第38話 犯人は「掃除屋」にあり
魔力測定試験での大混乱から一夜明けた、放課後の旧校舎。
人気のない廊下に、革靴の冷たい足音が響いていた。
歩いているのは、魔法薬学教諭グレイブス。
常に神経質な顔つきをしている男だが、今の彼の表情は、凶悪な殺人鬼のそれに近かった。
「……ない。どこにもない」
彼はブツブツと呟きながら、立ち入り禁止区域である『旧・錬金術研究塔』の入り口に立っていた。
数日前まで、ここには彼の「最高傑作」にして「最大の汚点」である、合成魔獣(キマイラ)の廃棄物が投棄されていたはずだった。
組織への納品期限が迫っている。あのヘドロから抽出される特殊な魔力素が必要なのだ。
だが、塔の中は――もぬけの殻だった。
「誰だ……。誰が持ち去った?」
グレイブスはハンカチで鼻を押さえながら、現場検証を行っていた。
彼が探しているのは、侵入者の痕跡だ。足跡、魔力の残滓、あるいは泥棒が落とした毛髪一本でもいい。
しかし、ない。
あまりにも、なさすぎるのだ。
「おかしい……」
グレイブスは床を指でなぞり、その指先を凝視した。
指には、塵ひとつ付いていない。
ここは数十年放置された廃墟だ。本来なら、埃が厚く積もり、蜘蛛の巣が張り巡らされているはずの場所だ。
それなのに、床は鏡のように磨き上げられ、空気中のカビの胞子さえも「洗浄」されたかのように清浄だった。
盗賊やスパイの仕業かとも疑った。だが、彼らは「盗む」ことには長けていても、「掃除」などしない。足跡を消す隠蔽魔法を使ったとしても、ここまで物理的にピカピカに磨き上げる馬鹿はいない。
「……これは、隠蔽工作ではない」
グレイブスの脳裏に、一つの仮説が閃いた。
「これは『業務』だ。異常なまでに几帳面で、汚れを許さず、与えられた区画を完璧にリセットすることを生業とする者……」
昨日の測定試験会場で嗅いだ、あの「泥」の臭い。
そして、この異常な清潔さ。
「――掃除屋(クリーナー)。それも、プロの仕業か」
グレイブスの目が、爬虫類のように細められた。
犯人は、学園の内部にいる。生徒や教師の目を欺き、日常に溶け込みながら、裏でゴミ(証拠)を回収して回る、下賤な労働者。
「フフ……灯台下暗しとはこのことか」
彼はポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、学園が雇用している清掃員の名簿リストだ。
「狩りの時間だ。私の『ゴミ』を盗んだ不届き者を、根こそぎ『消毒』してやる」
一方その頃。
私は、学園の裏庭にあるゴミ集積所の前で、鼻歌交じりにモップを洗っていた。
「ふふーん♪ 今日も平和ねぇ~」
ザブザブとバケツの水を揺らす。
昨日のパニックが嘘のように、今日の学園は静かだった。
エルザ様は「体調不良(という名の引きこもり)」で欠席だし、私の泥パックによる被害者たちも、ショックで寝込んでいるらしい。
つまり、私のスパへのクレーム客はゼロ。手元には、昨日の売上金という莫大な利益だけが残ったわけだ。
「きゅッ!(勝利!)」
ポケットの中で、ぷるんちゃんが小さくガッツポーズをしている。
こらこら、あまりはしゃぐと見つかるわよ。
「さて、このままほとぼりが冷めるまで、私は『善良な清掃員A』に徹するのみ。誰も私が元凶だなんて気づいてな……」
「おい」
背後から、地獄の底から響くような声がした。
ピタリ、と私の動きが止まる。
心臓が早鐘を打つ。
振り返りたくない。全力でダッシュして地下へ逃げ込みたい。
でも、ここで逃げたら「私が犯人です」と自白するようなものだ。
私は深呼吸を一回。
顔の筋肉を緩め、背中を丸め、スイッチを切り替える。
モード・チェンジ――『卑屈な下級労働者』。
「ひぃッ!?」
私は大げさに肩を跳ねさせ、おっかなびっくり振り返った。
そこに立っていたのは、予想通り。眉間に深い皺を刻んだ、グレイブス教諭だった。
「は、はひぃ! ぐ、グレイブス先生ぇ!? な、何か粗相がございましたでしょうかぁ~!?」
私はモップを盾にするように抱え込み、小刻みに震えて見せた。
完璧だ。これぞモブ・オブ・モブ。誰がどう見ても、権力に怯えるただの小娘だ。
グレイブスは、値踏みするような冷たい視線で私を見下ろした。
その視線は、私の顔、制服の汚れ、そして手にしたモップへと、舐めるように移動していく。
「貴様。名は?」
「ア、アリア……アリア・ミレットでございますぅ……。汚物係の……」
「フン、汚物係か。お似合いだな」
彼は侮蔑を隠そうともせず鼻を鳴らした。
潔癖症の彼にとって、ゴミにまみれる私は、存在自体がバイ菌みたいなものなのだろう。
よし、いい傾向だ。このまま「関わりたくない」と思わせて退散させれば……。
「単刀直入に聞く」
グレイブスが一歩、距離を詰めてきた。
ツン、と薬品の臭いが鼻をつく。
「貴様、ここ数日の間に……『変わったゴミ』を拾わなかったか?」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
変わったゴミ。間違いなく、あのキマイラのヘドロ(後の高級泥パック)のことだ。
「えっ……か、変わったゴミ、ですかぁ?」
私は首を傾げ、わざと焦点の合わない馬鹿っぽい目をしてみせた。
「えっとぉ……昨日は食堂の裏で、まだ食べられそうなパンの耳を拾いましたけどぉ……あれはゴミじゃなくて私の夕飯ですしぃ……」
「食べ物の話ではない!」
グレイブスが苛立ちを露わにして怒鳴った。
「もっと大きな、黒くて、ドロドロした……不快な臭いのする廃棄物だ! 錬金塔の近くで見なかったか!?」
確信犯だ。彼は、私が塔に入ったことを疑っている。
ここで「見てません」と即答するのは怪しい。「塔には行ってません」と言うのも、逆に「なぜ塔のことを?」と突っ込まれる隙になる。
ならば、論点をずらすしかない。
相手の潔癖症(ウィークポイント)を突く、最低の回答で。
「ああっ! 分かりましたぁ!」
私はポンと手を打った。
「黒くてドロドロで臭いやつですね!? 見ました、見ましたぁ!」
「ほう!?」
グレイブスの目がギラリと光る。
「どこだ! どこでそれを回収した!?」
「えっとですねぇ、男子寮のトイレが詰まって逆流してましてぇ! もう床一面が黒いドロドロでぇ! 私が素手でこう、一生懸命掬って……あ、その時の汚れがまだ爪の間に……」
私は言いながら、わざと汚れた軍手を外そうとした。
「先生、見ますぅ? これ、なかなか落ちなくてぇ」
グレイブスの顔色が、サァーッと青ざめた。
「よ、寄るな! 汚らわしい!」
彼はハンカチで口元を覆い、後ずさりをした。
「貴様、何という不潔な……! もういい! 話にならん!」
作戦成功。生理的な嫌悪感が、彼の探究心を上回ったようだ。
彼は軽蔑の眼差しを私に向け、踵を返そうとした。
「ただの浅ましい乞食か……。時間の無駄だったな」
吐き捨てるように言い、彼が背を向けた――その瞬間。
私は内心でガッツポーズをし、緊張を解いた。ふぅ、危なかった。これで尋問は終わりだ。さっさと地下に帰って、今日の稼ぎを数えよう。
そう思って、モップをバケツに戻そうとした時だった。
「……待て」
背を向けたはずのグレイブスが、ピタリと足を止めた。
そして、ゆっくりと、首だけを回してこちらを振り返った。
その視線は、私ではなく、私の手元――愛用のモップに釘付けになっていた。
「…………綺麗すぎる」
ボソリと、彼が呟いた。
「え?」
「そのモップだ」
グレイブスが再び近づいてくる。さっきまでの軽蔑とは違う、冷徹な観察者の目で。
「貴様は今、男子寮のトイレ掃除をしてきたと言ったな。そして、パンの耳を拾うような薄汚れた生活をしているとも」
「は、はいぃ……?」
「ならばなぜ、その清掃用具は『新品同様』なのだ?」
ドキリとした。
私のモップ。
それは、私の『精密洗浄』スキルと、特製の洗剤によって、毎日メンテナンスされている逸品だ。
どんな汚れも一拭きで落とし、使用後は即座に洗浄・殺菌・乾燥が行われる。
だから、穂先は常に雪のように白く、柄はニスを塗ったばかりのように輝いている。
それはプロとしての誇りであり、私の唯一の贅沢だったのだが――。
「使い古した形跡はある。だが、汚れの沈着が一切ない。バケツの水も、カルキの跡ひとつない透明度だ」
グレイブスが、私の顔を覗き込んだ。
その瞳の奥に、疑念の炎が黒く燃え上がっている。
「ただの掃除婦が、道具をここまで『無菌状態』に保てるものか? ……まるで、高度な浄化魔法でもかけたかのように」
しまっ……た……!
「汚い格好」を装うことに必死で、「道具が綺麗すぎる」という矛盾に気づかなかった!
潔癖症の彼だからこそ、その「異常な清潔さ」に気づいてしまったのだ。
「あ、あう……こ、これは……」
私はしどろもどろになりながら、必死で言い訳を探した。
「そ、それは……私が綺麗好きだからですぅ! 道具が汚いと、お掃除の神様に怒られちゃうのでぇ! 毎日三時間かけて舐めるように磨いてるんですぅ!」
「……ほう。舐めるように、か」
グレイブスは冷ややかに鼻を鳴らした。
納得したわけではない。だが、これ以上追及する証拠もない、といった顔だ。
「まあいい。狂人の妄言として聞いておこう」
彼は今度こそ背を向け、歩き出した。
だが、その去り際に残した言葉が、私の耳に呪いのようにこびりついた。
「だが、覚えておけ、掃除婦。――ゴミの中に紛れた『ネズミ』は、いずれ必ず尻尾を出す。私は、私の所有物を盗んだ者を絶対に許さん」
カツーン、カツーン……。
足音が遠ざかっていく。
私はその場にへたり込んだ。
冷や汗で背中がびっしょりだ。
「きゅ……(こわかった……)」
ポケットから顔を出したぷるんちゃんが、心配そうに私の指を舐めた。
「……バレたわね。完全には」
私は震える手でモップを握りしめた。
彼はまだ確信はしていない。だが、「コイツはただの馬鹿ではない」とマークされてしまった。
グレイブス教諭。
ただの嫌味な先生だと思っていたけれど、想像以上に勘が鋭い。そして、執念深い。
私の『精密洗浄眼』が警告している。
あの男の背中から、ドス黒い粘着質の魔力が糸のように伸びて、私に絡みつこうとしているのを。
「まずいわね……。これじゃあ、うかつに地下スパへの入り口も使えない」
私は空を見上げた。
夕焼けが、まるで血のように赤く学園を染めている。
平穏な日常は終わった。
ここからは、潔癖症の教師と、汚れのプロフェッショナルである私との、仁義なき「お掃除合戦」の始まりだ。
「……受けて立つわよ。私の平穏と老後資金のためなら、どんな汚れ(敵)だって綺麗サッパリ『洗浄』してやるんだから!」
私は誰にともなく宣言し、ピカピカに磨き上げすぎてしまったモップを、今更ながら地面の土で少し汚した。
だが、私はまだ知らなかった。
グレイブスが去り際に、指先から目に見えないほどの小さな「魔法の粉」を弾き、私のモップに付着させていったことを。
――追跡開始まで、あと数時間。
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