それぞれの日常

四月の校舎は、独特の浮遊感に包まれている。

 新入生の上履きのゴムの匂い、新しい教科書のインクの香り、そしてクラス替えによってリセットされた人間関係の緊張感。

 それらが桜の花びらと共に廊下を舞い、目に見えない粒となって大気中に漂っていた。


 三年二組の教室。

 僕は一番後ろの窓際の席で、その喧騒を眺めていた。

 かつて、四月というのは僕にとって「絶望の始まり」でしかなかった。新しいカーストが形成され、自分がどの位置にランク付けされるかにおびえる、審判の季節。


 だが、今年の僕は違っていた。

 恐怖がないわけではない。でも、それを「観察対象」として客観視する余裕があった。


「よう、部長。暇そうだな」


 前の席の男子が、椅子を反らせて話しかけてきた。

 吉川ナオだ。

 腐れ縁というのは恐ろしいもので、僕たちは三年生でも同じクラスになった。

 彼は髪型を少し変え、以前より少しだけ背筋が伸びている。


「暇じゃないよ。放課後の部活紹介の原稿、チェックしてるんだ」


「真面目かよ。……ま、俺も手伝ってやるけどさ」


 吉川はニカっと笑った。

 かつて、豪徳寺の顔色ばかり窺っていた卑屈な笑みは、もうそこにはない。

 彼は「人間動物園」を経て、変わった。

 強者に媚びるのではなく、その場の空気を読み、調整する「バランサー」としての才能を開花させたのだ。クラスでも、派手なグループと地味なグループの橋渡し役として、独自のポジションを確立している。


 その時、教室の前方で大きな音がした。

 ドカッ、という机を蹴る音。

 条件反射で空気が凍る。

 音源は、豪徳寺猛だ。彼もまた、同じクラスだった。

 なんという因果だろう。神様は、僕たちにまだ「実験」を続けろと言っているらしい。


「あー、マジうぜえ。担任、またあのハゲかよ」


 豪徳寺が不機嫌そうに毒づいている。

 周囲の取り巻きが、引きつった愛想笑いを浮かべる。

 以前の僕なら、胃が縮み上がり、視線を逸らしていただろう。

 でも今は、違った。


「……やってるな、アルファ・オス」


 吉川が小声で呟き、僕を見て肩をすくめた。


「相変わらず『ステータス不安症候群』全開だな。新学期で舐められないように必死なんだろ」


「そうだね。……ちょっと、行ってくる」


 僕は席を立った。

 ポケットには、コンビニで買ったミントタブレットが入っている。

 僕は豪徳寺の席へと歩み寄った。

 足取りは軽い。


「豪徳寺、おはよう」


 僕が声をかけると、彼はギロリとこちらを睨んだ。

 だが、その目にはかつてのような「殺気」はなかった。あるのは、少しのバツの悪さと、諦めのような色だ。

 文化祭のあの日以来、彼は僕に対して「手出し無用」という態度をとっている。僕をいじめれば、またあの「動物園」でネタにされると学習したからだ。


「……なんだよ、相馬」


「いや、今年こそ進路指導室に通う回数、減らせるといいなと思って。……これ、眠気覚ましにどう?」


 僕はタブレットのケースを振った。カラカラと乾いた音がする。

 豪徳寺はフンと鼻を鳴らした。


「いらねえよ。……てかお前、相変わらずその『餌付け』スタイル変えねえのな」


「平和維持活動(PKO)だからね」


「ケッ。……まあ、一個もらうわ」


 彼は乱暴に手を出し、タブレットを一粒受け取った。

 小さな白い粒が、巨大な猛獣の口に消える。

 それだけで、周囲の張り詰めた空気が霧散した。

 取り巻きたちがホッとした顔をする。

 僕は吉川に目配せをして、席に戻った。

 これだ。

 世界は劇的には変わらない。豪徳寺は相変わらず乱暴だし、教室には格差がある。

 でも、僕たちが「怯えない」ことで、その構造は決定的に変質している。

 恐怖による支配は、被支配者の同意(恐怖)がなければ成立しないのだから。

          




 放課後。

 中庭では、新入生勧誘の嵐が吹き荒れていた。

 運動部が大声を張り上げ、吹奏楽部が楽器を鳴らす。

 その喧騒の片隅、あまり目立たない場所に、僕たち生物学研究部のブースがあった。

 長机を一つ置いただけの、簡素な陣地だ。


「……来ますかね、新入生」


 日下部君が、不安そうに眼鏡を直した。

 彼は二年生になり、少し背が伸びた。でも、その猫背気味の姿勢と、マニアックな本を抱える癖は変わっていない。

 今日の彼の手にあるのは『毒草・毒キノコ図鑑』だ。


「来るよ。類は友を呼ぶっていうだろ」


 僕は看板を直しながら言った。

 看板には、愛名先輩が卒業前に描き残してくれたイラストが貼られている。

 『求む! ヒト科の群れに馴染めない君へ』というキャッチコピーと共に、ヘッドホンをした猿の絵が描かれている。


「おーい、湊! ジュース買ってきたぞ」


 吉川が、ビニール袋を提げて戻ってきた。

 彼は今日、勧誘係(スカウト)を担当している。人の顔色を読むのが得意な彼は、「居場所を探しているはぐれ者」を見つけるのが天才的に上手いのだ。


「サンキュ。……どう? 手応えは」


「上々だぜ。チラシ、もう二十枚くらいハケた。特に、あの『人間動物園』の記事に食いつく奴が多くてさ」


 吉川は楽しそうだった。

 かつて、自分を守るために僕を売った彼が、今はこうして僕の右腕として働いている。

 人間関係という生態系は、常に流動的で、修復可能なのだ。


 その時、ブースの前で一人の女子生徒が足を止めた。

 小柄で、髪が長く、少しおどおどした様子。

 手には、文芸部のチラシと、生物部のチラシが握られている。

 彼女は看板を見て、それから僕たちの顔を窺うように見た。

 日下部君が、固まった。

 一年前の彼自身を見ているようだったのだろう。


 僕は日下部君の背中を、ポンと叩いた。

 「行け」と。

 日下部君は深呼吸をして、一歩前に出た。

 そして、ぎこちないけれど、精一杯の「ディスアーミング・スマイル」を浮かべた。


「あの……よかったら、話だけでも聞いていきませんか?」


 女子生徒がビクリとする。

 日下部君は、慌てず、ポケットから何かを取り出した。

 クッキーだ。

 彼が家で焼いてきた、手作りクッキー。


「これ、あげるよ。……ここ、座って食べていいから」


 不器用な食物分配。

 でも、その不器用さが、彼女の警戒心を解いたようだった。

 彼女は小さく「ありがとうございます」と言って、パイプ椅子に座った。

 僕はその光景を、少し離れた場所から見ていた。


 胸がいっぱいだった。

 継承されている。

 藤堂先輩が僕にしてくれたこと、僕が日下部君にしたこと。

 傷ついた者が、次の傷ついた者をケアする。

 そうやって、このサンクチュアリは続いていくのだ。


「……先輩」


 僕は心の中で呼びかけた。

 藤堂先輩は今、遠い街の大学で、新しい群れを作っているはずだ。

 愛名先輩も、新しいネイルを見せびらかしているだろう。

 みんな、それぞれのジャングルで戦っている。


「悪くないですよ、こっちは」


 僕は空を見上げた。

 青い空に、飛行機雲が一本、長く伸びていた。

          




 その日の夕方。

 部活動を終えて家に帰ると、キッチンからいい匂いがした。

 肉じゃがの匂い。

 

「ただいま」


「お帰り、湊」


 リビングのソファで、父さんが新聞を読んでいた。

 スーツ姿ではない。ポロシャツにチノパンという、ラフな格好だ。

 父さんは関連会社への出向を受け入れ、今は物流センターの管理職として働いている。給料は下がったし、体力的にはきついらしいが、以前のようなピリピリとした殺気は消えていた。


「今日は早かったんだね」


「ああ。今日は定時で上がれた。……母さんが、肉じゃがを作りすぎたと言っている。手伝ってくれ」


「了解」


 僕は鞄を置き、手を洗った。

 食卓に着く。

 父さん、母さん、僕。

 三人での夕食。

 かつては「審問会議」だったこの時間が、今は「食事」の時間になっている。


「学校はどうだ」


 父さんが、肉じゃがのジャガイモを崩しながら聞いた。

 それは査定のための質問ではなく、純粋な会話としての問いかけだった。


「うん。新入生が入ったよ。結構面白い子たちでさ」


「そうか。……お前も、部長として大変だな」


「まあね。でも、父さんの仕事よりは楽だよ」


 僕が言うと、父さんは少し照れくさそうに笑った。


「……物流の現場も、悪くないぞ。体を動かすのは、性に合っているかもしれん」


 父さんは変わった。

 いや、元の父さんに戻ったのかもしれない。

 「強さ」という呪縛から解放され、ただの初老の男として生きることを受け入れた父さん。

 その背中は以前より小さくなったけれど、今のほうがずっと大きく、頼もしく見えた。


 僕たちは、静かに食事を続けた。

 テレビのニュースが流れている。

 世界では戦争が起き、政治家が罵り合い、経済競争が続いている。

 世界は依然として、巨大なチンパンジーの森のままだ。


 でも。

 ここには、小さな「ボノボの島」がある。

 学校の部室にも。この食卓にも。

 争わずに、分け合い、認め合う場所。

 僕は味噌汁を啜った。

 温かい。

 この温もりさえあれば、僕は明日も生きていける。

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