パラダイムシフト
スマートフォンの画面が暗転し、僕の顔が黒いガラスに映り込んだ。
その顔は、昨夜の泣き腫らした惨めな顔とは違っていた。
何かが抜け落ち、同時に何かが満ちていくような、静かで凪いだ表情をしていた。
リビングには、相変わらず穏やかな午前の光が満ちていた。
藤堂先輩は、読みかけの洋書を膝に置き、コーヒーカップを両手で包みながら、じっと僕を見守っていた。
沈黙が痛くない。
ここには、何かを急かしたり、正解を強要したりする空気がないからだ。
「……モンスターじゃ、なかったんですね」
僕は独り言のように呟いた。
「父さんは、鉄の鎧を着た怪物だと思っていました。心なんてなくて、ただ僕を支配することだけに喜びを感じている独裁者だと。……でも、違った」
脳裏に浮かぶのは、母さんのメッセージにあった『リビングで小さくなって泣いている』父の姿だ。
そして、昨夜の殴られた瞬間の、あの怯えた目。
「父さんは、僕でした。僕と同じ、弱い猿でした」
認めるのは怖かった。
父を「悪役」にしておく方が、精神的には楽だからだ。
「あいつが悪い」「あいつのせいで僕は不幸だ」と責任を押し付けていれば、僕は「可哀想な被害者」という安全地帯にいられる。
でも、父もまた被害者だったとしたら?
会社という巨大な群れの中で虐げられ、必死に生き延びようとしてもがいていた、ただの個体だとしたら?
「生物学には『転位行動』という言葉がある」
先輩が静かに口を開いた。
「動物が葛藤状態に陥った時、全く関係のない行動をとることだ。毛づくろいをしたり、あくびをしたり……あるいは、自分より弱い個体を攻撃したりする」
先輩はカップをソーサーに戻した。カチャン、という音が澄んだ響きを残す。
「君のお父さんの暴力は、それだ。会社でのストレス、恐怖、無力感。それらの行き場のないエネルギーが、家庭という閉鎖空間で、最も弱い君へと向けられた。……許されることではないけれど、メカニズムとしては理解できる」
「理解……」
「そう。理解することは、許すこととは違う。でも、恐怖を克服する第一歩にはなる」
僕は自分の手をじっと見つめた。
まだ微かに震えている。
でも、それは昨夜のような「怯え」ではなかった。
武者震いに近い。
未知の領域へと踏み出そうとする、魂の振動だった。
「僕、父さんを軽蔑していました」
僕は正直に告白した。
「『強くなれ』とか『勝て』とか言ってくる父さんを、時代遅れのチンパンジーだと馬鹿にしていました。僕はボノボになるんだ、精神的に進化するんだって、父さんを見下ろすことで優越感に浸っていました」
燃やされた観察日記。
あそこに書かれていた言葉たちは、父さんにとっては鋭い刃物だったはずだ。
息子からの冷ややかな分析。
それは、父さんが一番隠したかった「弱さ」を暴き立てる行為だった。
僕もまた、父さんを傷つけていたのだ。暴力ではなく、冷笑という武器で。
「マウンティングし合っていたんですね、僕たち。どっちが『上』か、どっちが『正しい』か。……同じ土俵で、同じレベルで争っていただけなんだ」
涙が溢れた。
悔しさではない。
自分たちの愚かさと、滑稽さと、そして切なさに対する涙だった。
僕たちは親子で、檻の中で噛みつき合っていただけだ。
「……で、どうする?」
先輩が問いかけた。
その声には、試すような響きがあった。
「真実を知って、君はどうしたい? このままここに留まることもできる。お母さんに連絡して、別居なり離婚なりを勧めることもできる。……それとも、戻るかい? あの泥沼へ」
僕は顔を上げた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
ここは快適だ。
安全で、知的で、温かい。
でも、ここは僕の場所ではない。先輩の場所だ。
僕が帰るべき場所は、あの焦げ臭い匂いのする、不完全な家なのだ。
「戻ります」
言葉にした瞬間、身体の芯に杭が打ち込まれたような感覚があった。
迷いは消えた。
「僕、実験をやり直したいんです」
「ほう?」
先輩が面白そうに眉を上げた。
「一度失敗した実験を?」
「はい。でも、条件を変えます。今度は『上から目線』じゃなく、『同じ高さ』で」
僕は立ち上がった。
膝の痛みはもう感じなかった。
「父さんを『変えよう』とするのはやめます。それは支配と同じだから。その代わり、僕が変わります。……ボノボは、相手が攻撃的でも、逃げずに抱きしめるんですよね?」
「……比喩的に言えば、ね」
「なら、僕もそうします。父さんが吠えても、殴ろうとしても、もう怯えません。だって、あれは『威嚇』じゃなくて『悲鳴』だってわかったから」
悲鳴を上げている相手を殴り返すのは、ただの野蛮人だ。
悲鳴を聞いたら、そばに寄って、背中を撫でてやるのがボノボだ。
たとえ噛みつかれるリスクがあっても。
「……いいね」
先輩がニヤリと笑った。
その笑顔は、僕が初めて生物準備室を訪れた時に見せた、あの「共犯者」の顔だった。
「それが『パラダイムシフト(認識の転換)』だ。世界そのものは変わっていない。お父さんは相変わらず不機嫌だろうし、会社は彼をいじめるだろう。でも、君の『見方』が変わったことで、世界は全く別の様相を呈する」
先輩は立ち上がり、本棚へ歩み寄った。
一冊のノートを取り出し、僕に投げてよこした。
新品の、ハードカバーの実験ノートだった。
「装備支給だ。前のノートは燃やされたんだろう? 新しいのに書きなよ。今度は『観察日記』じゃなくて、『共生記録』とでも名付けてさ」
僕はノートを受け取った。
ずっしりとした重み。
表紙の黒い革の手触りが、冷たくて心地よかった。
「ありがとうございます。……それと、先輩」
「ん?」
「学校にも、戻ります」
僕は窓の外、遠くにあるはずの学校の方角を見た。
「部室、めちゃくちゃになってましたよね。日下部君も、愛名先輩もいなくなって……」
「ああ。廃部寸前だよ」
「僕が、取り戻します」
根拠なんてなかった。
吉川との関係も、クラスの噂も、どう修復すればいいのか見当もつかない。
でも、逃げたままで終わりたくなかった。
あそこは僕たちが初めて見つけた「居場所」だったのだから。
「大きく出たね。……作戦はあるのかい?」
「まだ、具体的には。でも、もうすぐ文化祭ですよね?」
ふと、思いついたことがあった。
起死回生の一手。
僕たちが受けた「誤解」や「偏見」を逆手に取り、かつ、このチンパンジー社会の構造そのものを揺さぶるような、大掛かりな仕掛け。
「先輩、生物部の展示枠って、まだ残ってますか?」
「一応ね。誰も期待してないから、空き教室の隅っこだけど」
「十分です。そこで、僕たちの研究の集大成を見せましょう」
僕はニヤリと笑った。
鏡の前で練習した作り笑いではない。腹の底から湧き上がる、挑戦者の笑みだった。
「タイトルは『人間動物園』。……僕たちを檻に入れて笑っていた連中を、逆に檻の外から観察してやるんです」
先輩は一瞬きょとんとして、それから、今までで一番楽しそうに、声を上げて笑った。
「ハハッ! 最高だね。毒があって、知的で、実にボノボ的だ」
彼女は僕の肩をバシッと叩いた。
「乗ったよ、そのプラン。……さあ、忙しくなるぞ。まずは君の帰還だ」
僕は深く頷いた。
昨日の夜、死にかけの敗残兵として辿り着いたこの家を、今は戦士として出ようとしている。
武器は暴力ではない。
「理解」という名の盾と、「ユーモア」という名の槍。
僕は洗面所へ行き、自分の制服に着替えた。
洗濯されて乾いたシャツは、昨日の泥汚れが落ちて、パリッとしていた。
袖を通す。
ボタンを留める。
鏡の中の自分と目が合う。
左頬の痣はまだ痛々しい。でも、その目はもう、死んでいなかった。
「行ってきます」
僕はリビングに戻り、先輩に告げた。
「ああ。……あ、そうだ」
先輩はキッチンから、小さな紙袋を持ってきた。
中には、今朝焼いたスコーンが入っていた。
「これも『装備』だ。お父さんに会ったら、渡してやりなよ。……言葉が通じない相手には、まず胃袋から攻めるのが定石だからね」
僕は紙袋を受け取った。
温かい。
その温もりが、僕の勇気の温度と同じ気がした。
「ありがとうございます。……それじゃあ」
僕は玄関を出た。
昼下がりの日差しが眩しい。
門を開け、外の世界へと足を踏み出す。
そこは相変わらずコンクリートのジャングルだ。
でも、今の僕には、その灰色の景色の中に、新しい道筋が見えていた。
さあ、帰ろう。
僕たちの、愛すべき、そして哀れな戦場へ。
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