第3章 ② イケメンの本気は怖い
俺がパニックで思考停止しているのを横目に、陽向は、待ってましたとばかりに行動していた。少しも慌てず、むしろこの状況を楽しんでいるかのように、スマートフォンを取り出す。
「……困りましたね、先輩」
ひどく穏やかな声だった。
「これは総務の確認ミスかな。まあ、今言っても仕方ないですし、とにかく今から泊まれる宿を探してみます。この辺りだと……風情のある旅館とか、ですかね」
(やめろ。“風情”とかいうワードで誤魔化すな)
数回、画面をタップしたあと、陽向は安堵したような、そしてどこか嬉しそうな、絶妙な表情で顔を上げた。
「先輩、ありました。一部屋だけ」
そこで、わざとらしく言葉を切る。
俺がゴクリと唾を飲むのを待ってから、陽向は続ける。
「……和室で、お布団を敷くタイプの部屋みたいです。ここを逃したら、本当にこの辺りの山で野宿になっちゃうかもしれません。……どうしますか?」
それはつまり、
(今夜、俺と同じ部屋で、同じ空気吸いながら、十数センチ横で眠ることになりますが、受け入れますか?それとも、熊に怯えながら野宿しますか?)
──という、最終通告だろ……。
選択肢の提示っぽい顔をしてるけど、実質どっちも地獄だ。
「……それで、いい……」
か細く、絞り出すような声で、そう答えるしかなかった。
それを聞いた陽向が、隠しきれない喜びを滲ませながら旅館に電話をかけるのを、俺はただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
***
旅館のフロントで手続きをしている陽向を、ぼんやりと眺めながら、俺はよからぬ想像を膨らませていた。
(……陽向は、総務にホテルを依頼するとき、わざとこの改装中のホテルを指定したのか?)
「先輩が、ここがいいって言ってました」なんて、テキトーな嘘を添えて。
全ては、この逃げ場のない状況を作り出すために。
真実は分からない。分からない、はずなのに。
急速に膨れ上がった猜疑心が、目の前のキラキラした後輩を、自分を捕食するためだけに、全てを裏で操っていた恐ろしい悪魔のように見せ始める。
陽向が鍵を受け取り、くるりと振り返って、俺の方に微笑む。
「行きましょう、先輩」
俺は、とぼとぼと、その後ろについていくことしかできない。
掲げていた「シングル二部屋」という名の勝利は、蜃気楼みたいに、跡形もなく消え去っていた。
ギシ、ギシ、と、よく磨き込まれた古い木の廊下が、二人の重みを受けて、静かに軋む音を立てる。旅館の中は、嘘のように静まり返っていた。
陽向は、数歩先を、軽やかな足取りで歩いている。その広い背中が、やけに大きく見えた。
。
(これは仕事だ。仕事の出張だ。俺は疲れている。部屋に着いたら、風呂に入って、すぐに寝る。そうだ、すぐに寝てしまえばいい。何も起きない。何も……)
必死に頭の中で自己暗示を繰り返す。
陽向が、ゆっくりと障子戸を横に引く。
目の前に、今夜過ごすことになる部屋――畳の匂いが立ち込める、静かな和室が、その口を大きく開けていた。
懐かしい畳の匂い。今はその匂いさえ不安になる。
「疲れましたね。お風呂、行きますか?」
陽向が、いつも通りの優しい声で俺に尋ねてきた。
(……まずは、よかった。客室風呂じゃなかった。客室風呂だったら、絶対抱かれてた!)
(大浴場ならセーフ! 他人がいれば、こいつも変なことできねーだろ! 公然わいせつでしょっぴいてやる!)
(……いや、でも俺、可憐な女の子じゃないからセクハラとか成立すんのかな。
「男同士はいいじゃん」みたいなノリで流されるパターンあるのかな。今までそんなこと気にしたことなかったけど)
ジェンダーバイアスなんて言葉をおぼろげな記憶から思い出す
(ていうか、女の子って、こんなにいろいろ心配してんの!? 恋愛してる人たち、凄くない!?ちゃんと距離取れよ、世間の男!エッチしたい気持ちを先走らせるな!)
(いや俺は経験ないけど……)
(でも、そう考えたら、そういうの受け入れて恋愛に進んでる男も凄いな。常に女にジャッジされてるってことじゃん。俺なんて、面接や商談で他人から判断されるのも嫌なのに)
(もしかして陽向が営業上手いのも、これか?昔、脳筋上司が言ってた「恋愛してない営業は売れない」って、こういう意味だったのか?)
(なんか、自分の経験値がないことが、急に惨めに思えてきたな……)
(……いや、違うだろ!20代前半までの恋愛なんて、だいたいちんちんの欲望のままに動いてるだけだろ!クソ上司も後付けでクソみたいなバイアスで語ってんじゃねーよ!)
頭の中ではそんなことをごちゃごちゃ考えているのに、実際に出た言葉は、驚くほど弱々しかった。
「いや……あ、行きます」
脱衣所で、俺は必死に陽向から目を逸らしながら、自分の体を隠すように、できるだけ素早く服を脱いだ。
陽向は、反対に、ゆったりとした動きで服を脱いでいく。
しなやかで、無駄のない筋肉がついた身体が、遠慮なく視界に入ってくる。
(……はい出ました。劣等感タイム)
現実から逃れるためにさっさと浴室に向かう。
幸いなことに、中には他に二、三人の客がいた。
(よっしゃ!)
心の中で再びガッツポーズを決めて、俺は彼らの近くに陣取るようにして、湯船に体を沈めた。
だが、陽向は――何のためらいもなく、俺のすぐ隣に、同じように湯船へと体を沈めてくる。
気のせいか肩口に、やけに熱い気配を感じる。
陽向が、湯に息を吐きながら、感心したように、静かに呟く。
「……先輩、肌、めっちゃ白い…」
それは、猥褻な言葉でも、露骨なセクハラでもない。ただの、客観的な事実の指摘。
──けれど、それは「陽向が俺の体をそういう目で見ている」という、紛れもない証拠のように思えた。
カッと顔に血が上るのを感じて、俺は湯船のさらに奥へと身を沈める。
(やめろ。大浴場で「肌白い」は……セクハラだよ)
他の客が、満足そうに湯船から上がっていく。
まずい、と思ったときには、湯船の中にはもう、二人きりになっていた。
陽向が、ゆっくりと俺の方へ体を向ける。湯けむりの向こうで、その瞳が熱を帯びて、じっと俺を見つめていた。
陽向は、そっと、水面下で俺の方へと手を伸ばし――
──などということはない。
代わりに、ただ、うっとりした顔で、言い放つ。
「……綺麗です、先輩」
「可愛い」ではない。「綺麗」。
それは、人生で一度も向けられたことのない、言葉だった。俺の脳は、その言葉の意味を理解することを拒否した。その結果、完全に思考は停止する。
湯船の熱さか、羞恥心か、恐怖か、それとも別の何かなのか。
意識はぐにゃりと歪み、遠のいていく。
「……っ、のぼせた……」
それだけを絞り出し、よろめくように湯船から上がった。
背中に突き刺さる陽向の視線を感じながら、脱衣所へと逃げ帰る。
脱衣所で急いで浴衣を羽織り、一目散に部屋へ戻る。
部屋には、すでに部屋食が用意されていた。
「すみません、この時間なので簡単なものしかありませんが……」
仲居さんの言葉に、俺は、
「い、いえ……わざわざありがとうございます……」
と、ヘラヘラ頭を下げる。
「お布団、敷いておきましたので。それではごゆっくり」
仲居さんが部屋を出て行く。
残された布団は――ぴったりと、くっついて敷かれていた。
(いやいやいやいや)
ちゃんと間を空けるように敷き直そうと、そっと布団に手をかける。
そのタイミングで、障子がスッと開き、陽向が部屋に戻ってきた。
(ヤバ……今動かすと、逆に意識してると思われるやつじゃん……)
とりあえず、ここは何もしてなかった顔しておくのが無難だろう――と、俺は判断した。
陽向は、身体から、風呂上がりの熱気と、旅館の石鹸の清潔な香りをまとって部屋に戻ってきた。部屋の真ん中には二人分の食事。その奥には、ぴったりと寄り添って敷かれた二組の布団。それらをゆっくりと見渡してから、ふっと笑う。
「わ、仲居さん、気が利きますね。ちゃんとお布団、くっつけておいてくれたんだ」
(くそ……)
心の中で、思いきり頭を抱える。
これで、「偶然くっついちゃった事故」ではなく、「第三者(仲居)によって善意で用意された、“正式な配置”」だと確定させられてしまった。
(文句言いづらいパターン、きっちり完成させられた……)
「先輩、早くご飯食べちゃいましょう。せっかくお布団が、俺たちのこと待ってくれてるのに」
主語が「俺」じゃない。「お布団」だ。
まるで全ての状況が自分たちに、ある一つの結論を要求しているのだ、と言うような物言い。
(……何その、“運命だから仕方ないですよね”みたいなロジック)
だが何も言えなかった。
俺が選んだ「無視」という名の悪手は、陽向に完璧な口実を与え、状況を完全に支配させてしまったのだ。
食事の間、正直、何の味もしなかった。
ただ、目の前で美味しそうに食事を頬張る陽向と、その背後で圧倒的な存在感を放ちながら、自分たちの夜を待ち構えている二組の布団を、交互に盗み見ることしかできなかった。
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