第48話 お見舞い
病院特有の、冷たく乾いた消毒液の匂いが鼻をつく。
私たちはナースステーションで許可をもらい、病棟の奥へと進んだ。
案内された個室のドアの前で、梓さんが足を止める。
彼女が深呼吸をして、それから静かにノックをした。
「……久我さん。矢野です」
「ああ、どうぞ」
中から聞こえた声は、ひどく疲れているように聞こえた。
ドアが開く。
夕方の斜陽が差し込む部屋の中。
ベッドの脇のパイプ椅子に、久我さんは座っていた。
最後に学校で見た時よりも少し痩せた気がする。無精髭が伸びて、目の下には隈が浮かんでいた。
けれど、その手はしっかりと、ベッドに横たわる女性の手を握りしめていた。
「久我さん……」
「やぁ、真弓ちゃん。それに探偵さんも」
久我さんは力なく微笑むと、視線をベッドに戻した。
「はるか。教え子たちが来てくれたよ」
その声に応えるように。
ベッドの上の柳田先生が、ゆっくりと首を動かした。
「…………あ……」
包帯の巻かれた頭部。管に繋がれた腕。
焦点の合わない瞳が、ぼんやりと虚空を彷徨い、そして私たちの姿を映した。
「……ま、ゆみ……ちゃん……?」
掠れた、今にも消えそうな声。
でも、確かに先生の声だった。
「先生っ!」
私はたまらずベッドに駆け寄った。
あの異形の姿はもうない。傷だらけだけれど、温かい人間の肌だ。
生きてる。本当に、生きてるんだ。
「よかった……本当によかった……っ」
「……ごめんね……心配、かけた……」
先生の指先が、僅かに動いて私の手に触れた。
その弱々しい感触に、涙が溢れて止まらなかった。
「奇跡だよ」
久我さんが、愛おしそうに先生の前髪を撫でた。
「医者も驚いていた。あの状態から意識を取り戻すなんてあり得ないって。……彼女の精神力には、頭が下がるよ」
「……いつき、さん……」
先生が、縋るような視線を久我さんに向ける。
久我さんは「ここにいるよ」と優しく囁き、彼女の手を両手で包み込んだ。
その左手の薬指には、シンプルな銀の指輪が光っていた。
「……実はね、来月、入籍する予定だったんだ」
久我さんが、独り言のように呟いた。
「えっ……」
「式場も予約して、ドレスも選んで。……幸せの絶頂だったはずなのに」
久我さんの手が震えている。
握りしめられた先生の手が、きしりと音を立てたような気がした。
「誰が、こんなことをしたのか。何が起きているのか、僕には分からない。……でも」
久我さんが顔を上げた。
その瞳には、昏い炎のような怒りと、深い悲しみが宿っていた。
「許さない。はるかをこんな目にあわせた奴を、僕は絶対に許さない」
その迫力に、私は言葉を失った。
普段の穏やかな先輩じゃない。
大切な人を奪われた男の、執念のようなものを感じた。
「……少し、外の空気を吸おうか。はるかも疲れてしまったみたいだし」
久我さんの言葉通り、先生はまた眠るように目を閉じていた。
まるで、久我さんの合図を待っていたかのように、糸が切れたように静かになった。
◇
病院の中庭には、湿った夏の風が吹いていた。
日は傾き、そろそろ街に夕闇が迫る時間だ。
自販機の明かりに、小さな羽虫が群がっている。
私たちはベンチに座り、久我さんが買ってくれた缶コーヒーを握っていた。
「それで……矢野さん。君が話したいことってなんだい?
皆が集まってからって話だったけど」
久我さんの問いに、梓さんはすぐには答えなかった。
ただ、手の中の温かい缶コーヒーをじっと見つめている。
その横顔は、何か重い決断を迫られているように見えた。
「……本来なら、口にするべきことではないんだけど」
絞り出すような声だった。 梓さんの纏う空気が、ぴんと張り詰める。 周囲の羽虫の羽音すら、遠ざかったような錯覚を覚えた。
「口にするだけで、穢れを招く。名前を知られるだけで、力を持つ。……あれはそういう存在だから」
「名前……?」
私が恐る恐る尋ねると、梓さんはゆっくりと頷いた。
「……虚木村で祀られているのは、名前のない神様ということになってる。でも、本当は違うの」
梓さんが、ぎゅっと缶を握りしめた。 爪が白くなるほど強く。
「『真名』があるんです」
「真名……」
「その名を呼んではいけない。文字にしてもいけない。認識されること自体が、あの神にとっては『信仰』となり、力を与えることになるから」
梓さんはそこで言葉を切り、深く息を吸い込んだ。 まるで、猛毒を飲み込むような覚悟で。
「でも、もう隠している場合じゃない。……清音は、そのタブーすら利用している」
彼女の視線が、私のスマホに向けられた。
「言います。……心して聞いてください」
ゴクリ、と久我さんが喉を鳴らす音が聞こえた。 探偵さんも、パッキーを持つ手を止めている。 重苦しい沈黙の中、梓さんの唇が動いた。
「――にくゑ」
その音が落ちた瞬間。
ざあっと、風が吹いた気がした。
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