サンクチュアリの完成

 放課後の渡り廊下は、西日でオレンジ色に染まっていた。

 僕はスキップしたい衝動を必死に抑えながら、早足で北校舎へと向かっていた。

 ポケットの中で、少し軽くなったグミの袋がカサリと音を立てる。その乾いた音は、僕にとって勝利のファンファーレだった。

 成功した。

 あの不機嫌な鹿島を、たった一粒の菓子と笑顔で手なずけた。

 それだけではない。移動教室ですれ違ったクラスメイト、掃除当番の女子。僕が意識的に投げかけた「小さな親切」という小石は、確かに波紋を広げ、教室の空気をほんの数ミリグラムだけ柔らかくしたのだ。

 世界は、変えられる。

 少なくとも、僕の半径三メートル以内なら。

 その全能感にも似た高揚感が、僕の足を前へと急がせていた。早く報告したい。あの薄暗い実験室で待つ、奇妙な仲間たちに。

 生物準備室のドアの前に立つ。

 深呼吸を一つ。

 昨日までは、ここに入るのにも緊張があった。だが今は違う。

 僕はノックをし、返事を待たずにドアを開けた。


「ただいま!」


 思わず、家でも言わないような明るい声が出た。

 

 部屋の中は、いつものようにアールグレイと薬品の匂いが漂っていた。

 実験台の上には藤堂先輩が座り、窓際のパイプ椅子には日下部君が、そして床には愛名先輩が陣取っている。

 僕の声に、三人が一斉に顔を上げた。


「おや、帰還したね」


 藤堂先輩が、顕微鏡から目を離してニヤリと笑った。


「その顔つき……どうやら、生きて帰れたようだね」


「はい! 先輩、やりましたよ。鹿島……あの、クラスの乱暴者を、グミ一粒で無力化しました」


 僕は鞄を置き、息せき切って報告した。

 どんなタイミングで話しかけたか。どんな笑顔を作ったか。相手がどんな反応をしたか。

 先輩は「ほう」「なるほど」と相槌を打ちながら、まるで優秀な学生の論文発表を聞く教授のように頷いた。


「素晴らしい。教科書通りの『緊張緩和』だ。相手の攻撃衝動を食欲に置換し、さらに『借り』を作らせることで心理的な優位に立つ。……完璧だね、湊君」


「ありがとうございます。……なんか、魔法みたいでした」


「魔法じゃない。これは認知科学であり、行動生態学だ」


 先輩は満足げに胸を張った。


「マジ? あの鹿島を手なずけたの?」


 床でスマホをいじっていた愛名先輩が、驚いたように顔を上げた。


「あいつ、あたしのことジロジロ見てくるから超ウザいんだけど。……へえ、湊やるじゃん。見直したわ」


「えへへ、まあ……」


 愛名先輩に褒められるなんて、天地がひっくり返るような出来事だ。僕は照れくさくて頭をかいた。


「あの……相馬さん」


 部屋の隅から、控えめな声がした。日下部君だ。

 彼は膝の上にいつもの『拷問全史』ではなく、タッパーを乗せていた。


「僕も、今日は……その、実践してみたんです」


「えっ、日下部君も?」


「はい。……これ、家庭科部の友達から、余ったクッキーをもらってきて。クラスの子に配る勇気はなかったんですけど、ここなら、と思って」


 彼はおずおずとタッパーの蓋を開けた。

 中には、少し形がいびつだが、香ばしい匂いのする手作りクッキーが詰まっていた。


「おお! 食物分配だ!」


 藤堂先輩が目を輝かせた。


「日下部君、それは立派な『貢献行動』だ。群れのために食料を調達するというのは、オスの重要な役割だからね」


「そ、そうですか? ……よかったら、皆さんで」


 日下部君がタッパーを差し出した。

 愛名先輩が、真っ先に手を伸ばした。


「うっそ、クッキー? 食べるー。あたし腹減って死にそうだったんだよね」


 彼女は遠慮なく一枚つまみ、口に放り込んだ。


「ん、ウマ! 結構イケんじゃん、日下部」


「あ、ありがとうございます……!」


 日下部君の顔が、ぱあっと明るくなった。眼鏡が曇るほどの満面の笑みだ。

 あの日下部君が、ギャルの愛名先輩に餌付けをして、感謝されている。

 教室では絶対にあり得ない光景。カーストの壁も、趣味の違いも、ここでは何の意味も持たない。


「じゃあ、お茶にしようか」


 藤堂先輩がポットを持ち上げた。

 いつものビーカーのようなカップに、熱い紅茶が注がれる。

 僕たちは実験台を囲むように座った。

 西日が横から差し込み、部屋全体を黄金色に染め上げている。埃さえもが光の粒となって舞い踊り、この薄暗い実験室を神聖な場所のように演出していた。

 クッキーをかじる音。紅茶を啜る音。

 たわいない会話。

 

「へえ、日下部君って妹いるんだ」


「はい。よく僕の実験台……あ、いや、話し相手になってくれます」


「あたしン家なんて放任主義すぎてヤバいよ。昨日も親帰ってこなかったし」


「自由でいいじゃないか。ボノボ的だね」


 僕も会話に加わる。

 学校のこと、趣味のこと、どうでもいいニュースのこと。

 ここでは、誰もマウンティングを取らない。誰かの発言を否定しない。「それ知らねーの?」と馬鹿にしたりしない。

 ただ、互いの言葉を受け取り、転がし、優しく投げ返す。

 それはまさに、言葉による毛づくろい(グルーミング)だった。

 僕は温かい紅茶を飲みながら、ふと、胸が締め付けられるような幸福感を感じた。

 居心地がいい。

 あまりにも居心地が良すぎて、泣きたくなるくらいだ。

 家には、あの冷徹な父と、怯える母がいる。

 教室には、豪徳寺という暴君と、それを監視する空気がある。

 でも、ここには「安全」がある。

 僕が僕のままで、鎧を脱いで呼吸できる場所。


「……ずっと、ここにいたいです」


 無意識に言葉が漏れた。

 一瞬、静寂が訪れた。

 愛名先輩が「何それ、キモ」と笑い、日下部君が深く頷いた。

 藤堂先輩は、カップを持ったまま、静かな瞳で僕を見た。


「ここは『サンクチュアリ(聖域)』だからね」


 先輩は窓の外、暮れなずむ校庭を見下ろした。

「外の世界は残酷だ。雨が降り、風が吹き、捕食者が徘徊している。……でも、だからこそ、私たちはここで羽を休める。傷を癒やし、エネルギーを蓄え、また外で戦うために」

 先輩の言葉は、優しかったが、どこか現実的だった。

 そう、僕たちはここ永住することはできない。チャイムが鳴れば、またそれぞれの戦場へ戻らなければならないのだ。

 それでも。

 帰る場所があるという事実が、どれほど僕たちを強くするか。


「湊君。君が今日持ち帰った『勝利』は、このサンクチュアリをより強固にした」


 先輩は僕の肩に手を置いた。


「君は証明したんだ。ボノボのやり方が、現実世界でも通用することを。……これからは、もっと忙しくなるよ。君は『平和の伝道師』として、この森を変えていくんだから」


「はい……!」


 僕は力強く頷いた。

 やれる気がした。

 僕には仲間がいる。戦略がある。そして、こんなにも温かい紅茶がある。

 父さんにも、いつかこの場所の話ができるだろうか。いや、父さん自身を、こういう場所に連れてくることだってできるかもしれない。

 窓の外で、下校を促す放送が流れた。


 『ドヴォルザークの「家路」』


 哀愁を帯びたメロディが、琥珀色の部屋に溶けていく。


「さて、解散だ。野生へお帰り」


 先輩が手を叩いた。

 僕たちは名残惜しそうに腰を上げた。

 

「じゃあね、部長。湊、日下部。また明日」


 愛名先輩がひらひらと手を振って出て行く。

「失礼します……あ、クッキーのタッパー、置いていきますね」


 日下部君がぺこりと頭を下げる。

 僕もリュックを背負った。

 鞄の中には、まだ父に見せていない模試の結果が入っている。家に帰れば、きっとまた修羅場が待っているだろう。

 でも、今の僕のポケットには、グミと、仲間たちの笑顔の記憶が入っている。

 これさえあれば、僕は耐えられる。


「先輩、また明日」


「ああ。気をつけて」


 ドアを閉める直前、振り返ると、先輩が一人、実験台の上で本を開いているのが見えた。

 夕日の中に浮かぶそのシルエットは、どこか寂しげで、でも凛として美しかった。

 廊下に出ると、急激に冷たい空気が肌を刺した。

 光と闇。

 聖域とジャングル。

 その境界線で、僕は一度だけ深呼吸をし、暗い階段を降りていった。

 その時の僕は、まだ知らなかった。

 この幸福な時間が、嵐の前の静けさに過ぎなかったことを。

 光が強くなればなるほど、足元に伸びる影もまた、濃く、黒くなっていくことを。

 階段の踊り場で、誰かの視線を感じた気がして振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 ただ、長く伸びた影だけが、不気味に揺れていた。

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