死神のお仕事
@wemmmoooee30
第一章
第1話:止まった世界と、二人の死神
叩きつけるような氷雨が、アスファルトを黒く染めていく。
夜の繁華街は、傘を差した人々の群れと、ヘッドライトの光の帯で埋め尽くされていた。
「はっ……はっ……くそッ、あと五分……!」
俺、佐久間健太(さくま けんた)は、降りしきる雨を切り裂くように走っていた。
呼吸は上がり、肺が焼け付くように熱い。整えたはずの髪は濡れて額に張り付き、高価なスーツの裾も泥水で跳ねているだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。
右のポケットの中にある、硬い感触。
給料三ヶ月分を叩いて買った、ベルベットの小箱。それを指先で確かめるたびに、心臓が早鐘を打つ。
今日だ。今日を逃したら、俺は一生後悔する。
付き合って三年の記念日。予約したレストランで、彼女にプロポーズをするんだ。
交差点の信号機が、視界の端で青から赤へと点滅を始めた。
止まれば、約束の時間に遅れる。
いける。この距離なら、駆け抜ければ間に合う。
その一瞬の慢心が、運命を分けた。
濡れた横断歩道に革靴が滑る。踏み出した足が空回りし、体勢が崩れた。
同時に、視界の右側が強烈な「白」に塗りつぶされた。
――キキィイイイイイッ!!
鼓膜をつんざくブレーキ音。
雨音をかき消すほどの轟音と共に、巨大な鉄の塊が迫ってくる。
痛みはなかった。
ただ、世界がぐるりと回転し、夜空と地面が逆さまになったことだけが分かった。
「あ」
思ったのは、それだけだった。
衝撃と共に、俺の意識は唐突に断ち切られた。
***
「……あれ?」
気がつくと、俺は交差点の真ん中で立ち尽くしていた。
奇妙だった。
さっきまで体を打ち付けていた激しい雨の冷たさが、消えている。痛みもない。
何より、静かすぎる。
俺はおそるおそる、周囲を見渡した。
そして、息を呑んだ。
世界が、止まっていた。
空から降り注ぐ無数の雨粒が、まるで精巧なガラス細工のように、空中でピタリと静止している。
悲鳴を上げて逃げようとする人々も、急ブレーキをかけたトラックの運転手も、すべてが灰色の石像になったかのように固まっていた。
色彩が失われている。
ネオンの輝きも、信号機の赤色も、すべてがモノクロームの濃淡だけで描かれた、古い映画のような景色。
「なんだよこれ……ドッキリか……?」
震える声が、色あせた世界に空しく響く。
視線を足元に落とす。そこには、赤黒い液体を流して倒れている、見覚えのあるスーツの男がいた。
首があらぬ方向に曲がった、俺自身の死体。
理解が追いつかず、俺は後ずさった。
その時だ。
『――対象、捕捉』
頭上から、鈴を転がしたような、それでいて氷点下の冷たさを含んだ声が降ってきた。
見上げる。
信号機の上。
この灰色の世界で唯一、「色」を持った存在がそこにいた。
夜の闇そのものを切り取って仕立てたような、漆黒のドレス。
何重にも重なったフリルとレースは、喪に服す黒い花弁のようだ。
月明かりなどないはずなのに、腰まで届く濡羽色の長髪が、艶やかな光沢を放っている。
その顔立ちは、神が最高傑作として創ったビスクドールのようだった。陶器のように白い肌と、深淵を覗き込むような紅い瞳。
美しい。だが、決定的に「生」が欠落している。
彼女は、人間ではない。
本能が警鐘を鳴らす。あれは、死そのものだ。
彼女の細い腕には、その華奢な体躯には不釣り合いなほど巨大な――死神が持つような大鎌が握られていた。
彼女がふわりと舞い降りる。重力を無視した、羽毛のような着地。
俺の喉元に、濡れたような黒光りを放つ刃先が突きつけられた。
「……時間だ。大人しく狩られろ」
その瞳に、俺という人間は映っていなかった。
彼女が見ているのは、処理すべき「魂」という記号だけだ。
殺される。
理屈よりも先に、魂が縮み上がった。
鎌が大きく振り上げられる。
逃げる場所なんてない。俺は反射的に目を閉じた。
――ガギィンッ!!
硬質な音が響き、衝撃が走る。
だが、いつまで経っても、首が落ちる感覚は来ない。
恐る恐る目を開けると、俺と少女の間には、スーツ姿の男が割り込んでいた。
喪服のように深い黒色のスーツ。
男の手には、無骨な武器――ではなく、どこにでも売っていそうな黒い雨傘が握られていた。
彼はその傘一本で、死神の大鎌を受け止めていたのだ。
「……先輩。学習能力という機能、インストールしてないんですか?」
銀縁眼鏡の奥、知的なアイスブルーの瞳が、呆れたように細められる。
その声は落ち着いていて、まるでオフィスの同僚に小言を言うような響きだった。
「あぁ? うるさいぞ眼鏡。私の鎌を傘で受けるな、刃こぼれするだろうが」
少女――処刑姫と呼ばれているであろう死神は、露骨に舌打ちをした。
その美しい顔が、不機嫌そうに歪む。
「私の傘も特注品なんです。弁償してくださいよ」
「知ったことか。そこを退け。さっさとその魂を刈って帰るぞ。腹が減ったんだ」
「ダメです。マニュアル第3条、『対象者への状況説明』が抜けています。いきなり刈り取ると魂の鮮度が落ちて、私の査定に響くんですよ」
二人は俺を挟んで、まるで夫婦漫才のような――いや、殺伐とした口喧嘩を始めた。
俺はポカンとして、死んでいることすら忘れてその光景を見ていた。
圧倒的な「死」の気配を纏う少女と、それを涼しい顔であしらう理知的な男。
この世の終わりみたいな状況なのに、二人の会話だけが妙に日常的で、現実感がない。
「……あの、俺は」
絞り出した俺の声に、男がゆっくりと振り返る。
眼鏡の奥の瞳が、ふっと和らいだ。
「申し遅れました。今回の担当をさせていただきます、久条(くじょう)と申します」
男――久条は、流れるような所作で一礼した。
「佐久間健太様ですね。残念ながら、あなたの肉体機能は全損しました。お迎えに上がりました」
「死……んだ……?」
言葉にすると、実感が津波のように押し寄せてきた。
嘘だ。これからプロポーズするはずだったんだ。
彼女が待っているんだ。
「嫌だ……死ねない! まだ彼女に会ってないんだ! 指輪も渡してない!」
俺は叫んだ。絶望と後悔が、どす黒い感情となって溢れ出す。
その瞬間、俺の体から黒い靄(もや)のようなものが噴き出した。視界が赤く明滅し、破壊衝動が湧き上がる。
「チッ、ほら見ろ。悪霊化(ディストーション)の前兆だ。面倒になる前に処分するぞ」
少女が再び鎌を構える。その殺気に、俺の体が竦む。
だが、久条は静かに片手を上げて彼女を制した。
「お待ちください、先輩。……佐久間さん」
久条が、真っ直ぐに俺を見た。その瞳には、不思議な温かさがあった。
「肉体に戻ることはできません。それは絶対の理(ことわり)です。ですが――想いを届けることなら、まだ間に合います」
「え……?」
「あなたの未練、私が一時的にお預かりします」
久条が、パチンと指を鳴らした。
世界が歪む。
次の瞬間、俺たちは交差点ではなく、見覚えのあるレストランの窓の外に立っていた。
ガラス越しに、店内の様子が見える。
予約していた窓際の席。そこには、不安そうに時計を見る彼女の姿があった。
灰色の世界の中で、彼女だけが少しだけ色を持って見えた。
「美咲……」
ガラスに手を伸ばすが、すり抜けてしまう。声も届かない。
無力感に膝をつきそうになった俺に、久条が一本のペン――光でできたペンのようなものを差し出した。
「この空間は静止していますが、特別に干渉できるようにしました。窓ガラスに、あなたの最期の言葉を刻んでください」
「……いいのか?」
「どうぞ。ただし、時間はあまりありません」
俺は震える手で、光のペンを握った。
伝えたいことは山ほどある。でも、残された時間はわずかだ。
俺はポケットから、血に濡れていない指輪の箱を取り出し、窓枠に置いた。
そして、結露したガラスに指を這わせる。
『ごめん』
『愛してる』
『幸せになってくれ』
一文字書くごとに、胸の中のどす黒い塊が、涙となって流れ落ちていくのが分かった。
書き終えた文字は、淡い光を帯びて浮かび上がっている。
彼女には、これがどう映るだろうか。
最期の奇跡だと思ってくれるだろうか。
指輪と、言葉。
やるべきことは、やった。
「……ありがとう」
俺は久条に、そして不機嫌そうに腕を組んで待っている少女に向かって、深く頭を下げた。
体が軽くなる。
足元から、光の粒子となって体が崩れていく。
恐怖はなかった。あるのは、不思議なほどの安らぎだけだった。
「良い旅を」
久条の静かな声を背中に聞きながら、俺の意識は白い光の中へと溶けていった。
***
光の粒子が夜空へと消え、完全に気配がなくなるまで、久条蓮(レン)はその場を見上げていた。
隣では、パートナーである「処刑姫」ことエリザ・ノワールが、退屈そうに大鎌を空中に霧散させている。
「……終わったか。相変わらず無駄に丁寧な仕事だ」
「丁寧な仕事は、良い死(グッド・エンド)を生みますから。それに、無理やり狩ると後味が悪いでしょう?」
「フン。味など知らん。魂(あれ)はただのエネルギーだ」
エリザは興味なさげに鼻を鳴らすと、今度はお腹をさすった。
「それより腹が減った。魔力切れだ」
「はいはい。何が食べたいんですか?」
「決まっているだろう。あの黒い粒の入った茶(タピオカ)を寄越せ」
「……昨日の今日で、またですか」
レンはため息をつきつつ、指を鳴らして「灰色の境界」を解除した。
途端に、世界に色彩と喧騒が戻ってくる。
遠くから救急車のサイレンが近づいてくる音、雨の匂い、野次馬の声。
二人の姿は、認識阻害の術式により、一般人には「ただの通行人」として溶け込んでいる。
「今日はミルクティーにしますか? それとも黒糖?」
「……両方だ。Lサイズでな」
「経費で落ちるかな……ちゃんと領収書もらってくださいよ」
「……りょうしゅうしょ? なんだその呪文は」
「はぁ……前途多難ですね」
濡れたアスファルトを、黒いドレスと黒いスーツが並んで歩いていく。
エリザは不機嫌そうに、しかしどこか楽しげに、レンを見上げた。
「……お前、本当に変な死神だな。あの日、私の前に現れた時から変わっていない」
その言葉に、レンは眼鏡の位置を直しながら、微かに苦笑した。
「ええ。あなたの方こそ、相変わらず手のかかるお姫様だ」
――あの日。
レンがこの「最凶の処刑姫」の監視役を命じられた、一週間前のこと。
あの衝撃的な辞令を受けた日のことを、レンは今でも鮮明に覚えている。
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