第一章:見えざる震動と予兆
東京、秋葉原。
電気街の喧騒から一本路地に入った、築 30 年は下らない雑居ビルの一室。
錆びたドアの向こうには、薄暗い空間が広がっていた。窓は遮光カーテンで閉ざされ、部屋を照らすのは数台のモニターが放つ青白い光と、サーバーラックのステータスランプの点滅だけだ。
床には絡まり合った LAN ケーブルが蛇のように這い、飲みかけのエナジードリンクの空き缶や、カップ麺の容器が散乱している。典型的な「ハッカーの巣窟」だが、ここには一つだけ違う点があった。壁に貼られたホワイトボードには、複雑なネットワーク図と共に、警察庁からの感謝状が無造作にマグネットで留められているのだ。
この部屋の主、三宮涼(さんのみや りょう)は、ゲーミングチェアの上であぐらをかきながら、高速でキーボードを叩いていた。
28 歳。伸び放題の黒髪が目にかかり、無精髭が少し伸びている。猫背で痩せ型の体型は、長時間のデスクワークと不摂生な生活を物語っている。
しかし、眼鏡の奥で光る瞳だけは、獲物を狙う猛禽類のように鋭かった。
「……またこれか。最近のランサムウェアは芸がないな」
涼はモニター上の解析コードを一瞥し、溜息をついた。
「暗号化ルーチンも既製品の使い回し。バックドアの設置場所も教科書通り。……美しくない」
彼はフリーランスのセキュリティ・リサーチャーだ。企業の依頼を受けて脆弱性を診断したり、未知のウイルスを解析したりするのが仕事だ。かつて中卒で引きこもり生活を送っていた時期、現実逃避のためにネットの深淵に潜り込み、独学でハッキング技術を習得した。その腕を見込まれ、あるサイバー犯罪捜査に協力したことをきっかけに、彼は「ホワイトハッカー」として表の世界へ転向した。
高卒認定を経て通信制大学を卒業し、今はこうして自分の城を構えている。
「もっとこう、知的好奇心を刺激するような、未知の脅威はないのか……」
涼が伸びをしたその時、デスクの端でスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、涼の無愛想な表情がふっと緩む。
『高村結奈』。
その名前を見るだけで、薄暗い部屋に少しだけ明かりが灯ったような気がした。
半年前に監査に入った大手重工メーカー「東都重工」。そこで出会ったのが彼女だった。
彼女は技術担当役員の秘書をしており、監査の窓口として涼をサポートしてくれた。
当時の涼は、社会復帰したばかりで人付き合いが苦手だった。専門用語を早口でまくし立てる涼に、社員たちは困惑顔を浮かべていたが、結奈だけは違った。
『三宮さん、今の「バッファオーバーフロー」というのは、コップの水が溢れるようなイメージでしょうか?』
彼女は手帳にびっしりとメモを取りながら、必死に理解しようとしてくれた。涼の過去、引きこもりだったことを知っても、彼女は偏見を持つどころか、真っ直ぐな目を見て言ったのだ。
『暗闇を知っている人は、光の強さも知っていると思います。だから、今の三宮さんはこんなに頼もしいんですね』
その言葉に、涼は救われた気がした。
「もしもし、結奈? どうしたの、仕事中じゃ……」
涼は声をワントーン明るくして電話に出た。しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの穏やかな声ではなく、切迫した悲鳴のような声だった。
『涼君、助けて……!』
「結奈? どうした、落ち着いて。何があった?」
涼は反射的に椅子から身を乗り出した。背筋に緊張が走る。
『工場が……六ヶ所村の再処理工場が、大変なの。専務と一緒に現地に来てるんだけど、遠心分離機が次々と壊れて……。現場の人たちは原因が分からないってパニックになってる』
「遠心分離機が壊れる? 老朽化か何かか? それとも地震?」
『違うの。何も起きていないのに、突然暴れ出したの。システム上は全部「正常」なの。モニターは全部緑色なのに、目の前で機械が悲鳴を上げて壊れていくのよ。まるで幽霊の仕業みたいに……』
「モニターは正常……?」
涼の脳内で、無数の情報がリンクし始めた。
物理的な破壊が進行しているのに、監視システムは正常を示している。
センサーの故障? いや、複数の機器で同時に発生するのは不自然だ。
システムバグ? 可能性はあるが、原子力施設のシステムは何重ものテストを経ているはずだ。
となると、残る可能性は一つ。
「結奈、君は今どこにいる?」
『管理棟の会議室。でも、現場の混乱が酷くて……。もしこのまま暴走が止まらなくて、放射性物質が漏れたりしたら……』
彼女の声が震えている。恐怖で押しつぶされそうになっているのが伝わってくる。
東都重工は、その工場の制御システムを納入しているメーカーだ。もしシステム欠陥が原因なら会社の存続に関わるし、何より彼女自身が被曝の危険に晒される場所にいる。
「大丈夫だ、結奈。僕が必ず原因を突き止める。その『幽霊』の正体を暴いてみせる」
涼は声を張った。力強い言葉で、彼女の不安を少しでも取り除きたかった。
「専務に代われるか? 外部接続が許されるなら、すぐにログを送ってほしい。制御システムの PLC(プログラマブル・ロジック・コントローラ)のメモリダンプと、ネットワークのパケットログだ。暗号化して僕のサーバーに送ってくれ」
『分かった、頼んでみる。……涼君、お願い。助けて』
「任せろ。君には指一本触れさせない」
通話が切れると、涼は眼鏡の位置を直し、指を鳴らした。
「さて……狩りの時間だ」
彼の指先がキーボードを叩くと、複数のターミナルウィンドウが一斉に立ち上がった。
画面に流れるのは、単なる文字列ではない。それは、現実世界を破壊しようとする悪意の痕跡だ。
涼は、自分の中に眠っていた「ハッカー」としての本能が、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされていくのを感じていた。
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