伝言板少女
中村 ちこ
第1話 喧嘩別れ
親父が死んだ。まだ五十八歳。死ぬには早い年齢だったのに、心筋梗塞でそれはそれはあっけなく。
俺は都市伝説のようなある噂を聞いた。ネットで調べてもほとんど情報が出てこないような、信憑性もない話。
そんな話にすがる思いでやってきたのは、ある駅の地下鉄のプラットホーム。四番ドアの前のベンチに少女が座っている。そう聞いたのだが、ベンチには誰も座っていなかった。
――たかが噂を本気に、俺何やってんだろ。
思わずため息が出るほど、俺の気持ちは張り詰めていた。しぶしぶベンチに腰掛けると、ちょうど次の電車が到着し、そして出発した。すると地下鉄独特の薄暗い空気が揺れる。夜遅いからか人は全然いなくて、ただただ静かだった。それが自分の中の焦燥感と、落ち込んだ暗い気持ちをよく表現しているように感じた。
俺は就職してすぐに、希望していない部署に配属された。納得がいかず、ぶー垂れてまじめに仕事をした日は多分一度もない。実家に住んでいるから帰れば晩ご飯がすぐに出てくるし、お風呂にもいつだって入れる。俺は食卓で毎日「あの上司は使えない」とか「同僚が媚び売っていてみっともない」とか、とにかく愚痴を吐き続けた。きっと親父は、それが気に食わなかったんだろう。
くたくたになって帰ったその日は金曜だった日。冷蔵庫にビールが一本も冷えていなくて、母さんに当たり散らかした。むすっとした声で「コンビニに買いに行くから」と言って、ジャケットをソファーに投げた時、親父が机を思いっきり叩いた。そんな親父を見たのは初めてだったから、一瞬ビビったけど「なんだよ」と喧嘩を売った。
「お前。実家に住ませてもらってる身分で、なに母さんに当たってんだよ」
「親父には関係ないだろ。だいたい、子どもを養うのが親の役目だろ?よくもまあ偉そうに」
「お前は大人なんだ。それが毎日毎日言い訳ばっかり言いやがって。子どもじゃないんだぞ!そんなこともわかんないのか?」
そこから俺たちは怒鳴りあいの喧嘩にまで発展した。いや、喧嘩ではないか。いつまでたっても大人にならない俺は、親父に本気で怒られたんだ。でもその時はまったくそのことに気がつけなかった。
いよいよお互い手が出るんじゃないかというタイミングで、母さんが「もうおしまい!」とズバッと喧嘩を終わらせた。俺は親父に「親父の顔なんて二度と見たくない」と、子どものように吐き捨てて家を出た。
電車から降りてきた男性が親父の顔に似ていて、ハッとした。現実に引き戻されるようにあの日の母さんの呆れた顔と、父親の真っ赤な顔を思い出した。冷たい空気が顔に当たり、急激に心も冷えた。俺はなんてバカなんだとう。なんだかすべてがどうでもよくなって、もう帰ろうと思ったその時――俺の視界の端に女の子が映った。
「こんにちは」
六歳か七歳そこらぐらいの小学一年生のように見える子ども。白いワンピースを着た女の子が、静かに声を掛けてきた。これが噂の少女なんだろうか。胸元まで伸びたサラサラの髪に、透けそうな肌。靴は履いておらず、人間には見えなかった。しかし、その姿は凛としている。俺はおそるおそるその少女に声を掛けた。
「君が死んだ人にメッセージを伝えてくれる女の子か?」
伝言板少女。死んだ人と生きてる人を繋ぐ女の子。伝言としてメッセージを受け取り、渡してくれるという都市伝説。
「私の役割は伝言板です。誰かにメッセージを伝えに行くわけではありません。私ができることは2つです。ここに来た人の伝言を受け取ること。聞きに来た人へ伝言を伝えることです」
「それは死んだ人も対象なんだろ?」
「魂があれば可能です」
「俺の親父に伝えたいことがある。喧嘩別れになっちゃったけど……本当だったら迎えるはずだった親父の誕生日プレゼントを買ったんだ。初任給で親父と母さんにって。二度と顔を見たくないなんて、あれは嘘だ」
俺はそう言ったあと、なんて続けたらいいかわからなくなって黙り込んでしまった。少しの沈黙が続き、女の子が口を開いた。
「以上でよろしいですか?」
「……あぁ」
「伝言板に記録いたしました。名前を書きますか?」
「名前?」
「私は伝言板です。宛名も差出人も、書くか書かないかは自由です。もし特定の人に当てるメッセージなら、名前を残すことをお勧めします」
死者にメッセージを伝えてくれるわけじゃないということが、淡々と説明する女の子の口ぶりから伝わった。少女は、本当にただの伝言板なんだと。
「じゃあ伝言の先頭に、後藤浩司へって残してくれ」
「承知いたしました」
「あの……君にはいつ会える?君に会う条件は何なんだ?」
「私はずっとここにいます。必要ならいつでも」
快速の電車が通過して、強い風が吹いた。その一瞬、ほんのまばたきひとつで女の子の姿は消えた。噂は本当だった。
――必要なら。
俺が伝言を伝え終わったから消えたのか、タイムリミットがあるのか。彼女はずっとここにいると言っていた。つまり俺には見えないだけで、今もここにいるのか。何一つわかったわけではないが、ひとまず伝言を残すことには成功した。
しかし残念ながら、わかってしまったこともある。彼女は伝言板であって、メッセージを届けてくれるわけじゃない。つまり、親父に俺の伝言を聞いてもらうには、親父がここへ聞きにくる必要がある。魂があれば会うことができると言ってた。果たして親父の魂はまだこの世界にあるのだろうか。四十九日を迎えていないことを希望に、俺は祈るしかなかった。
喧嘩した日の夜、結局俺はコンビニで買ったビールを片手に、公園のベンチでべろべろに酔っぱらうまで飲み続けた。頭がぐらぐらするほどに酒の回った俺が帰った時には、すでにリビングは静まり返っていた。自分がいない間に両親が寝たことにむしゃくしゃした俺は、意地悪くドアをバンっとわざと大きな音を立てて閉めた。
ネクタイを床に投げ捨てて、ベッドにダイブした俺は動画を見ながら頭を掻きむしった。仕事はうまくいかないし、家では親父に怒られる。イライラがおさまらないまま、その夜は気がつかないうちに寝落ちしていた。目が覚めた時、俺のワイシャツとスラックスはシワシワに。床には捨てられたネクタイと、冷たいスマホが落ちていた。
起きたのは、まだ朝の六時だった。飲み過ぎた俺は二日酔いで、重い体を引きずるようにして、トイレに行くために部屋を出た。異変に気がついたのはトイレから出て、キッチンで水を飲もうとリビングのドアを開けた時。母さんの焦ったような泣いてるような声が聞こえてきて、なぜか俺の手は震えた。リビングの隣にある両親の寝室を開けた時、すべてが手遅れだった。
そこには横たわっている親父と、親父のパジャマを掴んで泣いている母さんの姿。俺に気がついた母さんの第一声は「救急車」だった。
伝言を残してからちょうど一週間が経った。俺は再びプラットホームへと足を運んだ。電車の四番ドアからホームへと降りると、ベンチにはあの女の子がすでに座っていた。俺は黙ってその隣に座る。俺が何も言わずに黙っていても、彼女から話しかけてくることはなく、沈黙が続いた。俺は大きく息を吸って、静かに尋ねる。
「親父は、俺の伝言を聞いてくれたか?」
「わかりません」
……わからない?俺は彼女に伝言を残したのに、わからないと言ったのか?腹の底から沸々と怒りが込み上げてきて、思わず自分の手を強く握って、眉間にしわを寄せて女の子を睨んだ。
「おい、どういう意味だよ。なんでそんなこともわからないんだ?」
「私は伝言板です。伝言板に既読機能はありません。あなたの伝言を聞いた人の中に、あなたの父親がいたかどうか、私にはわかりません」
そう静かに、まるで機械的のように話す女の子。彼女がただの伝言板なんだと、冷たく突き放された。
「じゃ、じゃあ。親父が俺に伝言を残したかどうか、それを聞かせろ」
「この1週間の間に記録された伝言の中に、あなたの父親がいたかどうかわかりません」
「お前融通きかないな。じゃあ俺が残した伝言のあとに記録された伝言をすべて言え」
「承知いたしました。六月五日、金曜日の伝言は再生いたしますか?」
必要最低限の会話。勝手に期待して、勝手に怒っている自分が恥ずかしくなってきた。ちょっとだけ冷静になった俺は、先週彼女と初めて会った六月五日の伝言から聞くことにした。
「六月五日、明日は雨だね」
「後藤浩司へ。俺の親父に伝えたいことがある。喧嘩別れになっちゃったけど……本当だったら迎えるはずの今日、親父の誕生日プレゼントを買ったんだ。初任給で親父と母さんに。二度と顔を見たくないなんて、あれは嘘だ」
俺の伝言も再生される。本当に彼女に伝えた通り、伝えたことだけが、そっくりそのまま記録されている。
「六月六日、お母さんはあなたのことを「違う」
「六月八日、君の誕生日を祝い「違う」
「六月十一日、あなたの伝言を聞いてお別れを言わなきゃと思った。啓くんのことを愛「違う」
そこから先、関係ないと思ったものは聞かずに女の子の声をさえぎった。
「……以上です」
「親父は、来てないのか…なぜだ?」
「わかりません」
「親父はここを知らないのか?どうやったら伝わる?」
「わかりません」
「あぁ、もういい!また来る」
俺はベンチから怒り任せに立ち上がって、目の前に到着した電車へと飛び乗った。
親父はそもそも、ああやって声を荒げるような人ではなかった。あそこまで怒られたのは、あの日が初めてだったんじゃないかな。でもそんなことにも気がつかない程、俺は腐っていた。そこそこの大学を出て、まあまあな会社に就職。それでもバリバリの営業職について、稼ぎまくってやると意気込んでいた。それなのに、経理の事務に配属された。ひたすらパソコンに数字を打ち込み、領収書と睨めっこする毎日。思い描いていた大人とはかけ離れていた。
俺が想像した働く大人の姿とは、親父そのものだった。営業職で活躍するサラリーマン。大学生になれば、親父が部署のできる上司として活躍していると想像がついた。持ち帰る仕事と、帰宅後にかかってくる電話。さぞ周囲から頼りにされているんだろうなと感じた。俺も親父の血を引いてるんだ。ああやって俺も、働くんだと思っていた。
だから俺の愚痴なんて、親父にはわかりっこないと思った。仕事ができ、信頼され頼られ、ビシッとスーツを着こなす上司として活躍する親父。一方でスーツも似合わない、上司には怒られる、同期はゴマすりに励み部長から気に入られる。まるで対照的だ。
今思えば、それでも毎日静かに俺の愚痴を聞いていた親父。母さんは「そうね」「大変ね」「頑張ってね」と相槌を打ってくれていたが、親父はうんともすんとも言わない。俺はそんな親父の態度を、勝手にバカにしてるんだと決めつけていた。
初めて伝言板少女に会ってから、1ヶ月がたった。毎週金曜日の夜、彼女へ会いに行くのが日課となっていた。すっかり暑くなり、クールビズでネクタイから解放された体。親父の四十九日まで残された時間は、たったの二週間しかない。もういっそ諦めてしまおうか、そう思いながら電車を降りる。
目の前のベンチに座る女の子の服装は、初めて会った日と変わらない。髪が伸びることもなく、ただの伝言板として存在しているんだと彼女の目が語っている。あと少しで地面につきそうな足は揺れることもない。俺は黙ってベンチに座り、顔を手で覆って覚悟を決める。今日返事が無かったら、ここに来るのはもうやめよう。大きく息を吸ってから、伝言板少女に話しかけた。
「六月十九日の分から、伝言を再生してくれ」
「六月二十日、明後日は台風「違う」
「六月二十三日、いつか伝えたいって思ってたんだ。君の「違う」
「六月二十四日、バカ息子。もう来るな。――以上です」
「――待て、最後の伝言をもう一度再生してくれ」
「六月二十四日、バカ息子。もう来るな。――以上です」
名前のない伝言。でも俺にはそれが親父の伝言だとわかった。理由はなんとなく……だが間違いないと思う。理解すると同時に、怒りが湧いてくる。死んでなお、俺のことをバカにして呼ぶのか?せっかく俺は、仲直りをしたくて来てるいのに。
「ふざけんなよ!」
俺は少女肩を掴んで、思いっきり揺さぶった。女の子、いや、そもそも子どもに触っていい力じゃない強さで彼女を掴んだ。しかし少女は何も言い返すことはない。俺の怒鳴り散らした余韻が空気を揺らし、あたりは静まり返っていた。無表情で、痛がる素振りも見せない。だた静かにこちらを見つめる彼女の視線につい耐え切れず、俺はその手を離した。
――ふざけんな。そう思ったが、俺は気がついた。親父に「ごめん」と伝えていないことに。何が仲直りだ……謝りもしないで、勝手に期待して。俺は何も変わっていない。だから親父は俺をバカ息子と呼んでいるんだと。もう来るなという言葉が、親父の本心なのかはわからない。そんな簡単なことにも気づけない俺に呆れているのか、悲しんでいるのか、バカにしているのか。
目の前の女の子は伝言を読み上げただけで、そこに感情も何もない。痛かったはずの肩に手を触れることもなく、静かに座っている。喧嘩別れしたあの日と、俺は何も変わっていない。機械のような少女の前で、急激に恥ずかしさが頭からつま先まで駆け巡った。こんなんだから、俺はダメなんだ。
目を閉じて深呼吸をする。俺は親父になんて伝えたら許してもらえるのだろうか。「全部俺が悪かった」「不甲斐ない息子だ」「いつも話を聞いてくれてありがとう」「親父のことを尊敬してたんだ」「親父みたいになりたかったんだ」そう言い訳のような言葉が頭の中に流れる。でもそれじゃ何も変わらない。
親父を乗せた救急車に、母さんが同乗して病院へ向かった。俺もタクシーを配車し、親父の保険証を探した。ひっくり返った引き出しに、シワシワのワイシャツとスラックスのまま、着替えもせずに俺はタクシーに飛び乗った。搬送先は区内で一番大きな総合病院。一万円札を叩きつけてタクシーから降り、救急対応窓口に向かう。後藤だと告げると、看護師が足早に俺を案内してくれた。
そこには喉に管が刺さり、心臓マッサージを受けている親父。泣きじゃくって固まった母さん。そして医者と看護師がたくさんいた。医者が俺に気がついて、母さんに「もういいですか」と聞いた。俺はその意味を理解するより先に、反射的に「ダメだ」と言った。でも母さんが俺の手を握って「もういいです」と医者に答えた。医者に「息子さん、もういいですか」と繰り返し聞かれたとき、その意味が遅れて理解できた。
「もういいです」と言うと、そこは静かになった。親父はあっけなく死んだ。喧嘩をして仲直りもせず、子どもみたいに駄々をこねる俺を置いていった。バカな息子を残して逝くなんて、さぞ心残りとなっただろう。親不孝な俺を、親父はそう思ったに違いない。
あとから母さんに聞いたんだ。明け方、隣にいるはずの親父が冷たくて目が覚めたこと。死因が心筋梗塞だったこと。あの夜、親父は母さんに「あのバカ息子は俺の息子だ」とだけ言って寝たということ。
母さんがお葬式やらなんやら手続きをしている間、俺は心筋梗塞についてネットで調べ続けた。そこにはとても苦しくて、冷や汗、吐き気、呼吸困難になるとばかり書かれていた。親父は安らかに、静かに死んだわけじゃない。苦しんで、苦しんで、母さんの横で死んだんだ。
ふーっと長い息を吐ききった俺は、伝言板少女に話しかける。
「伝言を残したい」
「承知いたしました。何と記録いたしますか?」
「親父、ごめんな。この一言だけ記録してくれ」
「承知いたしました」
宛名も差出人もない、短い伝言。一番伝えなければならない言葉。親父が死んで、やっと気がついた大切な言葉。最初からごめんと伝言を残していたら、もっと違う未来があったのかな。俺の頬に一筋の水が流れると同時に、快速の電車が通過して、とても強い風が吹いた。次に隣を見た時、伝言板少女はもういなかった。
家に帰ると、もう母さんは寝ていた。俺は物音を立てないよう静かにドアを閉める。ワイシャツはクリーニングに持っていく袋に入れ、スラックスをハンガーにかける。パジャマを持って洗面所に行くと、鏡に映る自分が一瞬だけ親父に見えた。シャワーを浴びて、冷えた湯船に浸かる。俺は口に両手を当てて、声を殺すようにむせび泣いた。
手がしわしわになるほどの時間を、お風呂場で過ごした。体が冷え切ってくしゃみが出て、ようやく涙が止まった。お風呂から出た自分の顔があまりにも青く、思わず笑ってしまうほどだった。こんなんじゃ親父、成仏できないよな。
親父が天国で幸せに過ごせるよう、俺は心を入れ替えることにした。だから、伝言板へ行くことをやめた。
最後の伝言を残してから2ヶ月後、俺は地方へ転勤になった。飛ばされたのか、期待されているのかはわからない。しかし念願の営業部だ。親父のように丁寧に、周りの声に耳を傾け、誠心誠意人と関わる。転勤前とほとんど同じ毎日のはずなのに、愚痴は自然と出なくなった。自分が卑屈だから汚れた目で周りを見ていたんだと、ようやく気がついた。
母さんとは、毎日メッセージを送り合っている。週末には電話をして、2ヶ月に1回は実家へ顔を出す。残された母さんのことは心配だったが、テニスを始めたらしく毎日楽しそうだ。
俺は伝言板少女の噂を、時々インターネットで調べている。今思い返してみると、再生された伝言の本数が噂に対して多かったように思う。それだけみんなが、あの女の子を必要としているのだろう。しかし彼女か言った通り、必要な人の前にしか本当に現れないのだろう。ネットには「会えなかった」「偽情報」「嘘の伝説」といったスレッドがたくさん立っている。今の俺があのベンチに行っても、きっと彼女は現れない。それぐらい俺の気持ちはスッキリしていた。
転勤と共に始めた一人暮らし。母さんのありがたみを痛いほどに感じながら、自炊も頑張っている。朝起きたら親父の写真に手を合わせ、親父の好きな和菓子を切らすことなくお供えしている。きっと今頃俺の活躍を、天国から見て笑ってくれていたらいいなって思ってるがどうだろう。まだまだだなと、お尻を叩かれたい気持ちもちょっとだけあるのが本音だ。
親父の夢とあの女の子の夢を時々見る。俺と親父は伝言板少女を真ん中に3人で座って、談笑している夢だ。親父や俺が何か言うと、女の子が淡々と「はい、そうですね」と言う。俺がちょっとでも愚痴をこぼすと「今の記録しといて」と親父が言い、「今の伝言消して」と俺が言う。そんなくだらない夢を見ると、朝起きた時「親父が喝を入れてくれたのかな」と思って、気合を入れる。
親父のバカ息子は、頑張って母さんの自慢の息子になれるよう努力中です。親父の分も母さんに親孝行するからさ、見守ってくれよ。
そして今、俺は懐かしい電車に揺られている。地方の電車は地上を走るので、地下鉄は久しぶりだ。最初の伝言を残してからちょうど1年。十両編成の、四番ドア付近に座っている。明日が親父の1周忌だから、俺は法事のために帰ってきた。母さんには友達と飲みに行くと言ってきた。
心の中でひとり喋り倒している。きっと親父は成仏しただろうし、俺に伝言板少女が必要かと言われたらわからない。多分、きっと彼女には会えないと思う。でも、なんだか行かずにはいられない。こっちに帰ってくる新幹線の中で、そんな気持ちに駆られた。正直あそこに戻るつもりなんて全くなかった。それなのに、今は行かないといけないと体が言っている。
懐かしのプラットホーム。電車を降りた目の前のベンチには、誰も座っていない。一瞬期待したが、そこに少女の姿はなかった。心の中でやっぱりなと思いながらも、ベンチのはじっこに座る。機械のような少女の、温もりのかけらも感じない。ただ地下鉄ならではの薄暗さと、ほんのりとした冷たさだけが肌に突き刺さる。
ベンチに座って、いったいどれくらい時間が経っただろうか。電車が三回、目の前を通り過ぎて、もうそろそろ帰ろうかなとスマホの時間を見て立ち上がりかけた。この場所に来ることは、きっと二度のないだろう。そう思った時、電車が通り過ぎたわけじゃないのに、生ぬるい風が吹いた。そしてまばたきひとつで、隣には彼女が座っていた。
相変わらず白いワンピースを着ていて、靴の履いていない女の子。胸元あたりまである髪の毛は、長くも短くもなっていない。ただ今まで見たどの彼女よりも、透けそうな肌をしていた。
「伝言を聞きたい。最新の伝言から三つだけ聞かせてくれ」
「承知いたしました」
親父から返事がないことなんてわかっている。だってもう成仏しているだろうし、そもそもこんな噂を知りえっこない。三つにした理由は、俺の前を通り過ぎた電車の数。そんなしょうもない理由だ。三つだけ、たった三つで諦めようと思った。
「六月三日、俺こそごめんな。お前のことをいつでも見ている。仕事、頑張れよ。後藤浩司より」
俺は自分の耳を疑った。後藤浩司?本当に?俺は震える声をなんとか振り絞って声を出した。
「六月二日「待ってくれ」
自分の呼吸が浅くなっていくのがわかる。瞳が揺れ、手が冷たくなっていく。俺を見つめる少女が無表情なのが、救いのように感じた。彼女の目を見ているのに、見つめ合っているわけじゃない。目の前の「伝言板少女」という存在を認識して、少し冷静になる。
「最新の伝言を……もう一度再生してくれ」
「承知いたしました。六月三日、俺こそごめんな。お前のことをいつでも見ている。仕事、頑張れよ。後藤浩司より」
もう俺は我慢できなかった。溢れる涙を止めることもできず、握り拳に力が入り、肩が震える。なんなんだよ。親父、成仏してないのかよ。なんでここにいるんだよ。っていうかどうやって彼女を知ったんだよ。
俺こそごめんって、俺こそ!俺こそごめんなんだって。いつまでも俺のことなんて見てないで、天国で幸せな生活送ってろよ。親父は絶対天国にいける人間だろ。仕事頑張れって……ずっと気にしてたのか?俺が腐ってたせいでうまくいかない状況を、親父は気にかけてくれてたのか?
――バカなのは親父じゃねえか。
止められない涙は、俺のズボンをびちょびちょにした。拭っても拭っても溢れる水は、キリがない。呼吸を整えて落ち着こうと思ったのに、揺れる肩を抑えることができない。気がつけば俺は声を上げて泣いていた。まるで子どものように泣きじゃくった。俺と伝言板少女、二人っきり。静まり返ったホームに、俺の泣き声だけが響いた。
終電の放送が入って、少し我に帰った。一体どれだけの時間、俺はここで泣き続けたのか。涙がこんなに止まらないなんて、ちっとも知らなかった。ティーシャツの袖も、ズボンの膝もびちょびちょ。でもガサツな俺がハンカチなんて、持っているはずもなかった。
ホームに設置されている電光掲示板に目をやれば、次の次の電車のダイヤルの横に、赤い終電の文字。帰らなければ、でもその前に彼女に最後の挨拶を……そう思って涙が止まり横を向いた。しかし、伝言板少女の姿はもうなかった。いつ消えたのか。俺が気がつかなかっただけで、泣き始めた時にはもういなかったのかもしれない。
俺が「必要」としなくなったから消えたのだろう。でも最後に言いたかった。彼女自身に「ありがとう」と。俺は頭の中で、何度も何度も親父の伝言を再生する。不思議なもので、伝言板女の子が淡々と話す子どもの声を聞いたのに、頭の中で再生すると親父の声になる。抑揚の付け方、ごめんなの語尾が上がるところ、自分のことを浩司と呼ぶ時は「こーじ!」と子どもっぽく喋るところ。
俺は都合の良い夢を見ているのかもしれない。それでも親父の伝言を、心の奥底にしっかりと受け取った。俺と親父がこの世界で交わることはもうない。次に交わるのは、俺が天国に行った時だ。まあ俺が天国に行けるかどうかは怪しいが。
「親父、俺頑張るよ」
ベンチから立ち上がった俺は、振り返ることなく終電に乗った。途中でタクシー拾って帰らないとな。そんで、さすがに泣きすぎた。顔は熱いし、きっと目はパンパンに腫れてると思う。この顔を見たら母さん心配するかな。
すっかすかの電車の座席、ドアが閉まるタイミングで振り返り、一番端っこに座る。そして電車がゆっくりと動き出した。ふと視線を上げると、ベンチの前に女の子が立っている。あの場所に立つ女の子は、彼女しかありえない。俺は初めて立っている伝言板少女を見て、彼女と本当の別れになったのだと感じた。
力強く掴みかかって揺さぶった最低な男。あんな小さな女の子相手に怒鳴り散らし、何度も何度も伝言を再生させた。もしかしたら、彼女は俺を恨んでいるかも知らない……そう思う部分もあった。だからこそ、彼女にお礼を伝えたかった。
今俺を見る彼女の目は、初めて会った時と何も変わらない。いつだって強い視線なのに、感情がまったく見えない。口角が上がることも、顔色が変わることもない。しかし今、彼女が俺のことを見ている。もしかしたら、最後の最後で笑ってくれるのかな?とちょっとだけ期待した。
もちろんすぐに加速した電車から彼女が見えたのは一瞬で、笑顔は見えなかった。それでも、座っていたら地面につくことはない足。つま先を伸ばせば届くかなという幼い少女が、裸足で立って俺を見送ってくれた。それがなんだかとても嬉しかった。
母さんに「今から帰るよ」とメッセージを送る。終電に乗るほど遅くなったから、心配かけちゃったかな。帰ったら「そんな時間まで飲んでたの?」と聞かれちゃうだろう。赤く腫れた目を見てなんて言うかな。「彼女にでも振られたの?」って、彼女がいないのに聞かれるかもしれない。
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