第6話「6月:アジサイラビットと変化」

プロローグ

 6月1日。


 梅雨の真っ只中。


 紫陽花が、色とりどりに咲いている。


 私は、学校帰りに紫陽花の道を歩いていた。


 雨は降っていないが、空は灰色だった。


 紫陽花の前で立ち止まると、足元に、それはいた。


 紫と青のグラデーションのウサギのぬいぐるみ。


 体には、小さな紫陽花の花模様。


 神秘的な雰囲気。


 やや大きめのサイズで、存在感がある。


「また...」


 私は、もう驚かなかった。


 ウサギを拾い上げると、案の定、声が聞こえた。


「変わりたい?」


 落ち着いた声。


 でも、次の言葉は、冷たかった。


「でも...元には戻れないよ」


 私は、息を呑んだ。


「あなたは...」


「私はアジサイラビット。6月のぬい」


 ウサギは、私を見上げた。


「変化は、怖いわ。一度変わったら、元の自分には戻れない」


「...」


「それでも、変わりたい?」


 私は、少し考えた。


「わからない」


「そう」


 アジサイラビットは、静かに言った。


「じゃあ、一緒に探しましょう。あなたが本当に変わりたいものを」


 私は、アジサイラビットをバッグに入れた。


 そして、家に向かった。


1

 家に帰ると、母はまだ帰っていなかった。


 いつものこと。


 母は、仕事が忙しい。


 毎日、遅くまで働いている。


 夕飯は、いつも一人。


 母が帰ってくるのは、夜の10時過ぎ。


 私が寝る頃には、母はまだ仕事の書類を見ている。


 母と、ちゃんと話したのは、いつだっただろう。


 私は、冷蔵庫からお弁当を取り出して、レンジで温めた。


 一人の夕飯。


 寂しい。


 でも、慣れた。


 食べ終わると、部屋に戻った。


 宿題をして、ギターの練習をして、シャワーを浴びて。


 いつもの日常。


 母のいない日常。


2

 その夜、母が帰ってきた。


 私は、部屋で音楽を聴いていた。


「ただいま」


 母の声が聞こえた。


「おかえり」


 私は、部屋から返事をした。


 母は、リビングでため息をついていた。


 私は、部屋から出て、リビングに向かった。


「お母さん、夕飯食べた?」


「ううん。まだ」


 母は、疲れた顔をしていた。


「お弁当、あるよ」


「ありがとう」


 母は、冷蔵庫からお弁当を取り出して、レンジで温め始めた。


 私は、母の隣に座った。


「お母さん、最近、忙しそうだね」


「うん。仕事がね」


 母は、笑顔を作った。


 でも、その笑顔は、疲れていた。


「ひまり、学校はどう?」


「うん。大丈夫」


 私も、笑顔を作った。


 でも、本当は、もっと話したかった。


 軽音部のこと。


 友達のこと。


 日々の悩みのこと。


 でも、母は疲れている。


 こんな時に、私の話なんて聞きたくないだろう。


 母は、お弁当を食べ始めた。


 私は、部屋に戻った。


 また、一人。


3

 翌日、学校で、美月に相談していた。


「お母さんと、全然話せないんだ」


「そっか」


 美月は、真剣な顔で聞いていた。


「お母さん、忙しいの?」


「うん。毎日、遅くまで働いてる」


「大変だね」


「うん...」


 私は、ため息をついた。


「お母さんを変えたい。もっと、家にいてほしい」


「でも、それは難しいんじゃない?」


 美月は、優しく言った。


「お母さんにも、事情があるんでしょ?」


「...うん」


 私は、わかっていた。


 母は、私のために働いている。


 でも、それでも、寂しい。


4

 その日の夜、部屋で、私はアジサイラビットに話しかけていた。


「お母さんを変えたい」


「変えたい?」


 アジサイラビットは、静かに答えた。


「どう変えたいの?」


「もっと、家にいてほしい。もっと、話したい」


「そう」


 アジサイラビットは、少し考えて言った。


「でもね、変わるのは、あなたかもしれないわよ」


「え?」


「あなたのお母さんを変えようとしてるけど、本当に変わるべきは、あなた自身かもしれない」


 私は、言葉を失った。


「私が...変わる?」


「そう。あなたは、お母さんに何を求めてるの?」


「...時間」


「時間?」


「一緒にいる時間。話す時間」


 私は、涙が出そうになった。


「お母さんは、いつも仕事で忙しい。私のこと、ちゃんと見てくれてない気がする」


「そう」


 アジサイラビットは、優しく言った。


「でもね、お母さんも、あなたと同じように悩んでるかもしれないわよ」


「え?」


「お母さんの気持ち、考えたことある?」


 私は、言葉に詰まった。


5

 翌日、日曜日。


 母は、珍しく家にいた。


「ひまり、お母さんの部屋、掃除してくれる? ちょっと買い物行ってくるから」


「うん」


 私は、母の部屋に向かった。


 母の部屋は、いつも散らかっている。


 仕事の書類や、本が積まれている。


 私は、掃除機をかけて、本を整理し始めた。


 その時、机の引き出しから、小さなノートが落ちた。


 拾い上げると、それは日記だった。


 母の日記。


 見てはいけない。


 そう思ったが、ページが開いていた。


 そこには、こう書かれていた。


6月1日


仕事が忙しくて、ひまりとちゃんと話せていない。

ひまりは、私のことを恨んでいるかもしれない。

でも、私は、ひまりのために働いている。

ひまりに、いい生活をさせたい。

ひまりに、好きなことをさせてあげたい。

だから、頑張らなきゃ。


でも、本当は、もっとひまりと話したい。

どう接していいかわからない。

ひまりは、もう大きくなって、私のことを必要としていないかもしれない。


寂しい。


 私は、日記を読んで、涙が溢れた。


 お母さん...


 お母さんも、同じ気持ちだったんだ。


 私と話したい。


 でも、どう接していいかわからない。


 私と、同じだ。


6

 その日の夜、私は手紙を書いた。


 母への手紙。


お母さんへ


いつも、仕事お疲れさまです。


私、お母さんに言いたいことがありました。

お母さんは、いつも仕事で忙しくて、私のことを見てくれてない気がしていました。

寂しかったです。


でも、今日、お母さんの日記を見てしまいました。

ごめんなさい。


お母さんも、同じ気持ちだったんですね。

私と話したいけど、どう接していいかわからない。


私も、同じでした。

お母さんと話したいけど、お母さんは疲れているから、邪魔したくなかった。


でも、これからは、ちゃんと話しましょう。

私の話も聞いてください。

お母さんの話も聞かせてください。


私、お母さんのこと、大好きです。


ひまり


 私は、手紙を母の机に置いた。


 そして、部屋に戻った。


7

 翌日の夜、母が部屋に来た。


 ノックの音。


「ひまり、入ってもいい?」


「うん」


 母が、部屋に入ってきた。


 手には、私の手紙を持っていた。


「ひまり、これ...」


 母の目は、涙で潤んでいた。


「ごめんね。私、全然気づいてなかった」


「お母さん...」


 母は、私の隣に座った。


「私ね、ひまりのために働いてるつもりだった。でも、ひまりが一番欲しかったのは、お金じゃなくて、時間だったんだね」


「お母さん...」


 私は、涙が溢れた。


「私も、お母さんの気持ち、わかってなかった」


 母は、私を抱きしめた。


「ごめんね。これからは、ちゃんと話そうね」


「うん」


 私も、母を抱きしめた。


 二人で、泣いた。


 初めて、本音で話せた気がした。


8

 その夜、母とリビングで、お茶を飲みながら話した。


「ひまり、学校はどう?」


「うん。軽音部、頑張ってるよ」


「そうなんだ」


 母は、嬉しそうに笑った。


「ギター、上手くなった?」


「まだまだだけど、楽しいよ」


「そっか。頑張ってね」


 母は、私の頭を撫でた。


「私もね、仕事、少し調整しようと思う」


「え?」


「今の仕事、ちょっと無理してた。もう少し、家にいる時間を増やそうと思う」


「お母さん...」


「ひまりと、もっと一緒にいたいから」


 母は、優しく笑った。


 私は、涙が出そうになった。


「ありがとう、お母さん」


「こちらこそ。ひまり、手紙をありがとう」


 母は、私を抱きしめた。


「これからは、ちゃんと話そうね」


「うん」


9

 その夜、部屋で、私はアジサイラビットに話しかけていた。


「アジサイラビット、ありがとう」


「どういたしまして」


 アジサイラビットは、優しく答えた。


「変わったわね」


「うん」


「お母さんを変えようとしたけど、結局、変わったのはあなた」


「そうだね」


 私は、アジサイラビットを抱きしめた。


「お母さんの気持ちを理解しようとしなかった。自分のことしか考えてなかった」


「でも、気づいたわ」


 アジサイラビットは、微笑んだ。


「変わるのは怖い。でも、変わらないのはもっと怖いのよ」


「そうだね」


「次は7月1日。ナツペンギンが待ってるわ」


「ナツペンギン?」


「そう。でもね」


 アジサイラビットの声が、少し挑発的になった。


「自由って、何?」


「自由...?」


「そう。考えておきなさい」


 アジサイラビットは、ゆっくりと動かなくなった。


 私は、窓の外を見た。


 雨が、降っている。


 紫陽花が、雨に濡れている。


 変化。


 怖いけど、必要なこと。


 私は、変われた。


 母との関係も、変われた。


 次は、自由。


 自由って、何だろう。


エピローグ

 6月30日。


 梅雨の終わりが近づいている。


 私は、母と一緒に夕飯を食べていた。


 母は、最近、早く帰ってくるようになった。


 週に3日は、一緒に夕飯を食べられる。


「ひまり、10月のオーディション、頑張ってね」


「うん!」


 私は笑顔で答えた。


「お母さん、応援してるから」


「ありがとう」


 私は、嬉しかった。


 母が、私のことを応援してくれる。


 母が、私の話を聞いてくれる。


 それだけで、十分だった。


 食後、母と一緒にテレビを見た。


 他愛もない会話。


 でも、それが嬉しい。


「ひまり、もう寝る時間よ」


「うん」


 私は、部屋に戻った。


 バッグからアジサイラビットを取り出した。


 もう、動かない。


 でも、優しく微笑んでいるように見えた。


 ありがとう。


 あなたのおかげで、母との関係が変われた。


 次は、7月。


 ナツペンギン。


 自由。


 自由って、何だろう。


 私は、そう考えながら、眠りについた。


 窓の外では、雨が降っている。


 でも、もうすぐ、夏が来る。


 私は、母の手を握った。


 これからも、一緒に歩いていこう。


 そう思いながら、私は眠った。


第6話 了


次回:第7話「7月:ナツペンギンと自由」

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