小さな実験
月曜日の朝、洗面所の鏡の前で、僕は一匹の奇妙な生物と対峙していた。
映っているのは僕自身だ。相馬湊、高校二年生。
だが、その表情はいつもの僕ではない。
口角を不自然に吊り上げ、目尻を下げ、眉を少し上げる。
脳内では「僕は無害だ」「今日の朝ごはんは何だったかな」という、知性を意図的に低下させるマントラを唱え続けている。
「……おはよう」
鏡の中の自分に話しかけてみる。
声のトーンを半音上げる。攻撃性を抜き、相手の警戒心を解くための周波数にチューニングする。
引きつっている。まだ、どこか能面のようだ。
でも、先週までの「死んだ魚の目」よりは幾分マシに見えた。少なくとも、今すぐ飛び降りそうな悲壮感は消えている。
リビングからは、父さんの気配はしなかった。もう出社したようだ。
この家の空気は依然として重い。窒素と酸素の代わりに、不安と沈黙が充満している。
でも、今の僕には秘密の武器がある。
ポケットの中に忍ばせた、一袋のフルーツグミ。そして、週末に鏡の前で何百回も練習した
「ボノボの笑顔」
僕は深呼吸をし、頬をパンと叩いた。
行こう。実験の始まりだ。
学校までの道のりは、いつものように憂鬱だったが、視点は少し変わっていた。
すれ違うサラリーマンの疲れた顔、満員電車で押し合いへし合いする人々。
以前なら「嫌な光景だ」と目を背けていただろう。
でも今は、「ああ、ここでも過密環境によるストレス反応が起きているな」と、生物学的なフィルターを通して眺めることができた。
現象として理解できれば、不快感は軽減される。藤堂先輩の教えだ。
教室に到着する。
ガラリと引き戸を開けると、そこには相変わらずのジャングルが広がっていた。
月曜特有の気だるさと、週末の出来事を報告し合うマウンティング合戦の喧騒。
豪徳寺はまだ来ていない。吉川が、教卓の前で誰かの宿題を必死に写している。
僕は自分の席に着き、鞄を置いた。
心臓が少し早くなっている。
今日は、ただの観客ではいられない。舞台に上がり、演じなければならない。
ターゲットは誰にする?
豪徳寺はいきなりハードルが高すぎる。吉川は……まだ先週の拒絶が心に残っていて、近づくのが怖い。
もっと手頃な、それでいて教室の空気を悪くしている「小さな火種」を見つける必要があった。
チャンスは、三時間目の休み時間に巡ってきた。
前の授業で数学の小テストが返却された直後だった。
教室の後方、窓際の席で、ドカッという乱暴な音がした。
椅子を蹴る音だ。
「あーあ、マジふざけんなよ。赤点スレスレじゃん」
悪態をついているのは、鹿島(かしま)という男子生徒だった。
彼は豪徳寺のグループの末端にいる、いわゆる「腰巾着」の一人だ。身体は大きいが気は小さく、豪徳寺の前ではへこへこしている分、自分より弱い相手には強く出るタイプ。
彼はテスト用紙をクシャクシャに丸め、床に投げ捨てた。
そして、運悪く通りかかった女子生徒に八つ当たりをした。
「おい、邪魔だどけよ。デブ」
女子生徒がビクリと縮み上がり、謝りながら小走りで去っていく。
教室の空気が一瞬凍る。
誰も鹿島を諌めない。彼に関わると面倒だからだ。そして鹿島は、周囲が自分を恐れている(と感じる)ことで、テストの点数で傷ついた自尊心を回復しようとしている。
典型的な「置き換え攻撃」だ。
いつもなら、僕も教科書に目を落とし、見て見ぬふりをしただろう。
でも、今の僕には見える。
鹿島の背中に張り付いている「不安」の影が。
彼は怒っているんじゃない。怯えているんだ。成績が下がれば、豪徳寺グループでの立場が危うくなるかもしれないと。
(……よし)
僕はポケットの中のグミを握りしめた。
心臓が喉から飛び出しそうだ。足が震える。
本能が「やめろ、火傷するぞ」と警告アラームを鳴らしている。
でも、僕は席を立った。
ここで動かなければ、僕は一生、檻の中の震える猿のままだ。
僕は努めてゆっくりと、鹿島の席へ近づいた。
足音を殺さない。堂々と、しかし攻撃性のない足取りで。
鹿島が気配に気づき、ギロリとこちらを睨んだ。
「あ? なんだよ相馬。見世物じゃねえぞ」
低い声。威嚇音だ。
怖かった。胃が縮み上がる。
でも、僕は止まらなかった。彼の机の横まで行き、そこで立ち止まった。
そして、鏡の前で練習した「あの顔」を作った。
眉を上げ、目尻を下げ、口角を緩める。
頭の中を空っぽにする。
『僕は無害だ。僕は敵じゃない。今日の昼飯、楽しみだなあ』
「いや、鹿島君。すごい音したからさ」
僕は極めて能天気な声を出した。
「机、壊れたかと思ったよ。大丈夫?」
鹿島の目が点になった。
彼は僕がビビりながら近づいてくるか、あるいは正義感を振りかざして文句を言いにくると思っていたはずだ。
だが、僕の反応はそのどちらでもなかった。
ただの「天然ボケの心配」だ。
「……はあ? 壊れてねえよ。てか、関係ねえだろ」
「そっか、よかった。鹿島君、力持ちだからさ」
僕はさりげなく彼を持ち上げた。
そして、間髪入れずにポケットからグミの袋を取り出した。
「あ、そうだ。これ、食べる? さっき購買で買ったんだけど、レモン味が酸っぱすぎて、僕じゃ食べきれなくて」
もちろん嘘だ。これはコンビニで買ったものだし、僕はレモン味が好きだ。
でも、物語が必要なのだ。「余り物をあげる」という、相手に借りを意識させないための物語が。
僕は袋を開け、中身を見せた。黄色とオレンジの粒がキラキラしている。
鹿島は毒気を抜かれたような顔で、僕とグミを交互に見た。
怒りを持続させるためには、相手からの「恐怖」や「反抗」という燃料が必要だ。僕のような暖簾に腕押しな態度は、怒りの炎を不完全燃焼させる。
「……なんだお前。急に」
「いや、糖分補給すると頭スッキリするかなって。テストの後って疲れるよね」
「……まあな」
鹿島の手が、迷いながら伸びてきた。
食欲という原始的な欲求は、論理的な思考よりも速い。
彼がグミを一粒摘み、口に放り込む。
咀嚼。
甘酸っぱい味が広がる。脳内でセロトニンが分泌される。
彼の眉間の皺が、わずかに、本当にわずかに緩んだ。
「……ふつーじゃん。そんな酸っぱくねえよ」
「え、マジ? 鹿島君、酸っぱいの強いんだね。すげえな」
僕は大げさに驚いてみせた。
鹿島は鼻を鳴らしたが、その表情から険しい刺々しさは消えていた。
「お前が味覚お子ちゃまなだけだろ。……サンキュ」
「いえいえ。じゃ、また」
僕は長居せずに、さっと身を引いた。
ここが重要だ。恩を着せない。「ただの通りすがりの親切」として処理することで、彼のプライドを守るのだ。
席に戻ると、背中が汗でびっしょり濡れていた。
手が震えている。教科書を持つ指が言うことを聞かない。
でも、それは恐怖による震えではなかった。
興奮だった。
ドーパミンが脳内を駆け巡っている。
やった。
通じた。
あの「不機嫌な猛獣」を、僕は手なずけたのだ。言葉と、笑顔と、たった一粒のグミで。
教室の空気は、以前よりも少しだけ軽くなっていた。鹿島はもう椅子を蹴っていない。スマホをいじりながら、大人しくしている。
これが、力か。
腕力でねじ伏せるのとも、権力で命令するのとも違う。
もっと静かで、もっと浸透圧の高い力。
僕は机の下で、小さくガッツポーズをした。
藤堂先輩の理論は正しかった。人間は、どんなに凶暴に見えても、その本質は社会的な動物であり、つながりを求めている寂しがり屋の猿なのだ。
午後、僕はさらに実験を続けた。
移動教室の廊下ですれ違った、あまり話したことのないクラスメイトに「お疲れ様」と声をかけてみる。
掃除の時間、不機嫌そうにしていた女子に「そこ、僕がやっとくよ」と申し出てみる。
そのたびに、相手は一瞬驚いたような顔をし、それから少しだけ表情を緩める。
「ありがとう」という言葉が返ってくることもある。
その言葉の一つ一つが、僕の心に小さな灯りをともしていく。
僕は今まで、世界は「敵」か「無関係な背景」のどちらかだと思っていた。
でも、自分から働きかけることで、世界は「交渉可能な相手」に変わるのだ。
全能感にも似た高揚感が、僕を包み込んでいた。
放課後。
僕は弾むような足取りで、生物準備室へ向かった。
早く報告したい。藤堂先輩に、日下部君に、愛名先輩に。
僕の実験は大成功だったと。
世界は変えられるんだと。
だが、僕は気づいていなかった。
その「小さな成功」を、教室の隅で冷ややかに見つめる視線があったことを。
吉川ナオ。
かつて僕と同じ「最下層」にいた彼が、僕の変貌をどんな目で見ていたのか。
その瞳に宿っていたのは、感心でも感謝でもなく、もっとドロドロとした暗い炎だった。
光が強くなればなるほど、影もまた、濃くなるのだということ。
その残酷な物理法則を、僕はまだ知らなかった。
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