第6話 医務室の拒絶と地下帝国の野望
地下室から地上へと続く長い螺旋階段を、私はスキップ一歩手前の足取りで駆け上がった。
懐には、布でぐるぐる巻きにしたガラス瓶。
中身は、あの国宝級美容液『ロイヤル・ゼリー・スライムコア』の欠片だ。
心臓が早鐘を打っている。
これは間違いなく、世紀の大発見だ。
もしこの価値が認められれば、私は「汚物係」なんて不名誉な称号とおさらばできるかもしれない。特許収入で優雅な隠居生活を送るもよし、研究者としてスカウトされるもよし。
夢は無限に広がっていく。
(まずは医務室の先生に見てもらおう。あのいつも眠そうなロイド先生なら、偏見なく「物」を見てくれるはず!)
私は期待に胸を膨らませ、医務棟の廊下を進んだ。
すれ違う生徒たちが、私の姿を見て露骨に鼻をつまみ、壁際へ避けていく。
「うわ、汚物係だ」
「なんで校舎内を歩いてるわけ? 菌が移るんだけど」
「消毒魔法かけとけよ」
いつもなら胸に刺さる陰口も、今日の私にはBGM程度にしか聞こえない。
ふん、言うなら言えばいいわ。
あんたたちが必死に化粧で隠してるそのニキビ面、私が懐に持ってるこれ一滴で治せるんだけどね? ま、教えてあげないけど!
優越感を噛み締めながら、私は医務室のドアをノックした。
「し、失礼しますぅ~……」
いつもの卑屈な声を出しながら、ドアをそっと開ける。
中には、白衣を着た人物がデスクに向かっていた。
しかし、そこにいたのは私が期待していた温厚な老校医のロイド先生ではなかった。
神経質そうな銀縁メガネ。
整えられた口ひげ。
そして、見るからに高圧的な態度で書類にペンを走らせている男。
――魔法薬学担当の、グレイブス教諭だ。
授業中、平民の生徒を立たせて無視することで有名な、差別主義者の権化である。
(げっ、最悪のハズレ引いた……!)
私は反射的に回れ右をして帰りたくなったが、グレイブス教諭が鋭い視線をこちらに向けた。
「……なんだ、貴様は。ここは神聖な医療の場だぞ」
彼の視線は、私の顔ではなく、泥で汚れた防護服(地下作業用)に釘付けになっている。
その目は、まるでゴキブリでも見るかのような嫌悪に満ちていた。
「あ、あのぉ……ロイド先生はいらっしゃらないでしょうかぁ……?」
「ロイド先生は学会で不在だ。今は私が代理で監督している」
グレイブス教諭はペンを置き、ハンカチで口元を覆った。
「用件がないならとっとと出て行け。貴様がそこに立っているだけで、室内の無菌状態が脅かされる」
酷い言い草だ。
でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
私は勇気を振り絞り、懐から布に包んだ小瓶を取り出した。
「じ、実はですね! 先生に見ていただきたいものがありましてぇ……! これ、スラグ処理中に見つけたんですけど、すごく珍しい薬効成分があるみたいで……!」
私は精一杯の「発見者」としての熱意を込めて訴えた。
成分分析ができれば、きっと彼だって目の色を変えるはずだ。魔法薬学の専門家なら、このコアの凄さが分からないはずがない。
私は小瓶を掲げ、一歩前に出た。
「これなんですけど――」
「近寄るなッ!!」
ドンッ!
グレイブス教諭が杖を振り上げ、衝撃波(ショックウェーブ)を放った。
「きゃあっ!?」
私は吹き飛ばされ、背中でドアに激突した。
小瓶を取り落としそうになり、慌てて胸に抱きかかえる。
「な、何を……!」
「汚らわしい! ゴミ漁りの分際で、私に廃棄物を近づけるなと言っているんだ!」
彼は立ち上がり、怒りで顔を赤くしていた。
「スラグ処理中に見つけただと? どうせ腐った魔獣の死骸か、カビの生えた実験廃棄物だろう! そんな病原菌の塊を、あろうことか医務室に持ち込むとは……貴様、バイオテロでも起こすつもりか!?」
「ち、違います! これは毒なんかじゃなくて、すごい治癒効果が……!」
「黙れ! 平民の浅知恵で魔法薬を語るな!」
グレイブス教諭は杖先を私に向けた。
その先端に、青白い魔法陣が展開される。
「《滅菌・浄化(ステリライズ・パージ)》!」
シュゴオオオオオッ!!
強力な洗浄魔法の霧が、私に向かって噴射された。
それは医療用の消毒魔法だが、出力が明らかに過剰だ。皮膚がヒリヒリと焼けつくような刺激。
「きゃああああっ!」
「消毒だ! 菌が死滅するまでそこから動くな!」
私は必死に身を丸め、懐の小瓶を守った。
防護服が薬品で変色していく。
髪が濡れ、目に入った消毒液が痛い。
でも、それ以上に痛かったのは、心だった。
「……見てすら、くれないんですか」
消毒の嵐の中で、私は小さく呟いた。
「はあ? 当たり前だろう。ゴミの中から拾ったゴミに、鑑定する価値などない。さっさとそれを焼却炉に捨ててこい。二度と私の前に顔を見せるな!」
グレイブス教諭は、汚物を見るような目で私を睨みつけ、再びハンカチで鼻を覆った。
「おい、そこの窓を開けろ! 換気だ! まったく、これだから下賤な者は……」
……プツン。
私の中で、何かが切れる音がした。
それは、今まで学園生活を生き抜くために張り詰めていた「忍耐」という名の糸だったかもしれない。あるいは、「いつか誰かが認めてくれるかもしれない」という、淡い期待の糸だったかもしれない。
(あ、そっか)
私は消毒液まみれの床から、ゆっくりと立ち上がった。
(この人たちには、見えないんだ)
防護服の汚れしか。
平民という肩書きしか。
「汚物係」というレッテルしか。
その中にある「本質」を見ようともしない。
たとえ私がダイヤモンドを持っていようと、彼らにとっては「汚い石ころ」にしか見えないのだ。
だったら。
「……失礼しましたぁ」
私は深く、深く頭を下げた。
顔を上げたとき、私の表情は能面のように冷え切っていた。もちろん、マスクの下で。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでしたぁ……。すぐに、焼却処分してきますぅ……」
「フン、分かればいい。二度と来るな」
私は背を向け、医務室を出た。
ドアが閉まる寸前、グレイブス教諭が「清浄な空気が台無しだ」と吐き捨てるのが聞こえた。
パタン。
ドアが閉まる。
廊下の静寂。
私は懐の小瓶をギュッと握りしめた。
中のゼリーは、相変わらず美しく、神秘的な桜色の光を放っている。
この光が、私を励ますように、じんわりと胸を温めてくれる。
「……バーカ」
私は誰もいない廊下で、小さく舌打ちをした。
「一生、消毒液の臭いの中で生きてなさいよ。あんたのそのシミだらけの手、私が治してやる義理なんて、もうこれっぽっちもないから」
私の足は、自然と地下への階段へと向いていた。
もう迷いはない。
認められたい? 評価されたい?
そんな承認欲求は、あの消毒液と一緒に洗い流された。
私は知っている。
この世界で一番価値のあるものが、今、私の手の中にあることを。
そして、それを生み出してくれる最高の相棒が、地下で私を待っていることを。
(あいつらに、この宝は一滴たりとも渡さない)
階段を降りるごとに、私の心は冷たく、しかし燃えるような野望で満たされていった。
(私が使う。私が独占する。そして、私が誰よりも美しく、幸せになってやる)
地下室の重い鉄扉の前に立つ。
ここから先は、汚い学園のルールは適用されない。
ここからは、私の国だ。
ガチャリ。
扉を開けると、そこには甘い香りと、桜色に輝くぷるんの姿があった。
「キュウ~?(訳:どうだった? 売れた?)」
心配そうに近づいてくるぷるんを、私は思い切り抱きしめた。
「ぷるんちゃん。……売らないよ、これ」
私はマスクを脱ぎ捨て、防護服のジッパーを下ろした。
そして、小瓶の中身を手のひらに取り出す。
プルプルと震えるゼリー。
「これは、私たちだけのもの。ここを、世界で一番すごい場所にしよう」
私はそのゼリーを、自分の顔にたっぷりと塗りたくった。
ジュワァァァ……ン。
極上の快感と共に、細胞が歓喜の声を上げる。
鏡なんて見なくても分かる。
私の肌が、今この瞬間、地上のどの貴族よりも美しく生まれ変わっていることが。
「まずは改装ね。こんな殺風景なコンクリートじゃ、気分が上がらないもの」
私はキラキラと輝く瞳で、薄暗い地下室を見渡した。
私の『洗浄』スキルと、ぷるんの生成能力があれば、なんだってできる。
地上の連中が、肌荒れとストレスで醜く歪んでいく間、私はこの地下帝国で、最高のスパ・ライフを謳歌してやるのだ。
想像するだけで、笑いが止まらない。
「さあ、忙しくなるわよ、ぷるんちゃん!」
「キュウッ!(訳:ガッテン承知!)」
こうして、「汚物係」アリアの本当の戦いが幕を開けた。
それは魔法による戦闘ではない。
圧倒的な「美」と「富」の格差による、優雅にして残酷な復讐劇の始まりだった。
――しかし、私はまだ気づいていなかった。
私が「自分だけの秘密」にしようとしたこの楽園の輝きが、あまりにも強烈すぎて、地下の闇すらも照らし出し、予期せぬ訪問者を引き寄せてしまうことに。
その夜、地下の配管を通じて、微かな、しかし極上の「香り」が、学園の寮へと漏れ出していることを――。
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