み出した。
「――おい、アンタ。その子たちから、今すぐ手を離せ」
俺の静かな声は、ララの泣き声が響く路地裏で妙にクリアに響いた。
「あぁ?」
奴隷商人が、ようやく俺たちの存在に気づき鬱陶しそうに振り返る。
「なんだテメェら。ガキが二匹。冷やかしか? 消えろ。ここはテメェらの来るとこじゃねえ」
二人の手下も、面倒くさそうに棍棒を手に取りこちらへ威嚇するように歩いてくる。
クロエが、即座に戦闘態勢に入り俺の前に出ようとした。
「ユート、こいつら…!」
俺は、そんな彼女の肩を片手で静かに制した。
「クロエは、そこにいて」
「は? でも!」
「いいから」
俺の有無を言わさぬ声に、クロエは「う…」と息を呑む。
彼女は、この一週間で俺が決して無謀な人間ではないことを知っていた。
そして、今の俺が本気(マジ)であることも。
手下の一人が、ニヤニヤしながら棍棒を肩に担ぐ。
「なんだ、ガキ。ヒロイン気取りか? こいつら(姉妹)みたいに、檻に入れて売ってやろうか?」
「どけ、クソガキが! 痛い目見ねえと分かんねえか!」
手下の一人が、威嚇のつもりか、大振りで棍棒を俺の頭に振り下ろしてきた。
クロエが「危ない!」と叫ぶ。
だが、俺は一歩も動かない。
(遅い。遅すぎる)
棍棒を振り下ろした手下は、なぜか自分の足が(何も無い場所で)もつれるのを感じた。
「うおっ!?」
完璧なタイミングで仕掛けた、俺の『重心ずらし』。
3周目(剣聖)の時に極めた、魔力すら使わない純粋な体術の応用だ。
手下は、自らの勢いを殺せず前のめりに倒れ込む。
その軌道上には、都合よく路地裏の硬い石壁が待っていた。
ゴツン!
「ぐ、ふ…」
間抜けな音を立て、手下の一人目が、壁に頭を強打して白目を剥き崩れ落ちた。
「な!? トシ!?」
もう一人の手下が仲間の突然の自滅に驚愕する。
「テ、テメェ! 何しやがっ――」 二人目が慌てて棍棒をベルトから引き抜こうとする。 だが、なぜか、棍棒の柄(つか)が、ベルトのバックルに、完璧な角度で引っかかった(・・・・)。
「ん? あれ? クソっ! 取れねえ!」
(因果律の小規模操作。今の俺が、無意識下で最も効率的に『事故』 を起こせる最適解だ)
男が、力任せに棍棒を引き抜こうと、渾身の力で引っ張る。
バキッ! バックルが弾け飛ぶ。
そして、男は自らの引っ張った力で盛大に後ろへひっくり返った。
ドッシャアアァァン!
彼の背後は、運悪く、ゴミの入った空き樽の山だった。
男は、ゴミの山に埋もれ手足をバタつかせている。
「(……はい、二人完了)」
この間わずか3秒。
クロエは、目の前で起こった「事故」 を口をあんぐりと開けて見ているしかなかった 。
(…は? え? 今、何が…?)
(ボルガの時もそうだった。森の『闇蛇』の時もそうだ。こいつ(ユート)…何もしないで、敵が勝手に自滅していく…!?)
路地裏には、俺と呆然とするクロエと、そして顔を真っ青にして震える奴隷商人だけが残された。
「ひ…! ま、魔法だ! 詠唱破棄の…! か、関係ねえ! こいつらは俺の商品だ! ギルドに訴えて――」
奴隷商人が、恐怖と焦りから意味不明なことを叫び始める。
俺は、そんな彼にゆっくりと近づいていく。
俺の、絶対零度の瞳から一切の感情が消えていた。
「(ギルド? 訴える?)」
(面白い。3度の人生で、魔王ですら俺にそんなセリフは吐かなかったぞ)
俺の尋常ではない圧に、奴隷商人はついに腰を抜かした。
「う、うう…! わ、わかった! 離す! 手を離すから! だが、タダとは言わねえぞ!」
彼は、最後の虚勢を張る。
「こいつらは『王家の血』だ! 特級品なんだ! き、金貨1000枚は貰わねえと――!」
彼が、言い終わる前だった。
チャリ……ン。
一つの、重い革袋が、奴隷商人の足元に投げ捨てられた。
中身が、金貨であることを示す重厚な金属音。
「……え?」
俺は、その男を(ゴミを見るような目で)見下ろしたまま言い放つ。
「金貨? 1000枚? よく分からないが、その中に『有り余る資金』 から適当に詰めておいた。言い値以上(・・・)だ 。それで買おう」
俺の【無限収納】 には、3周分の魔王討伐の報酬や、ダンジョンで手に入れた財宝が、文字通り「無限」に詰まっている。
金貨1000枚など、鼻紙にもならない。
「……」
「鍵は?」
「あ……あ……は、い!」
奴隷商人は、俺の気迫と目の前に転がる(明らかに1000枚どころではない)金袋に恐怖よりも強欲が勝ったらしい。
震える手で腰から鍵束を外し俺の足元に放り投げた。
俺はその鍵を拾い上げ、もはや奴隷商人を一瞥もせず檻へと向かう。
「あ…りがとう、ござい…ます! まいどあり!」
奴隷商人は革袋をひったくると、気絶した手下たちを助けるそぶりも見せず、一目散に路地裏を逃げ出していった。
嵐のような速さで、彼は大通りの人混みへと消えていった。
「あ……逃げた。いいのかよ、ユート。あんなクズ…」
クロエが、呆然としながら呟く。
「(どうでもいい)」
俺の関心は、もはやあの男には無かった。
俺は、檻の前にしゃがみ込み、拾った鍵を錆びた錠前へと差し込んだ。
ガチャリ。
重い音を立てて、檻の扉が開く。
中では、妹のララが、まだ意識の戻らない姉(ミミ)を抱きしめ、俺を睨みつけていた。
「ひっ…! くるな! お姉ちゃんに、近づくなにゃあ!」
彼女は痩せ細った腕で、必死にミミを庇おうとする。
その瞳は、恐怖と、絶望と、そして消えかかってはいるがまだ折れていない「虎」の光を宿していた。
俺は、檻の入り口で動きを止めた。
そうだ。
いきなり踏み込めば、この子を余計に怯えさせるだけだ。
俺は、自分の中から「元・勇者」の圧を完全に消し去る。
意識を、いつもの「Fランク冒険者」に切り替える。
俺は檻の外でしゃがみ込み、彼女たちの目線に合わせるようにできるだけ体を小さくした。
「……大丈夫だ」
俺は、できる限り優しい声を出す。
3度の人生で、泣き叫ぶ子供をあやす時に使ったあの声色だ。
「もう、あの男はいない。君たちを殴る人間もここにはいない」
「……うそだ。人間は、みんな……ウソつきだにゃ…」
ララの瞳が俺を拒絶している。
(無理もない。これだけの仕打ちを受けてきたんだ)
「俺は、君たちを『買った』 。……でも、奴隷にするためじゃない」
俺は、彼女の背後、ぐったりと動かないミミに視線を移す。
(マズいな。呼吸が浅い。鞭の打ち所が悪かったか、それとも衰弱がひどいか。一刻も早い治療が必要だ)
「……まずは、そのお姉さんを、治療しないと」
俺は、ゆっくりと手のひらを上にして手を差し出した。
「俺を信じろとは言わない。でも、お姉さんを、このままにはしておけないだろ?」
ララは、俺の差し出された手と、俺の顔を何度も何度も見比べた。
俺の目にあの奴隷商人と同じ、下卑た光がないか探るように。
「……ほん、と…?」
「ああ。本当だ」
俺が静かに頷くと。
ララの、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れた。
彼女の大きな虎の瞳から、我慢していた涙がダムが決壊したように溢れ出した。
「……お姉ちゃんが……! お姉ちゃんが、死んじゃうにゃ……! うわああああん!」
「(……よし)」
俺は、泣き崩れるララの小さな頭を(今はまだ)撫でず、代わりに、背後で立ち尽くしていたクロエに声をかけた。
「クロエ」
「! お、おう!」
「手伝ってくれ。この子たちを宿に運ぶ」
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