晨星のノーマッド
北上悠
第一部
プロローグ『赤く燃え盛る劫火の中で(The Magus)』
――この世界に神なんていない。
この俺、
だってそうではないか。
もしそうでなければ、この世の不条理は全て神のせいということになってしまう。
――それでは俺の両親が死んだのも……これから自分が死ぬかもしれないのも、そういう神の気まぐれという一言で片付けられてしまうではないか。
それはたまたま、最近はだいぶ日が長くなったな〜などと考えながら、空の上に流れている途中で分岐する光の川を見上げ――どういうわけか、その光の川は俺にしか見えてないらしいのだが――フッと視点を下げた時に、廃ビルの一角にいた
で、今この瞬間も文字通りの死を贈り物として届けようとしている『ソイツ』は、どう見ても神の使者のような神々しさとは無縁の存在であった。
その容姿を一言で表すなら――怨霊。
少なくとも俺には、それ以外にこの存在を形容する術を知らない。
では今『ソイツ』はどこにいるのか?
俺のすぐ真後ろから、縄で首をくくったスーツ姿の男が平行移動で追ってきている。
絵面はとてもシュールなのだが、追われている側の身としては恐怖以外の何者でもない。
何より……。
シュルシュルと何かが擦れる音が聞こえてきて、俺は走り続けながら咄嗟に身を屈める。
頭上スレスレを通り過ぎていった『ソレ』は男の首にある物と同じ、縄であった。
それが首に縄をかけ自分を殺そうとしていることは、あまり頭の良くない俺にでも簡単に分かる。
つまりこの男……だった亡霊は、自分と全く同じ死因で俺を殺そうとしているというのだ。
しかもそれは偶然、建物の窓際にいた『ソイツ』と目があってしまったというだけで、だ。
いや――世の中の理不尽の原因は、大抵がそういう『目があった』だけという単純な理由ばかりなのかもしれない。
ただ一つだけ、間違いなく言えることがある。
「人を助けたい人間が勝手に死にかけてたら、世話ねぇよな!」
そんな言葉を吐き捨てながら、俺は日の沈みきった薄暗い住宅街を走り抜ける。
――それがあの日、一人で生き残ってしまった自分の役割なのだから。
先ほど投げられたロープが遅れながら標識に巻き付いた瞬間、ベキッと嫌な音と共にへし折られた。
それが何を意味しているのか。
あの縄がもし自分の首にくくり付けられれば、あのスーツの男の成れの果てと同じように、首が五十五度ほど傾いた変死体として明日の朝刊の一面……それどころか先にネット掲示板に晒され、変死体として検索してはいけない言葉として語り継がれることになる方が先かもしれない。
そうなれば俺は今後、人類が滅亡するかインターネットが崩壊するか……どう考えても前者の方が先だろうが、それまでの間は匿名の人間達の間で晒し者にされるわけである。
――そんなのはごめんだ。
などと冗談を考え、不適な笑みを浮かべていられる余裕があるのは、こんな状況が俺にとっては日常茶飯事だからだ。
そしてそれが日常茶飯事であるということは、同時に対処法も知っているということだ。
この先百メートル圏内にある神社の鳥居を潜れば、相手が幽霊である以上は追ってこれない。
それがどういう仕組みかは知らないし興味もないが、そういうものであるということさえ分かっていれば問題はない。
つまりこの逃走劇は終わりなき持久走ではなく、制限時間の設けられた勝ち筋のある鬼ごっこなのだ。
鳥居にたどり着くまでの残り百メートルの間で、後二〜三回あのロープを避けることができれば、階段のない神社の鳥居の中に飛び込むのはそう難しくない。
しかもあの幽霊は必ず自分の体のどこかからロープを伸ばす。
つまり投射されるロープは、絶対にあいつの体の対角軌道上なのである。
こんなもの、ドリブルしながら障害物を避けてタイムを更新するサッカー部の練習に比べれば大して難しくない。
それこそ、小学生のドッヂボールだってもう少し苛烈だろう。
俺の幽霊を見ることができる、この霊視能力とでも呼ぶべき体質は、今に始まった事ではない。
今までだってこの程度の危機、何度も退けてきた。
今回だってできるはずだ――俺は、そう単純に物事を考えていた。
鳥居までの距離、残り数メートル。
ラストスパートをかけるべく一気に踏み込もうとしたその瞬間、突然空中で体がつんのめって、前のめりに倒れた。
「ッ⁉︎」
地面に体が叩きつけられた痛みや衝撃と、遅れてやってくるギリギリと足首が締め付けられる感覚の正体を確かめるべく、俺は慌てて自分の足元を見る。
「なっ……!」
その先で起こっていたあまりにも絶望的な光景に、思わず声が漏れる。
事実だけを客観的に述べるなら、俺の足元から生えた縄がギリギリと足首をキツく締め上げていた。
こうなればもはや、逃げることすら叶わない。
まるで翼のもがれた鳥そのものだ。
「こいつっ! 自分の体からしかロープを出せないのはブラフかよ!」
意識があるかどうかも分からない存在に向かって吐き捨て、どうにかロープを千切ろうと両手で捻ったり引っ張ったりするが、一向に切れる気配はない。
無理もない――このロープは、この男の全体重を支えて千切れなかったという事実を持って、人の力ではどうにもならないという耐久試験をパスしているのだ。
サラリーマンの幽霊は俺の方へ手をかざす。
それはまるで、この男が既に自ら手放した『生』への渇望であるようにも見えた。
「なんだよ……自分から『
そんな俺の言葉に耳を傾けるようなそぶりも見せず、幽霊の男は勢いよく掌からロープを伸ばした。
一瞬でロープは俺の首に巻き付くと、ギリギリと万力のような力で首を締めつける。
「ガッ⁉︎ うぁ……っ!」
まさか死因どころか、死ぬ時の苦痛まで再現してくるなんて予想していなかった。
「く……そっ。駄、目だ……お、れが、俺が死ぬのだけは」
死ぬのが怖いわけではない。
ただ人が死ぬのに理由がないのなら、自分が生き残ったことにもし意味がないのなら――それはまるで、俺の家族が死んだことに何の意味もなかったということになるではないか……。
だからここじゃ死ねない。
生きたいのではなく、死にたくない。
いやそうではない、まだ死ぬわけには
酸欠で意識が遠くなっていく。
――俺はここで死ぬのだろうか?
だとしたら、この死に方はある意味で因果応報なのかもしれない。
俺の家族は、火事によって死んだのだという。
言い方がどこか他人事なのは、俺が実際にその場に居合わせたわけじゃないからだ。
中学校最後の年のことだ。
学校から帰って来ると、家の前に消防車やら救急車が連なり、人だかりができていた。
何事かと思って人混みを縫って玄関に近づくと、今朝まで家だったものが無機質な黒い塊へと変貌していた。
両親は死体すら見つからず、家屋が全焼していることから生存も絶望的であるとされた。
ただ俺は――両親が死んでしまったことが悲しいと思うよりも先に、どうして自分はそこにいなかったのだろう? と思ってしまったのだ。
火事の死因は火傷による外傷だけでなく、一酸化炭素中毒による窒息が多いのだという。
だとすればこれは、家族の死に目にすら会えなかった親不孝者の妥当な末路であると言えるのかもしれない……。
「――万物の始まりを象徴する火の化身たるアシャ・ワヒシュタの名において、聖火の威光を今この場に示せ」
どこからともなく、まるでゲームやアニメの魔法の詠唱のような、現実離れした言葉を紡ぐ少女の声が聞こえてくる。
ついに意識が限界を迎えたのかと思っていると、急に先ほどまで冷たかった夜風が生暖かい温風に変わった。
いや、これはむしろ――。
「熱、い?」
熱感を感じて目を開けた瞬間、視界の中に飛び込む、先ほどまでの薄暗さが嘘のような明るさに思わず目を細める。
だが、そんなことよりも俺はある一点に意識を奪われた。
周囲一帯を明るく照らしているものの正体が、轟々と燃え盛る炎の塊であったからだ。
その炎の一部が先ほどから司の首を絞めているロープが生えている幽霊の手元に飛び掛かると、一瞬にしてその手を燃やし尽くす。
その出来事にその幽霊は先ほどまで無表情だった血の気のない顔に僅かながらに驚愕の色を浮かべ、手を引っ込める。
そして手と同じように繋ぎ目が焼却されたことでロープが制御から外れたのか、急速に首を絞めていた力が消え、反射的に司は咳き込みながら酸素を求めてあえいだ。
「……アンタさ、勝手に死にかけてる馬鹿を助けるために命を賭ける人間の気持ちって、考えたことある?」
不意に真隣から先ほどまで死にかけていた人間に向けて吐いたとは思えないような辛辣な少女の声がして、俺は慌てて声の主の方を見やった。
そこにはいかにも魔女ですと自己紹介しているような帽子を被った赤髪の少女が、正面の炎の塊に照らされながら司の横にしゃがみ込んでいた。
ただ視線は一切司の方に向けず、まるで
「もしかして、アイツのこと見えてるのか?」
「はい零点」
現代としては少し古い表現になるが、この不愛想な魔女っ子はいかにも義務ですとでも言うような、淡々とした返答を返す。
「先に質問したのは私よ。疑問文に疑問文で返すとテスト零点になるの、まさか知らないの?」
まるで人を馬鹿にしたような少女の態度に、こんな状況でも思わず顔が引きつる。
「けどまぁ、地縛霊相手にここまで逃げてきたことだけは褒めてあげる。建物ごと焼き払うほどの火力を出さずに済むもの」
少女は立ち上がると、先ほどまで怯んでいた幽霊――少女曰く地縛霊とやらに分類されるそれが、無数のロープを繰り出してきた。
「なっ⁉︎ アイツ、あんなにロープを出せたのか⁉︎」
「どれだけ手数が多かろうと、発想が単調なのよ」
少女は一切怯むことなく冷静に吐き捨て、まるで炎の塊に命令するかのような口調で、俺の短い人生の中で一度も聞いたことがないような単語の羅列を紡いだ。
「
少女の唱えた呪文のような言葉に共鳴するように、その炎は俺と地縛霊の間に割り入って、殺到するロープを全て焼却する。
助けてもらった身としてはなんだが、俺個人としてはとても複雑な気分だった。
何故なら、俺が家族を失ったのは火事のせいなのだ。
火は恐れるべき、憎むべき存在であるはずである。
なのに俺の目の前で燃え盛るこの炎はどこまでも神々しくて、美しくて――そしてそれを操る少女もまた、神の化身のように思えるほど綺麗だと思った。
自分でも矛盾しているということは頭では分かっているけれども、その一方でどうしようもなく『それでいい』と納得してしまったのだ。
これが俺――善養寺司が生まれてから初めて見る魔術であり、それは間違いなく神話の聖火であると確信させるだけの威厳を持つ魔術であった。
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