第一章:パンデミック

東京、渋谷区のシェアオフィス。

三宮涼(さんのみや りょう)は、カフェインの切れかけた頭で、海外のセキュリティフォーラムを眺めていた。

「……騒がしいな」

28 歳。フリーランスのセキュリティ・リサーチャー。中卒で引きこもりという経歴を持つ彼は、人混みを嫌い、この狭い個室に何台ものサーバーを持ち込んで城を築いていた。


画面上のチャットログが、滝のような勢いで流れていく。

『イギリスの NHS(国民保健サービス)が全滅だって?』

『ロシアの内務省もやられた』

『中国の大学もだ』

『身代金要求画面(ランサムノート)の画像、これ WannaCry(泣きたいよ)って名前か?』

『いや、WanaCrypt0r 2.0 だ』


涼は愛用の黒縁眼鏡の位置を直し、指を鳴らした。

「祭りか。それも特大の」

彼はすぐに、闇サイト(ダークウェブ)上のマルウェア検体共有フォーラムにアクセスした。すでに誰かが、この未知のランサムウェアの検体をアップロードしているはずだ。

「あった。……ハッシュ値確認。ダウンロード開始」


数分後、涼の手元には「世界を止めている元凶」のコピーがあった。

彼はそれを、インターネットから完全に隔離された解析用 PC(サンドボックス)に放り込んだ。

「さて、お手並み拝見といこうか」


実行ファイルをクリックした瞬間、サンドボックス内の仮想 Windows のデスクトップ背景が変わり、あの赤い脅迫画面が表示された。

それと同時に、ネットワークトラフィックのグラフが跳ね上がる。

「速い……!」

涼は目を見開いた。

通常のランサムウェアは、感染した PC 内のファイルを暗号化して終わる。しかし、こいつは違う。

感染した瞬間、猛烈な勢いでネットワーク上の他の PC を探し出し、自分自身をコピーして送り込んでいる。

「自己増殖型のワーム(Worm)機能付きか。しかもこの拡散速度……」

涼はパケットログを解析し、その正体に気づいて戦慄した。

「ポート 445 番……SMB(ファイル共有)の脆弱性を突いているのか? これは……EternalBlue(エターナルブルー)?」


EternalBlue。それはアメリカ国家安全保障局(NSA)が極秘に開発し、ハッカー集団「Shadow Brokers」によって盗み出され、ネット上に公開された「サイバー兵器」だ。

Windows のファイル共有機能のバグを突き、認証なしでシステム権限を奪取する。

「国家レベルの兵器を、こんなバラマキ型のランサムウェアに組み込んだのか? 狂ってる……」

これは、マシンガンを猿に持たせるようなものだ。誰かが引き金を引けば、弾がなくなるまで止まらない。


その時、涼のスマートフォンが鳴った。

『美咲』の文字。

涼の表情が一気に強張る。美咲は、新宿の総合病院で働いている。

「もしもし、美咲!?」

『涼君……どうしよう……』

電話の向こうから、美咲の震える声と、怒号のような背景音が聞こえてくる。

『病院のパソコンが全部、真っ赤になっちゃって……。電子カルテも検査機器も全部動かないの。さっき、救急車を断ったの。患者さんが目の前にいるのに、何もできない……』

美咲の声はパニック寸前だった。彼女は責任感が強い。目の前の命を救えない状況に、心が押し潰されそうになっているのだ。


「美咲、落ち着いて。君のせいじゃない。これは世界規模の災害なんだ」

『でも、手術中の患者さんもいるのよ!? もし電源が落ちたりしたら……』

「大丈夫、医療機器の制御系と事務系はネットワークが分かれているはずだ。直接生命に関わる機器は簡単には止まらない。まずは紙のカルテで対応するしかない」

涼は必死に言葉を探した。

「今、僕も解析してる。世界中の研究者が動いてる。必ず止めるから」

『涼君……お願い。怖いの。病院が、病院じゃなくなっていくみたいで……』

「約束する。僕が止める。だから君は、君のできることをしてくれ。患者さんに声をかけるだけでもいい」

『……うん。分かった。信じてる』


通話が切れると、涼はスマホをデスクに叩きつけそうになるのを堪えた。

「クソッ!」

無力感が胸を締め付ける。美咲が戦場にいるのに、自分は安全な部屋で数字を眺めているだけか。

「止めるんだ。絶対に」

涼は再びキーボードに向かった。怒りを、指先の速度に変えて。

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