物理を破壊するコード - サイバー兵器の脅威

SFCA

プロローグ:静寂の中の悲鳴

2010 年 11 月、青森県上北郡六ヶ所村。

晩秋の冷たく湿った風が津軽海峡から吹き下ろし、広大な敷地を持つ原子燃料サイクル施設を包み込んでいた。鉛色の空の下、巨大なコンクリートの塊のような建屋が沈黙を守っている。その深奥にあるウラン濃縮工場の制御室は、外界の寒風とは無縁の、空調の効いた無機質な静寂に支配されていた。


午前 8 時。

夜勤明けのスタッフと交代したばかりの制御エンジニア、安藤健一(あんどう けんいち)は、手元のマグカップから立ち上る湯気を眺めながら、深く息を吐いた。コーヒーの苦味が、まだ眠気の残る脳をゆっくりと覚ましていく。

目の前の壁一面には、巨大なスクリーンが広がり、何百ものパラメータがリアルタイムで表示されている。手元のコンソールモニターにも、複雑なグラフや数値が並ぶ。

「圧力正常、温度正常、回転数正常……。流量、バルブ開度、全てよし」

安藤は指差し確認を行い、独り言のように呟いた。

「今日も平和そのものだな」


画面には、すべてが許容範囲内に収まっていることを示す、鮮やかな緑色のインジケーターが整然と並んでいた。ここで行われているのは、遠心分離機を使ったウランの濃縮作業だ。直径数十センチ、高さ数メートルの銀色の円筒が何千本も並び、超高速で回転している。その回転数は毎分 6 万回を超え、音速を遥かに凌駕する周速で回るローターは、わずかな重心のズレや振動さえも許されない。ミリ秒単位の精密制御と、極限のバランスの上に、この「平和」は成り立っていた。


しかし、その均衡は、何の前触れもなく破られた。


「……ん?」

安藤は眉をひそめた。微かだが、床下から響くような低い唸り声が聞こえた気がしたのだ。

それは、遠くで地鳴りが起きているような、あるいは巨大な獣が呻いているような、不気味な重低音だった。

「地震か?」

隣の席の同僚に声をかけようとしたその時、低い唸り声は急激にピッチを上げ、鼓膜を突き刺すような高音の金属音へと変わった。

キィィィィィィィィン!

制御室の分厚い防音ガラスをも貫通する、悲鳴のような音。


「現場、どうなってる!? 何が起きている!」

安藤はマイクを掴んで叫んだ。しかし、モニターに目を戻した彼は、我が目を疑った。

画面上の数値は、依然として「正常」を示しているのだ。

回転数 1,064Hz、安定。振動値 0.02mm、正常。温度 45 度、正常。異常なし。

「馬鹿な……こんな音がしているのに、異常なしだと?」


『こちら現場! 第 4 ブロックの遠心分離機が……暴走しています!』

スピーカーから、現場作業員の悲痛な叫び声が飛び込んできた。背景には、何かが激しくぶつかり合う破壊音が混じっている。

『回転数が上がっている! 音がおかしい! 煙が出ています! おい、止まらないぞ! 非常停止ボタンが効かない!』

「落ち着け! こちらのモニターでは全て正常だぞ! リミッターも作動していないのか?」

安藤は震える手で緊急停止ボタン(スクラムボタン)を叩いた。

カチッという硬質な感触。しかし、システムは沈黙したままだ。警告灯の一つさえ点灯しない。画面の中のデジタルな世界は、冷徹なまでに「正常稼働中」という虚偽のステータスを返し続けていた。


ガラス越しに見下ろす広大な遠心分離機室で、信じられない光景が展開されていた。

整然と並んでいた銀色の円筒の一つが、まるで目に見えない巨人の手によって雑巾のように絞られ、弾け飛んだのだ。

高速回転するローターがケーシングを突き破り、超音速の榴散弾となって四方八方に飛び散る。その破片が隣の遠心分離機をなぎ倒し、ドミノ倒しのように破壊が連鎖していく。

「うわぁぁぁ!」

作業員たちが頭を抱えて逃げ惑う。


「止めろ! 誰か電源を元から落とせ!」

安藤は絶叫した。

目の前で物理的な破壊が進行し、鋼鉄が飴細工のように引き裂かれているのに、目の前のモニターは「平穏」を保ち続けている。

この認知を歪ませるほどの矛盾。現実とデジタルの乖離。

それこそが、人類が初めて遭遇する「サイバー兵器」の実戦投入だった。


目に見えない 500 キロバイトの悪意、「Vortex(ヴォルテックス)」。

それは、画面の中のデータを盗むのではなく、現実世界の物理法則に干渉し、鉄とコンクリートを破壊するために解き放たれた怪物だった。

そして、その脅威はまだ、序章に過ぎなかった。

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