継承:春の嵐


 冬の生物準備室は、冷蔵庫の中のように冷え込む。

 古い校舎の断熱性能は皆無に等しく、隙間風が遠慮なく吹き込んでくるからだ。

 それでも、放課後になると、ここには必ず四人の人間が集まっていた。

 ストーブの赤い火を囲み、温かい紅茶を啜りながら、僕たちは身を寄せ合う。それは寒さを凌ぐためだけでなく、心の温度を維持するための本能的な行動だった。


「……部長。これ、来年度の予算申請書ですけど」


 日下部君が、分厚い眼鏡を曇らせながらプリントを差し出した。


「生徒会から『活動実態が不明瞭』として却下されました。どうしますか? 『人間動物園』の実績を強調して再提出しますか?」


「いや、それは諸刃の剣だ。教師受けが悪い」


 僕は眉間を揉んだ。

 部長の仕事は、想像以上にハードだった。

 事務処理、他部活との折衝、そして個性豊かすぎる部員たちのメンタルケア。

 藤堂先輩は、涼しい顔でこれをこなしていたのかと思うと、改めて彼女の偉大さが身に沁みる。


「なら、あたしが殴り込みに行こうか? 生徒会長、中学の時のパシリだし」


 愛名先輩が、マフラーに顔を埋めたまま物騒な提案をする。

 彼女は三年生だが、推薦で早々進路を決めてしまったため、今でもこうして部室に入り浸っている。


「暴力は却下です。……吉川、例の件はどうなった?」


「ああ。一年の飼育委員と話つけたぜ。ウサギの餌代、少しこっちに回してくれるって」


 吉川ナオが、得意げにVサインをした。

 彼は今、その「世渡り上手」なスキルを活かし、生物部の外交官として活躍している。かつて豪徳寺の機嫌を取るために磨いたアンテナは、平和利用すれば強力な武器になるのだ。


「よし、じゃあそれでいこう。……はあ、疲れた」


 僕は椅子に深くもたれかかった。

 大変だ。でも、嫌じゃない。

 この小さな社会を回していく充実感が、僕の背骨を支えていた。


 ただ、一つだけ欠けているものがある。

 あの日以来、藤堂先輩は一度も部室に顔を出していなかった。

 受験勉強に専念するためだ。「引退したら、老害は去るのみ」という美学を貫いているらしい。

 廊下ですれ違っても、彼女は参考書に目を落としたまま、軽く手を挙げるだけだ。

 その距離感が、僕には少し寂しく、そして誇らしくもあった。

 彼女は僕たちを信じている。

 だから、振り返らないのだ。

          




 三月一日。

 卒業式の日。

 空は涙が出るほど晴れ渡っていたが、風はまだ冷たかった。

 体育館での式典は、厳かに、そして淡々と進んだ。

 在校生代表として出席した僕は、パイプ椅子の列の中から、壇上に上がる先輩の姿を目で追っていた。

 制服姿の彼女は、いつもの白衣姿よりも一回り小さく、しかし凛として見えた。


 名前が呼ばれる。

 「はい」という、短く、よく通る声。

 卒業証書を受け取る所作。

 その一つ一つが、彼女がもう「こっち側」の人間ではなく、広い世界へと旅立つ「大人」になったことを告げているようで、胸が締め付けられた。


 式が終わり、ホームルームも終わった放課後。

 校舎は、花束を持った卒業生と、それを取り囲む在校生たちでごった返していた。

 歓声、別れを惜しむ泣き声、シャッター音。

 感情の洪水。

 僕はその喧騒を抜け出し、北校舎へと向かった。


 約束はしていない。

 でも、確信があった。彼女は最後に来るはずだ。

 僕たちのサンクチュアリへ。

 生物準備室のドアを開ける。

 予想通り、そこには先客がいた。

 日下部君、愛名先輩、吉川。

 そして、窓際で水槽を眺めている、藤堂怜先輩。


「……遅いよ、部長」


 先輩が振り返った。

 胸には赤いコサージュ。手には卒業証書の筒。

 でも、その笑顔は、いつもの「悪だくみ」をする時の少年のようだった。


「ご卒業、おめでとうございます」


 僕は頭を下げた。

 言葉にすると、実感が湧いてきて、喉が詰まった。


「ありがとう。……いい式だったね。校長の話は長かったけど」


「あたし寝てたし」


「僕も、脳内で中世の処刑台の構造をシミュレーションして耐えました」


 いつもの軽口。

 でも、空気は少し湿っぽい。

 愛名先輩の目は少し赤く、日下部君は鼻をすすっている。吉川は俯いて床を見つめている。


「さて」


 先輩は鞄を持ち上げた。


「長居は無用だ。ボノボは未練がましい別れを好まない」


「……もう、行くんですか?」


「ああ。次の群れが待っているからね」


 先輩は颯爽と歩き出した。

 みんなが「ありがとうございました!」「元気で!」と声をかける。

 先輩は背中越しに手を振り、ドアを出て行った。

 僕は動けなかった。

 これでいいのか?

 感謝も、尊敬も、まだ半分も伝えきれていない。

 「師匠」として、そして「初恋」の人として。


「……追いかけろよ、バカ」


 吉川が、僕の背中をドンと叩いた。

 驚いて振り返ると、彼がニヤリと笑っていた。


「部長はあんただろ。最後くらい、締めてこいよ」


「……行ってこい、湊」


 愛名先輩も顎で促す。


「早くしないと、行ってしまいますよ」


 日下部君が背中を押す。

 僕は頷き、走り出した。

 廊下に出る。

 先輩の姿は、もう階段の踊り場にあった。

 夕日が差し込む階段を、一段ずつ降りていくシルエット。


「先輩!」


 僕は叫んだ。

 声が裏返った。

 先輩が足を止め、ゆっくりと振り返る。

 逆光の中で、髪が黄金色に輝いている。

 僕は階段を駆け下り、彼女の目の前、三段上で止まった。


 息が切れる。

 何を言えばいい?

 「好きでした」? 違う。それは今の関係を矮小化してしまう。

 「行かないで」? 子供じみている。

 言葉が出てこない。

 ただ、唇をパクパクさせている僕を見て、先輩はふっと笑った。


「……君は、最後まで言葉が下手だね」


 彼女は階段を登ってきた。

 僕と同じ高さまで。

 そして、真正面から僕を見つめた。


「言葉なんていらないんだよ。私たちは、ボノボだろう?」


 次の瞬間。


 先輩が僕を抱きしめた。


 えっ、と声が出る間もなかった。

 制服越しの体温。

 髪から漂う、微かなアールグレイの香り。

 柔らかくて、温かくて、そして力強い抱擁。


「……っ!」


 心臓が止まるかと思った。

 全身の血液が沸騰する。

 これは恋人同士のハグではない。

 もっと原始的で、もっと深い、魂の交歓(コミュニケーション)。


 「君を認める」「君を愛している」「君は仲間だ」という情報を、皮膚を通じて直接インストールされるような感覚。


「忘れるな」


 先輩が耳元で囁いた。


「君はもう、一人じゃない。弱いけれど、孤独じゃない。……それが、最強の生存戦略だ」


 彼女はパッと体を離した。

 一瞬の出来事だった。

 でも、その感触は、僕の細胞一つ一つに刻み込まれた。


「じゃあね、湊君。……あとは任せたよ」


 先輩は悪戯っぽくウインクをして、今度こそ振り返らずに階段を降りていった。

 スカートを翻し、光の中へと消えていく。

 僕はその背中が見えなくなるまで、呆然と立ち尽くしていた。


 頬が熱い。

 涙が溢れて止まらなかった。

 悲しいんじゃない。

 満たされていた。

 空っぽだった僕の器に、彼女が最後に注いでくれた愛情で、溢れそうになっていた。


 僕は掌を見つめた。

 そこには、見えないバトンが握られている気がした。

 「知性」と「優しさ」という名のバトン。


「……さよなら、先輩」


 僕は誰もいない階段に向かって呟いた。

 そして、涙を袖で乱暴に拭った。


 戻ろう。

 部室には、仲間たちが待っている。

 新しい春が来る。

 新入生が入ってくるだろう。

 また、迷える子羊(あるいは子猿)が、あのドアをノックするかもしれない。

 その時、僕は胸を張って言えるだろうか。


 「ようこそ、サンクチュアリへ」と。

 僕は階段を登った。

 足取りは確かだった。

 もう、迷いはなかった。

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