第34話 ギデオンの聖典(クロニクル)
翌朝。
私は、小鳥のさえずりよりも軽やかな気分で目を覚ました。
「ん~っ! 空気が美味しい! いや、お金の匂いがする!」
寮の狭いベッドから跳ね起き、枕元に隠しておいた『帳簿(裏)』を確認する。
昨夜、地下スパで行われた『深淵のデトックス・コース』お披露目会。その効果は劇的だった。
ベアトリクス様とマーサ先生の肌は、一夜明けた今頃、きっと学園中の注目の的になっているはずだ。
そして、マーサ先生が仕掛けた「闇のオークション」の噂も、水面下で広まりつつある。
『出処不明の東方の秘薬』。グラム単価・白金貨一枚。
原価ゼロのヘドロが、国家予算レベルの高級品に化ける錬金術。これを現代では「詐欺」とは呼ばない。「ブランディング」と呼ぶのだ。
「さーて、今日も元気に学校の掃除(と、カモの観察)に行きますか!」
私は鼻歌交じりに制服に着替え、いつもの商売道具――モップとバケツを持って部屋を出た。
◇
廊下を歩いていると、向こうからフラフラと頼りない足取りで歩いてくる男子生徒がいた。
学級委員長のギデオン・アイアンサイドだ。
いつもなら制服のシワひとつ許さない彼が、今日はなぜか目の下に濃いクマを作り、髪も少し乱れている。まるで徹夜で世界の真理について考え込んでいた哲学者のような風情だ。
「あ、委員長。おはようございます」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせ、スローモーションのように顔を上げた。
「……あ、アリア……さん」
その目が、私を捉える。
以前のような、規則違反を咎める厳しい目じゃない。
なんというか、こう……捨てられた子犬が、雨の中で新しい飼い主を見つけた時のような、湿っぽい熱を含んだ瞳だ。
「お、お疲れのようですね? 勉強のしすぎですか?」
私が愛想笑いを浮かべると、ギデオン君は急に真顔になり、私の手元――モップを握る手――をじっと見つめた。
「……君は、強いな」
「はい?」
「昨夜、あんな壮絶な……い、いや。あんな『大仕事』を成し遂げたばかりだというのに。翌朝にはこうして、何食わぬ顔で日常に戻り、誰に誇ることもなく汚れ仕事に従事している」
彼は胸の前で拳を握りしめ、感極まったように声を震わせた。
「その献身。その無私の精神。……僕には、眩しすぎるよ」
「はぁ……(何言ってんだこいつ)」
大仕事って、昨日のヘドロ掃除のこと?
まあ確かに大変だったけど、戦利品(泥)とお金のこと考えたら疲れなんて吹っ飛ぶし。
それに「誰に誇ることもなく」って言うけど、マーサ先生にはガッツリ報告して報酬もらったし、全然「無私」じゃないんだけど。
「あの、委員長? 大丈夫ですか? 保健室行きます?」
「いいや、僕は大丈夫だ。……それより、アリアさん」
ギデオン君が一歩、私に詰め寄ってきた。
そして、誰にも聞かれないような小声で、意味深に囁いた。
「君の『荷物』は、あまりにも重い。……だから、せめて一つだけ言わせてくれ」
「は、はい(荷物? バケツのこと?)」
「君は一人じゃない。……僕がいる。僕だけは、君の真実を知っているから」
彼はそう言い残すと、踵を返し、風のように去っていった。
去り際に、私の足元のバケツ(中にはスライムのぷるんちゃんが擬態している)に向かって、恭しく一礼していったのを私は見逃さなかった。
「……何なのよ、一体」
私はポカンとその後ろ姿を見送った。
もしかして、徹夜で勉強しすぎて頭が沸いちゃったのかしら。
それとも、私の「裏の顔(スパ経営者)」に勘づいて、遠回しに「俺も混ぜろ(割引しろ)」って言いに来たとか?
「……ま、いっか。お金にならない男の話はスルーに限るわ」
私はすぐに思考を切り替え、本来の目的である「エルザ様の肌チェック」へと向かった。
ギデオン君が自室に戻り、とんでもないものを書き記しているとも知らずに。
◇
一方その頃。男子寮、ギデオンの個室。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、ギデオンは机に向かっていた。
机上には一冊の重厚な革表紙のノート。
表紙には金箔で『聖女アリア・ミレット観察日記(聖典)』と刻印されている。
彼は震える手で羽根ペンを握り、昨夜の出来事を記録していた。
『――星暦X年、霧の月、12日。
世界はまた一つ、人知れず救われた。
場所は旧・錬金術研究塔。かつての愚かな魔術師たちが残した「負の遺産」が眠る、禁忌の地である。』
ギデオンの脳裏に、昨夜の光景がフラッシュバックする。
月光の下、巨大な悪魔(ヘドロ)に立ち向かう、小柄な少女の背中。
『彼女は、たった一人だった。
軍隊すら逃げ出すであろう、腐敗と怨念の化身に対し、彼女は聖なる武具『銀の聖櫃(アーク)』(※掃除機)を携え、毅然と対峙した。』
ペン先が走る。インクが滲むのは、彼の目から落ちる涙のせいだ。
『彼女は叫んだ。「吸えぇぇッ! 不純物を一粒残らず!」と。
それは、現世の汚れを嘆く慈母の祈りであり、悪霊を強制的に昇天させるための、詠唱破棄による広域浄化魔法の起動言霊(コマンド)であった。
荒ぶるポルターガイスト現象は一瞬で鎮まり、呪われた空気は清浄なものへと書き換えられた。』
ギデオンはページをめくった。
『そして、最上階での決戦。
彼女は自らの血肉を分けた精霊獣(スライム)を使役し、悪魔の猛毒をその身に受けさせた。
黄金に輝いていた精霊は、すべての呪いと穢れを吸収し、漆黒の姿へと堕ちてしまった。……それでもなお、精霊は主人の足元で健気に跳ねていた。あれほどの自己犠牲の精神を、僕はかつて見たことがない。』
そこまで書き記すと、ギデオンは一度ペンを置き、深い溜め息をついた。
アリア・ミレット。
彼女は、学園の最底辺である「掃除係」という身分に身をやつし、誰からも蔑まれながら、裏ではこの世界の危機を救い続けている。
なぜだ? なぜ彼女は、正体を隠す?
「……きっと、彼女を狙う『敵』がいるからだ」
ギデオンは、机の引き出しから「ある物」を取り出した。
それは、昨夜の塔の入り口付近で、アリアが落とした(正確には「ゴミだから捨てた」)小さな欠片だ。
陶器の破片のようだが、そこには不気味な黒い染料で、一輪の薔薇の紋章が描かれている。
アリアは塔を出る際、これを一瞥し、侮蔑するように投げ捨てた。
その時の彼女の言葉を、ギデオンは鮮明に覚えている。
『ケッ、安っぽい偽ブランド品ね。金にもならないゴミだわ』
――ギデオンの脳内翻訳機能が作動する。
『フン、またこの組織(シンジケート)か。金で魂を売った愚か者たちの、忌まわしき紋章(レガリア)ね』
「……『黒い薔薇』」
ギデオンは破片を強く握りしめた。
「これが、彼女を苦しめている闇の組織の印なのか。彼女は、この組織が学園に持ち込んだ呪いを、たった一人で回収して回っているというのか」
実際には、それはグレイブス教諭が愛用している安物の実験器具メーカー『ブラック・ローズ・ケミカル社』のロゴの一部であり、アリアが捨てたのは単に「売れないガラクタだったから」なのだが。
悲劇的な英雄譚に脳を焼かれたギデオンには、それが「世界の裏側を牛耳る悪の結社」のシンボルにしか見えていなかった。
「許せない……」
正義感の塊であるギデオンの胸に、かつてない怒りの炎が灯る。
「アリアさんは、優しすぎる。だから全てを一人で背負い込んでしまうんだ。……誰かが、彼女の代わりにこの『闇』を暴かなければならない」
彼は日記の新しいページを開き、力強い筆致で決意の言葉を記した。
『宣誓。
僕、ギデオン・アイアンサイドは、今日よりアリア・ミレットの「影の守護者」となる。
彼女が表の掃除(物理)を行うなら、僕は裏の掃除(諜報)を行おう。
まずは、この「黒い薔薇」の紋章を持つ組織について、徹底的に調査を開始する。学園の図書室、古文書、果ては裏社会の情報屋を使ってでも、必ず尻尾を掴んでみせる』
パタン、と重々しい音を立てて日記を閉じる。
彼は立ち上がり、窓のカーテンを少しだけ開けた。
眼下には、中庭でモップを振るうアリアの姿が見える。
彼女は笑っていた。
(※「エルザ様、今日も厚化粧が崩れてる~! 泥パック売りつけるチャンス!」と画策している笑顔)
「……守ってみせる。その聖女の微笑みを」
ギデオンは眼鏡の位置をクイッと直し、使命感に燃える瞳で学園の闇(存在しない)を睨みつけた。
こうして、ただの掃除係アリアの知らぬところで、学園一真面目な委員長による、壮大かつ的外れな「対・悪の組織」諜報活動が幕を開けたのである。
そしてこの活動が、回り回って本当の悪(グレイブス教諭)を追い詰め、アリアの計画を予想外の方向へ加速させることになるのは――まだ少し先の話だ。
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