第一章:信頼の揺らぎ

東京、世田谷区。古びた雑居ビルの一室。

無数のモニターに囲まれた暗がりで、三宮 涼(さんのみや りょう)はキーボードを叩いていた。元引きこもりの天才ハッカーである彼は、現在はセキュリティコンサルタントとして、企業の影でサイバー防衛を担っている。


手元のスマートフォンが震えた。画面には「恵美」の文字。

恵美は、外資系セキュリティ企業「SecureGuard」の日本支社でシステムエンジニアとして働いている。涼とは大学時代の同級生で、腐れ縁のような関係だ。互いに気心の知れた友人だが、それ以上の関係には踏み込めずにいた。

普段は冷静な彼女が、勤務時間中に電話をかけてくることは珍しい。


「もしもし、恵美? どうしたんだ」

「涼……助けて。変なの。本社の認証サーバーとの同期ログが、おかしいの」


受話器越しの恵美の声は、明らかに動揺していた。

SecureGuardといえば、セキュリティ業界のトップブランドだ。そのシステムに異常があるなど、通常では考えられない。


「落ち着いて。具体的に何が起きている?」

「今のところ、表向きは何も起きていないわ。でも、内部の監査ログに、奇妙なデータ転送の痕跡があるの。ほんの数キロバイトだけど、定期的に外部へ送信されているような……」

「送信先は?」

「それが……偽装されているみたいで、特定できないの。でも、タイミングが変なのよ。認証トークンのシード値同期のプロセスと同時に動いている」


涼の表情が険しくなった。

シード値。それは、ワンタイムパスワードを生成するための「種」となる数字だ。この種が漏れれば、世界中のユーザーが持っている物理トークンは、ただのプラスチックの塊と化す。ハッカーは、手元で同じパスワードを生成し、なりすましてログインし放題になる。


「恵美、すぐにそのログのコピーを暗号化して送ってくれ。俺も見てみる」

「うん、わかった。でも、もしこれが本当に……」

「まだ決めつけるのは早い。とにかく、データを見てからだ」


通話を切った涼は、すぐに解析用の環境を立ち上げた。

数分後、送られてきたログデータを展開する。一見すると、通常の同期通信に紛れたノイズのように見える。だが、涼の目は誤魔化せなかった。


「これは……正規のプロトコルに寄生している」


通信ヘッダの一部を巧妙に書き換え、データを外部へ運び出している。

その手口は、あまりにも洗練されていた。単なる愉快犯ではない。国家レベルの支援を受けた、高度な標的型攻撃(APT)の匂いがした。


「ターゲットは、認証の根幹だ」


涼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

もし、SecureGuardのシード値が盗まれているとしたら、影響範囲は計り知れない。世界中の主要な銀行、そして何より、米国の防衛産業が、このシステムを使っているのだ。

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