第5話「5月:ミドリカエルと気づき」

プロローグ

 5月1日。


 ゴールデンウィークが終わり、梅雨入り前の束の間の晴れ間。


 でも、昨夜の雨で、公園はまだ濡れていた。


 私は、一人で公園のベンチに座っていた。


 軽音部の練習を、休んでしまった。


 補欠部員として毎日練習に参加していたのに、今日は行けなかった。


 行きたくなかった。


 ため息をつくと、足元に、それはいた。


 鮮やかな緑色のカエルのぬいぐるみ。


 大きな丸い目。雨粒模様。小さな傘のチャーム。


 ぷっくりした体型で、どこか愛嬌がある。


「また...」


 私は、もう驚かなかった。


 カエルを拾い上げると、案の定、声が聞こえた。


「見えてないもの、ある?」


 マイペースな声。


 私は、カエルを見た。


「あなたは...」


「私はミドリカエル。5月のぬい」


 カエルは、ゆっくりと答えた。


「見えてないもの...自分自身だったりして?」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


「自分...自身?」


「そう。あなた、自分のことが見えてないんじゃない?」


 ミドリカエルは、私を見上げた。


「本当は、何がしたいの?」


「...わからない」


 私は、正直に答えた。


「最近、わからなくなってきたんだ」


「そう。じゃあ、一緒に探しましょう」


 ミドリカエルは、優しく言った。


「あなたの『見えてないもの』を」


1

 軽音部に入って、1ヶ月。


 補欠部員として、毎日練習に参加している。


 でも、最近、辛くなってきた。


 正式部員の先輩たちは、とても上手だ。


 私は、ついていくのに必死。


 練習が終わると、いつもヘトヘトだった。


「桜井、もっとリズムを意識して」


「はい...」


「そこ、音が外れてる」


「すみません...」


 先輩たちは優しいけど、指摘は厳しい。


 私は、どんどん自信をなくしていった。


 そして、5月1日。


 私は、練習に行けなかった。


 朝起きて、制服に着替えて、学校に行った。


 でも、放課後、軽音部の部室に向かう足が、重かった。


 結局、私は部室に行かず、公園に来てしまった。


2

 翌日、美月が心配そうに声をかけてきた。


「ひまり、昨日、軽音部休んだって?」


「...うん」


 私は、視線を逸らした。


「どうしたの? 具合悪かった?」


「ううん。ただ...」


 私は、言葉に詰まった。


「最近、無理してない?」


 美月は、私の目を見た。


「ひまり、最近、すごく疲れてるように見えるよ」


「そんなことない...」


「嘘。私、ひまりのこと見てるから、わかるよ」


 美月は、私の手を握った。


「無理しないで。辛かったら、言ってね」


「...ありがとう」


 私は、涙が出そうになった。


 でも、言えなかった。


 本当は、もう辛いって。


 ついていけないって。


 でも、それを言ったら、負けな気がして。


3

 その日の放課後、私は軽音部に顔を出した。


 藤井先輩が、心配そうに声をかけてきた。


「桜井、昨日どうした?」


「すみません。ちょっと...」


「体調悪かった?」


「...はい」


 嘘をついた。


 藤井先輩は、少し考えて言った。


「無理しないでね。補欠部員だからって、毎日来なきゃいけないわけじゃないから」


「...はい」


 私は、練習に参加した。


 でも、心はここにない。


 ギターを弾いていても、楽しくない。


 ただ、義務的に弾いているだけ。


 練習が終わると、私は急いで部室を出た。


4

 その夜、部屋で、私はミドリカエルに話しかけていた。


「もう、わからないよ」


「何が?」


「音楽が好きなのか、ただ認められたいだけなのか」


 私は、涙を流した。


「楓先輩の夢を引き継ぐって決めたのに、私、全然ダメで」


「そう」


 ミドリカエルは、あっさりと答えた。


「それで、どうしたいの?」


「...辞めたい」


 私は、小さく言った。


「もう、辞めたい。ついていけない」


「本当に?」


「うん...」


 ミドリカエルは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「じゃあ、聞くけど。あなたは本当に音楽が好き?」


「...わからない」


「それとも、認められたいだけ?」


「...わからないよ!」


 私は、泣き叫んだ。


「もう、何もわからない!」


 ミドリカエルは、静かに言った。


「じゃあ、立ち止まりなさい」


「え?」


「焦って走り続けても、答えは見えない。一度立ち止まって、自分を見つめなさい」


 ミドリカエルは、私を見上げた。


「私はあなたに『発見の力』を与えるわ。見えなかったものが見える力」


「見えなかったもの...」


「そう。あなたの本当の気持ち。隠れたもの。それを見つけなさい」


5

 翌日から、私は軽音部を休むことにした。


 藤井先輩にメッセージを送った。


『少し、休ませてください。また戻ります』


 先輩からの返信。


『わかった。無理しないでね。いつでも待ってるから』


 私は、スマホを置いた。


 美月にも、事情を話した。


「ちょっと、軽音部休むことにした」


「そっか」


 美月は、驚かなかった。


「ひまり、それでいいと思うよ」


「え?」


「無理してまで続けるより、一度立ち止まって考えた方がいい」


 美月は笑顔で言った。


「ひまりが本当にやりたいこと、見つけられるといいね」


「...ありがとう」


6

 5月の半ば。


 梅雨入りした。


 毎日、雨が降っている。


 私は、学校と家を往復する日々。


 軽音部には、行っていない。


 ギターも、触っていない。


 ただ、ぼんやりと過ごしていた。


 ある日の放課後、雨が止んだ。


 私は、久しぶりに公園に行った。


 ベンチに座って、空を見上げた。


 雨上がりの空は、どこか清々しい。


 ふと、バッグからギターを取り出した。


 そういえば、最近、ギターを弾いていなかった。


 私は、ギターを構えた。


 何を弾こう。


 特に曲は決めず、適当に弦を弾いた。


 音が、公園に響く。


 下手な音。


 でも、久しぶりに弾くギターは、なんだか心地よかった。


7

「いい音だね」


 突然、声が聞こえた。


 私は、驚いて振り返った。


 そこには、見知らぬ老人が立っていた。


「あ...すみません、うるさかったですか?」


「いやいや」


 老人は、優しく笑った。


「とてもいい音だった。楽しそうだったから」


「楽しそう...?」


「うん。あなた、ギター弾いてる時、笑顔だったよ」


 老人は、ベンチに座った。


「音楽はね、上手い下手じゃない。楽しいかどうかなんだ」


「...」


「あなた、ギターが好きなんだね」


「...わかりません」


 私は、正直に答えた。


「最近、わからなくなってきて」


「そっか」


 老人は、空を見上げた。


「でもね、さっきのあなたの顔を見たら、わかるよ。あなたは、音楽が好きだ」


「本当に...?」


「うん。だって、楽しそうだったもの」


 老人は、立ち上がった。


「頑張ってね」


 そう言って、老人は去っていった。


 私は、一人残された。


 ギターを見つめた。


 私、笑顔だった?


 そういえば、さっき弾いてる時、何も考えてなかった。


 ただ、音を奏でることが楽しかった。


 認められたいとか、上手くなりたいとか、そんなこと考えてなかった。


 ただ、音楽が楽しかった。


「そうか...」


 私は、涙が溢れた。


「私、音楽が好きなんだ」


8

 その日の夜、部屋で、私はミドリカエルに話しかけていた。


「気づいたよ」


「何に?」


「私、音楽が好き。認められたいんじゃなくて、ただ音楽が好きなんだ」


 ミドリカエルは、微笑んだ。


「そう。よかったわ」


「ありがとう、ミドリカエル」


「どういたしまして」


 ミドリカエルは、優しく言った。


「でもね、気づいただけじゃダメよ。行動しなさい」


「うん」


 私は、スマホを取り出した。


 藤井先輩にメッセージを送った。


『先輩、明日から練習に戻ります』


 すぐに返信が来た。


『おかえり。待ってたよ』


 私は、笑顔になった。


9

 翌日、放課後。


 私は、久しぶりに軽音部の部室に向かった。


 ドアを開けると、藤井先輩が笑顔で迎えてくれた。


「桜井、おかえり」


「ただいまです」


 私は、頭を下げた。


「休んで、すみませんでした」


「いいよ。大丈夫だった?」


「はい。ちょっと、立ち止まって考える時間が必要でした」


 私は、先輩を見た。


「私、気づいたんです。私、音楽が好きなんだって」


「そっか」


 藤井先輩は、嬉しそうに笑った。


「それが一番大事だよ」


 私は、深呼吸をして、言った。


「私、下手だけど、続けます。音楽が好きだから」


 藤井先輩は、私の肩を叩いた。


「それでいいんだよ。下手でもいい。続けることが大事なんだ」


 私は、涙が出そうになった。


「ありがとうございます」


「じゃあ、練習しよう」


 私は、ギターを手に取った。


 久しぶりのギター。


 でも、今は楽しい。


 上手い下手じゃない。


 ただ、音楽が好き。


 それだけで、十分だった。


10

 その夜、部屋で、私はミドリカエルに話しかけていた。


「ミドリカエル、ありがとう」


「どういたしまして」


 ミドリカエルは、優しく答えた。


「あなた、見つけたわね」


「うん」


「自分の本当の気持ち」


「うん」


 私は、ミドリカエルを抱きしめた。


「あなたのおかげだよ」


「いいえ。あなた自身が見つけたのよ」


 ミドリカエルは、微笑んだ。


「次は6月1日。アジサイラビットが待ってるわ」


「アジサイラビット?」


「そう。でもね」


 ミドリカエルの声が、少し厳しくなった。


「変わるのは、怖いわよ」


「変わる...?」


「そう。あなたは、自分の気持ちに気づいた。次は、それを受け入れて、変わること」


 私は、少し考えた。


「怖いけど...やる」


「そう。じゃあ、覚悟しなさい」


 ミドリカエルは、ゆっくりと動かなくなった。


 私は、窓の外を見た。


 雨が、降っている。


 梅雨の雨。


 でも、この雨が過ぎれば、夏が来る。


 私も、変われるかな。


 そう思いながら、私は眠りについた。


エピローグ

 5月31日。


 梅雨の晴れ間。


 私は、軽音部の練習に参加していた。


 以前とは違う。


 今は、楽しい。


 上手くなりたいとか、認められたいとか、そういう気持ちもある。


 でも、それ以上に、音楽が好き。


 ただ、それだけ。


 練習が終わると、藤井先輩が声をかけてきた。


「桜井、最近、いい顔してるね」


「本当ですか?」


「うん。楽しそうだもん」


 藤井先輩は笑顔で言った。


「10月のオーディション、きっと大丈夫だよ」


「ありがとうございます!」


 私は、嬉しくて涙が出そうになった。


 帰り道、美月が待っていてくれた。


「ひまり、最近、いい顔してるね」


「え、先輩にも言われた」


「だって、本当にそうだもん」


 美月は笑顔で言った。


「ひまり、変わったね」


「そうかな?」


「うん。前は、なんか無理してる感じだったけど、今は自然」


 美月は、私の肩を叩いた。


「これからも、頑張ってね」


「うん!」


 私は、空を見上げた。


 雨上がりの空。


 どこか清々しい。


 私も、少し変われたかな。


 ミドリカエルをバッグから取り出した。


 もう、動かない。


 でも、優しく微笑んでいるように見えた。


 ありがとう。


 あなたのおかげで、本当の自分に気づけた。


 次は、6月。


 アジサイラビット。


 変わること。


 怖いけど、やる。


 私は、そう決めた。


 そして、歩き出した。


 雨上がりの道を。


第5話 了


次回:第6話「6月:アジサイラビットと変化」

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