第8話 鬼の寮監、襲来

「ひっ……ひいいいいぃぃぃッ!?」


 私の悲鳴にならない悲鳴が、美しく改装されたばかりの地下スパに木霊した。


 終わった。

 完全に終わった。

 人生終了のお知らせだ。


 目の前に仁王立ちしているのは、泣く子も黙る、走る生徒は石化して止まる、王立魔法学園の生ける伝説。

 鬼の寮監、マーサ・ヴァン・ダイン先生。


 その氷のような瞳が、眼鏡の奥でキラリと光った。


「……汚物係のアリア。貴女、学園の地下施設を私物化し、あまつさえ怪しげな魔物を繁殖させているのですか?」


 低く、冷徹な声。

 温度のないその響きだけで、私の心臓は凍結粉砕されそうだ。


「ち、ちちち、違うんですぅ! これはその、廃棄物処理の一環というか、リサイクル活動というか、SDGs的な……!」


「黙りなさい」


 ピシャリ。有無を言わせぬ一喝。

 マーサ先生が、カツン、カツンとヒールを鳴らして近づいてくる。


 その手には、違反者を折檻するための愛用の指示棒が握られている。


 あ、あれで叩かれるんだ。

 そして退学届にサインさせられて、路頭に迷うんだ。

 せっかく国宝級の美容液を手に入れたのに、使う前に野垂れ死ぬんだわ……!


(逃げなきゃ! ぷるんちゃんを抱えて、今すぐ非常口から……!)


 私は本能的に後ずさり、ぷるんの方へ手を伸ばそうとした。


 だが、その時。

 極限の恐怖で感覚が鋭敏になっていた私の『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』が、意図せずしてマーサ先生の状態を解析してしまった。


 ピピピッ……!


 私の視界に、青白い解析グリッドが展開される。

 いつもはスラグの成分を見るためのそれが、今はマーサ先生の体をスキャンしている。


 【解析対象:マーサ・ヴァン・ダイン(人間・女性)】

 【状態:極度の疲労、魔力回路の鬱血、慢性的な炎症】


「……え?」


 表示されたデータのあまりの惨状に、私は思わず声を漏らしてしまった。


 綺麗にプレスされた制服。一糸乱れぬまとめ髪。完璧な姿勢。

 外見はいつもの「鉄の女」そのものだ。けれど、その内側はボロボロだった。


 特に酷いのが腰だ。

 腰椎L4とL5の間に、真っ赤な警告色が灯っている。

 椎間板にかかる圧力、限界値突破。筋肉の硬直度、ダイヤモンド級。

 これ、立ってるだけで激痛が走っているはずだ。なんで平然と歩けるの? ド根性なの?


 さらに肌。

 厚いファンデーションの下には、長年の魔力行使と睡眠不足による毛細血管の拡張、そして乾燥による無数の微細な亀裂(クラック)が走っている。


(うわぁ……これ、スラグより酷いかも……)


 私の職業病がうずいた。

 汚いものを見ると綺麗にしたくなる。

 詰まっているものを見ると通したくなる。

 今のマーサ先生は、私にとって「歩く巨大な詰まり」に見えてしまったのだ。


「……何を呆けているのです。弁明の余地もありませんか」


 マーサ先生が、私の目の前まで迫っていた。

 指示棒が振り上げられる。


「覚悟しなさい。規則違反者には、相応の罰を――っぅ!」


 突然、マーサ先生の動きが止まった。

 端正な顔が歪み、眉間に深い皺が刻まれる。

 振り上げた腕が、小刻みに震えている。


「せ、先生……?」


「くっ……なんでもありません……!」


 先生は気丈にも体勢を立て直そうとしたが、私の目は見逃さなかった。

 腰のあたりで、限界を迎えた筋肉繊維が悲鳴を上げているのを。


 ビキィッ!


 あ、切れた。

 いや、物理的に切れたわけじゃないけど、精神の支柱みたいなものが折れる音が聞こえた気がした。


「あ……ぅ……」


 鬼の寮監が、膝から崩れ落ちる。

 よりによって、前方へ。

 そのまま倒れれば、コンクリート(今は大理石風だけど)の床に顔面を強打するコースだ。


「先生ッ!?」


 私が叫ぶより早く、地下室の主たちが動いた。


「キュウッ!(訳:お客さんだ!)」

「ポヨヨン!(訳:受け止めろー!)」


 私の背後から、桜色のぷるんと、クッション役を務めていたスライムたちが弾丸のように飛び出したのだ。


 ボヨォォォォン……ッ!


 マーサ先生の体が床に激突する寸前、巨大なスライムの集合体がその下に入り込んだ。

 まるで高級なウォーターベッドのように、先生の体を優しく、柔らかく受け止める。


「――っ!?」


 マーサ先生が目を見開いた。

 衝撃が来ない。痛みがない。それどころか。


「な、何ですか……これは……」


 先生の体が、ずぶずぶとスライムの中に沈んでいく。


 もちろん、窒息させるわけじゃない。

 ぷるんたちは心得たもので、顔だけを水面に出させ、首から下を完璧に包み込む「スパ・モード」に変形したのだ。


 人肌に温められたスライムの粘液が、制服の上から――いや、魔力的な浸透圧で繊維を通り抜け、直接肌へとアプローチを開始する。


「ひゃっ……! な、何をするの……離しなさい……!」


 マーサ先生は必死に抵抗しようとした。

 けれど、それは数秒しか持たなかった。


 ぷるんが、先生の腰――あの爆発寸前だった患部に、集中的に微振動(バイブレーション)を送り込んだからだ。


 ブブブブブブ……。


「あ……っ!」


 マーサ先生の口から、聞いたこともないような艶めかしい声が漏れた。

 指示棒がカランと音を立てて床に転がる。


「だ、だめ……そこは……腰は……あぁ……っ」


 抵抗していた腕が、だらりと力を失う。

 固く結ばれていた口元が緩み、眼鏡が少しずれる。


 私はその光景を、口をあんぐりと開けて見守るしかなかった。


(やばい。これ、絵面的にアウトじゃない?)


 地下室で。教師を。スライム攻め。


 退学どころか、社会的抹殺レベルの光景なんだけど!


「ぷ、ぷるんちゃん! ストップ! 先生を解放してあげて!」


 私が慌てて止めようとすると、スライムの中からマーサ先生の掠れた声が聞こえた。


「……待っ……て……」


「え?」


「止めないで……あと少し……そこに……あぁ、効く……」


 えぇ……?

 要求してる?


 マーサ先生は、完全にスライムの虜になっていた。無理もない。


 ぷるんたちは今、先生の体から「疲労」という名の汚れ(スラグ)を感知し、それを食事として吸い出しているのだ。


 私の『精密洗浄眼』には見える。

 先生の体から、どす黒い靄(もや)のようなものがスライムに吸い取られ、代わりにピンク色のキラキラした修復エネルギーが注入されていく様子が。


 まさに、毒素排出(デトックス)と超回復の同時進行。

 岩のように凝り固まっていた筋肉が、バターのように溶かされていく快感は、筆舌に尽くしがたいはずだ。


 さらに、部屋に充満する芳醇な香り。

 『ロイヤル・ゼリー・スライムコア』から揮発する成分が、先生の鼻腔をくすぐり、脳の芯までリラックスさせていく。


「……信じられない……腰の痛みが……消えていく……」


 マーサ先生が、うわごとのように呟く。

 その瞳はトロンと潤み、頬には少女のような紅潮が差している。

 いつもの鉄仮面はどこへやら。そこにいるのは、ただの「疲れ切った一人の女性」だった。


「アリア……さん……?」


 不意に名前を呼ばれ、私はビクリとした。


「は、はいぃっ!」


「これは……一体、何の魔法なの……? 王宮の治癒師でも、こんな……」


 先生の視線が、私に向けられる。

 その目は、もう怒っていない。むしろ、渇望と驚愕に揺れている。


 そして、その視線は私の顔――泥メイクを洗い流し、隠すのを忘れていた「素顔」に釘付けになった。


「それに……貴女のその肌……」


 しまった。

 私は反射的に顔を隠そうとしたが、遅かった。

 地下の照明(発光スライム)に照らされた私の肌は、自画自賛になるが、真珠のように輝いている。

 毛穴レス、シミなし、くすみなし。内側から光を放つような、圧倒的な「美」の暴力。


 肌荒れに悩むマーサ先生にとって、それは最も見たくて、最も信じられないものだったはずだ。


「どうして……平民の貴女が……そんな……」


 先生の手が、震えながら私の頬へ伸びてくる。

 私は逃げなかった。

 逃げても無駄だし、何より、先生の目が「嫉妬」ではなく「縋(すが)る」ような色をしていたからだ。


「……触っても、いいかしら?」


「あ、どうぞ……」


 スライムに埋もれたまま、先生の指先が私の頬に触れる。


 ツルッ。


 摩擦ゼロ。指が滑るような滑らかさ。


「っ……!」


 マーサ先生が息を呑んだ。


「嘘でしょう……。この弾力、この水分量……十代の頃の私より……いえ、生まれたての赤子のよう……」


 先生は自分の頬に手をやり、その感触の違いに愕然としているようだった。

 長年の激務で荒れ果てた自分の肌と、ゴミの中で生きる私の肌。その残酷なまでの格差。


「アリアさん」


 マーサ先生の声色が、変わった。

 教師としての威厳ある声ではない。

 もっと必死で、切実な、一人の女性としての声。


「……教えてちょうだい。貴女、何を使ったの?」


 ゴクリ、と私が息を呑む音が響いた。

 これは、分岐点だ。


 ここで「何もしてません」とシラを切れば、規則違反で退学コース。

 でも、もし真実(の一部)を話して、先生をこっち側に引き込めれば……?


(……いけるかも)


 私の脳内で、悪魔的な計算機が弾き出した答えは「GO」だった。

 マーサ先生は厳しいけれど、不正をする人じゃない。そして何より、「美」に対する執着は誰よりも強そうだ。

 この人を味方につければ、学園内での最強の後ろ盾になる。


 私はニッコリと、営業用スマイル(効果120%増し)を浮かべた。


「先生。実はこれ、私が独自に開発した『特別なエステ』なんですぅ」


「エステ……?」


「はい。学園の廃棄物を特殊な方法でリサイクルして生まれた、世界にここだけの美容法。……効果のほどは、今、先生の体で実感されている通りです」


 私はぷるんに目配せをした。

 ぷるんは「合点承知!」とばかりに体を震わせ、体内から例の『ロイヤル・ゼリー』の欠片を絞り出した。


 ポトッ。


 先生の胸元に落ちた、桜色の宝石のようなゼリー。

 濃厚な香りが爆発的に広がる。


「こ、これは……」


「試供品です。先生のそのお辛そうな肌荒れも、それを使えば一晩で……ふふっ」


 私は言葉を濁し、意味深に微笑んだ。


 マーサ先生は、震える手でそのゼリーを掬い上げた。

 疑う余地などなかった。体が、細胞が、本能が叫んでいるのだ。「それを塗れ」と。


「……アリアさん」


「はい」


「ここでのことは……見なかったことにします」


 早ッ! 即決ですね先生!


 マーサ先生はゼリーを握りしめ、スライムの海に身を委ねながら、恍惚の表情で天井を見上げた。


「いいえ、訂正します。……ここを『特別課外活動施設』として認定します。管理責任者は私。会員番号1番も、私」


 先生の目が、ギラリと怪しく光った。

 それは鬼の寮監の目ではなく、獲物を見つけた肉食獣の目だった。


「アリア、貴女には『私の専属エステティシャン』としての特別任務を与えます。……拒否権はないわよ?」


「……イエス・マム!」


 私はビシッと敬礼した。


 心の中で、盛大にガッツポーズを決めながら。


(やったぁぁぁぁぁ! 寮監先生、陥落ぅぅぅぅぅ! これで地下帝国公認化の第一歩ゲットだぜ!)


 マーサ先生はそのまま、「あぁ……極楽……」と呟いて目を閉じた。

 完全にスライムの一部と同化している。

 明日、先生がどんな顔で目覚めるか、今から楽しみで仕方がない。


 私はぷるんの頭を撫でながら、静かにほくそ笑んだ。


 さあ、エルザ様たち。震えて眠れ。

 最強の美魔女(予定)が、もうすぐ地上に降臨するわよ。


 ――しかし、私はこの時、少し見誤っていたかもしれない。

 「美」を取り戻した女の執念とエネルギーが、私の想像を遥かに超えて凄まじいものになるということを。


 翌朝、学園を揺るがす大事件が起きるとも知らずに、私はスライムたちと一緒に先生のマッサージに勤しむのだった。

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