廃墟の王
昼下がりの住宅街は、嘘のように穏やかだった。
昨夜の暴風雨が嘘のように晴れ渡り、濡れたアスファルトが太陽を反射して白く輝いている。
僕は駅からの坂道を、一歩一歩踏みしめるように登っていた。
足取りは重くない。昨夜、恐怖に駆られて転がり落ちた時とは違う。今の僕の足には、地面を捉える確かな意思が宿っていた。
家の前に立つ。
グレーのモダンな二階建て。高い塀に囲まれたその要塞は、一夜にしてどこか古びて見えた。
門扉は閉ざされている。ガレージには父さんの愛車である黒いセダンが停まっていた。今日は平日だ。いつもなら会社に行っているはずの時間帯に、父さんが家にいる。
その事実が、母さんのメッセージにあった「左遷」「心神耗弱」という現実を無言で裏付けていた。
僕は深呼吸をした。
左頬の痣がピリリと痛む。
恐怖がないと言えば嘘になる。あの拳の痛み、怒号、炎の熱さ。それらは細胞レベルで僕の記憶に刻まれている。
でも、ポケットに入れた紙袋の温もりが、その恐怖を中和してくれた。
藤堂先輩の焼いたスコーン。
これはただのお菓子じゃない。平和協定のための「貢ぎ物」であり、僕がボノボとして振る舞うための聖なるアイテムだ。
鍵を開ける。
ガチャリ。金属音が静寂に響く。
ドアを開ける。
「……ただいま」
努めて普通の声を出した。
家の中は、異様な匂いに満ちていた。
焦げ臭さ。昨夜のボヤの残り香だ。換気扇を回しても、カーテンや壁紙に染み付いた「破壊の記憶」は容易には消えない。
そして、それ以上に濃厚な、澱んだ空気。
誰も動かず、誰も喋らず、ただ時間だけが腐敗していくような重苦しさ。
「……湊?」
リビングのドアが細く開き、母さんが顔を出した。
その姿を見て、僕は胸が痛んだ。
やつれていた。目は窪み、肌は乾燥し、いつも綺麗にセットされていた髪は乱れている。一晩で十年歳をとったようだった。
「お母さん」
「よかった……帰ってきてくれたのね」
母さんは駆け寄り、僕を抱きしめた。
その体は小刻みに震えていた。
「心配したのよ。警察に行こうか、でもお父さんが世間体を気にしてダメだって……ごめんなさい、私、何もできなくて」
「ううん。大丈夫だよ。友達の家に泊めてもらってたから」
僕は母さんの背中を軽く叩いた。
今まで、母さんは僕を守ってくれる存在だと思っていた。でも今は、僕が彼女を支えなければならないと感じた。
この群れのメスは、オスの暴走に怯えきっている。安心させてやらなければ。
「父さんは?」
「……リビングにいるわ。昨日の夜から、一歩も動いていないの」
母さんは声を潜め、リビングの方を振り返った。
「何も食べていないし、お酒も飲んでいない。……ただ、座っているだけ」
僕は頷き、靴を脱いだ。
リビングのドアノブに手をかける。
心臓が大きく一度だけ鳴った。
ここが最前線だ。
ドアを開ける。
遮光カーテンが閉め切られ、部屋の中は昼間だというのに薄暗かった。
その闇の中央、革張りのソファに、父さんはいた。
小さかった。
それが第一印象だった。
一八〇センチの長身、威圧的な肩幅。それらが嘘のように縮こまり、背中を丸め、膝に肘をついて顔を覆っていた。
着ているのは昨日のスーツのままだ。ネクタイは外され、ワイシャツは皺だらけになり、一部に煤がついている。
床には、焼け焦げたカーペットと、水浸しになった黒い灰の塊がそのまま残されていた。僕の本とノートの成れの果てだ。
僕が入っていくと、父さんはゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、僕は息を呑んだ。
無精髭が伸び、目は充血し、頬がこけている。
そこには「アルファ・オス」の面影は微塵もなかった。
群れを追われ、傷つき、死を待つだけの老いた猿がそこにいた。
父さんは僕を見た。
その目に一瞬、光が宿った。
怒りか? 再び罵倒が飛んでくるのか?
僕は身構えた。
「……何しに帰ってきた」
父さんの声は、錆びた鉄のように掠れていた。
「お前の顔など見たくないと言ったはずだ。出て行けと言ったはずだ」
言葉は拒絶だった。だが、そこには以前のような迫力はなかった。
ただの強がり。
自分の惨めな姿を息子に見られたくないという、最後のプライドの欠片。
僕は答えなかった。
代わりに、キッチンへと歩を進めた。
父さんの視線が背中に刺さるが、無視した。
戸棚からマグカップを二つ取り出す。電気ケトルに水を入れる。
湧くまでの数分間、静寂が支配する。
シュウシュウというお湯の湧く音だけが、部屋に響く。
お湯が湧いた。
僕はティーバッグを入れた。アールグレイはない。父さんが飲む緑茶だ。
湯気とともに、渋い香りが立ち上る。
僕は二つのカップと、藤堂先輩から貰った紙袋を持って、ソファへ向かった。
父さんの前のローテーブルに、カップを置く。
コトン、という音。
そして、紙袋を開け、中身を取り出した。
ゴツゴツとした、不格好なスコーン。
甘いバターの香りが、焦げ臭い部屋の空気を中和していく。
「……なんだ、これは」
「スコーンだよ。友達が焼いてくれたんだ」
僕は父さんの向かいのソファではなく、床に直接座った。
父さんと同じ目線の高さになるように。いや、少し下から見上げるように。
これは「敵意はありません」というポーズだ。
「父さん、お腹空いてるでしょ」
「いらん」
「昨日の夜から何も食べてないって聞いたよ。……僕もなんだ。一緒に食べよう」
僕はスコーンを一つ手に取り、半分に割った。
父さんは動かない。
頑なだ。自分の弱さを認められないのだ。息子からの施しを受けるなんて、彼のプライドが許さないのだろう。
「父さん」
僕は静かに呼びかけた。
「僕、知らなかったよ。父さんが会社で大変だったこと」
父さんの肩がピクリと震えた。
「母さんから聞いた。……眠れてなかったんだね」
「……余計なことを」
「逃げてたんじゃない。戦ってたんだよね。家族を守るために、一人で」
父さんが顔を歪めた。
痛いところを突かれた顔だ。でも、それは攻撃された痛みではなく、膿んだ傷口に触れられたような痛みだった。
「俺は……」
父さんが絞り出すように言った。
「俺は、お前に強くなってほしかった。この世界は残酷だ。力のない奴は食い物にされる。俺みたいに、惨めに……」
声が震えている。
「だから厳しくした。嫌われてもいいと思った。お前が生き残れるなら……」
それは、歪んだ愛だった。
不器用で、暴力的で、一方的な愛。
でも、その根底にあったのは、恐怖だった。
自分が味わった屈辱を、息子には味わわせたくないという、切実な親心だったのだ。
「わかってるよ」
僕はスコーンを父さんの方へ差し出した。
「でもね、父さん。生き残る方法は、戦うことだけじゃないんだ」
父さんが僕の手元を見た。
「ボノボはね、強いから生き残ったんじゃない。優しかったから生き残ったんだ。……辛い時は、誰かに頼っていいんだよ。弱音を吐いていいんだよ」
父さんの目が、ゆっくりと潤んでいくのが見えた。
鉄の仮面が溶けていく。
三十年間、会社という戦場で張り詰めていた糸が、プツリと切れる音が聞こえた気がした。
父さんの震える手が、スコーンに伸びた。
僕の手から、それを受け取る。
指先が触れた。
父さんの手は冷たく、そして乾いていた。
彼はスコーンを口に運んだ。
一口かじる。
ボロボロと屑が落ちる。
父さんはそれを、噛みしめるように咀嚼した。
喉が動く。
「……甘いな」
「うん。砂糖、入れすぎたのかもね」
「……そうか」
父さんは下を向いたまま、二口目を食べた。
そして、三口目を食べようとした時、その手が止まった。
肩が激しく上下し始めた。
「う……うぅ……」
嗚咽が漏れた。
スコーンを持ったまま、父さんは泣き出した。
子供のように。あるいは、迷子になった猿のように。
大粒の涙が、スーツの膝に落ちていく。
僕は何も言わなかった。
背中をさすることもしなかった。今はまだ、その距離ではない気がしたからだ。
ただ、彼の前で、一緒にスコーンを食べた。
パサパサしていて、口の中の水分が奪われる。
でも、とても温かかった。
リビングの入り口で、母さんが静かに泣いている気配がした。
僕は緑茶を啜った。
苦い味がした。
これが、現実の味だ。
劇的な和解なんてない。父さんが急に改心して「いい父親」になるわけでもない。
会社の問題も、家のローンも、何も解決していない。
でも、僕たちは今、同じテーブルで、同じものを食べている。
マウンティングも、説教も、暴力もなく。
ただの、傷ついた二匹の猿として。
「……ごちそうさん」
長い時間が経ち、父さんが呟いた。
涙は止まっていたが、目は赤かった。
「……湊」
「なに?」
「学校、どうするつもりだ」
父さんは僕を見ずに聞いた。
昨日の「カルト疑惑」のことだ。
「行くよ」
僕は即答した。
「逃げないで行く。……僕にも、まだやり残した実験があるから」
父さんは少し驚いたように僕を見た。
そして、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「そうか。……好きにしろ」
それは許可だった。
以前の「勝て」という命令でも、「やめろ」という禁止でもない。
僕の意志を尊重する、初めての言葉だった。
僕は立ち上がった。
空になったカップを手に取る。
「行ってきます。……夜ご飯、何か買ってこようか?」
「……いや、母さんに任せる」
父さんはソファに深くもたれかかり、目を閉じた。
その顔には、深い疲労とともに、少しだけ安らかな色が浮かんでいた。
僕はキッチンへ行き、カップを洗った。
母さんが「ありがとう」と口パクで言った。
僕は小さく頷き、玄関へと向かった。
外に出ると、風が心地よかった。
家の中の淀んだ空気が、少しだけ入れ替わった気がした。
完全解決には程遠い。
でも、最初の一歩は踏み出した。
「食物分配」による緊張緩和。
ボノボの知恵は、確かに最強の猛獣をも鎮めたのだ。
次は、学校だ。
あそこには、まだ僕を憎む吉川や、嘲笑するクラスメイトたちが待っている。
そして、崩壊したサンクチュアリが。
僕はリュックのベルトを握りしめた。
中には、藤堂先輩にもらった新品の実験ノートが入っている。
さあ、行こう。
第2ラウンドの始まりだ。
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