第3章 ① 自業自得だけど、インバウンドだけは許せない

 俺は、しっかり夜更かしした。新幹線の中で熟睡するために。

 事前の資料確認? そんなのは陽向にやらせておけばいい。あいつ、頭もいいんだろ。

 ……あれ?じゃあ俺って、何のためにいるんだ? 俺の意義って……。


 そんなことを、寝不足でトロトロになった頭の片隅でぼんやり考えた気もするが、結局のところ――

 俺は寝た。しっかりと。


 ***


「先輩、つきましたよ」

 耳元で、陽向の声がした。

 

 ガタン、と身体が揺れて目が覚める。急いで周囲を見回してから、慌てて荷物をまとめて立ち上がる。


「やべ、もう着いた……」


「ふふ。ぐっすりでしたね」

 隣の席から立ち上がった陽向が、俺の顔をのぞき込む。

「ヨダレ、すごいですよ」


「は?」


 そう言うなり、ためらいもなく俺の口元に手を伸ばしてきた。大きな手が、当たり前みたいな顔をして、俺の顎を支える。


「ちょっ――」


 制止の声より早く、陽向の掌が俺の口元をぬぐった。


「んっ……」


 情けない声が勝手に漏れる。くすぐったさと、恥ずかしさと、寝起きのぼんやりした感覚が一気に押し寄せてくる。


「はい、きれいになりました」


 陽向は満足そうに言うと――俺のヨダレつきの指を、何の躊躇もなく、自分の口元へ運んだ。


 ぺろり。


 ごく自然な動作で、自分の舌で、俺のヨダレを舐めとる。


 その光景を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。

(……なんで、お前が――俺のヨダレ、舐めてんだよ)


 ゾッとした。


 怖い、って言葉が、やっと頭に浮かぶ。


「どうしました?」

 

 獲物を見る様な陽向の視線から逃げるみたいに、俺は俯いた。


「いや……別に。行くぞ」

 荷物をつかんで、ほとんど逃げるように通路へ出る。


 改札へ向かう俺の後ろを、陽向はいつものように、――いや、いつも以上に、どこか楽しそうな足取りでついてきた。



 駅を出て、俺は俯いたまま歩き出した。その少し後ろを、陽向がどこか嬉しそうな足取りでついてくる。


(……なんでそんなに楽しそうなんだよ)

 俺の中で、この関係が歪な形になってきている気がしていた。


 一色工業の工場へ向かうため、タクシーに乗り込む。後部座席に、並んで。

 

 沈黙に耐えられず、俺は真剣な顔をして窓の外を眺めるふりをする。正直、神戸の街並みなんかほとんど頭に入ってこない。


 隣から、陽向の声がした。心配そうな、しかしどこか楽しんでいるようなトーンで。

「先輩、まだ顔色が悪いですよ。本当に疲れてるんですね。昨日はあまり眠れなかったんですか?」


「え、あ、まあ……」

 適当にはぐらかそうとすると、陽向は間髪入れずに言葉を重ねてくる。


「今夜は、俺がちゃんと眠れるように見ててあげますから」

 さらっと、宣言したあと、声を落として続けた。

「……子供みたいに、手を握っててあげましょうか?」


 優しさというオブラートに包まれた、あまりにも甘く、そして恐ろしい脅迫。俺には、そう聞こえた。


(やめろ。そんな優しい声で、そういうこと言うな)

 タクシーの車内という、逃げ場のない密室で、俺はただ縮こまるしかなかった。


 ***


 工場に着くと、工場長が笑顔で迎え入れてくれた。


「いつも助かってるよ相沢さん。いろいろ頑張ってもらってるしね。意外とトラブル対応にも強いし、信用できるからね」

 そう言って、工場長は陽向のほうを見て、俺を褒める。


(“意外と”って何だよ。“意外と”って)

「いえ、橘はその手の問題は私より優れていますので、今後はよりスピードと確実性を持ってご対応できると思います。」

 条件反射みたいに、客観的なコメントが口から出る。営業6年の社畜芸だ。


「そうかそうか」

 工場長は満足そうに頷いた。


 商談は、大過なく進んだ。というか、拍子抜けするくらいあっさりだった。要点をまとめた陽向の説明に、工場長もすぐ納得し、その場でプレ導入まで決まってしまった。


(なんだよ、まったく。俺だったらもっと説得に時間かかってたぞ……)

 心の中でつぶやきながら、同時に認めざるをえない。


(……陽向の能力は、普通に高い)

 それ自体は、営業部の先輩として嬉しいはずのことだ。はずなのに。


(じゃあ、俺の努力は一体なんだったんだよ)

 やり場のない虚しさが、じわじわと胸のあたりに溜まっていく。


 自分が地道に積み上げてきた信用があるフィールドでさえ、陽向にすっと入り込まれ、あっさり結果を出される。

 そのたびに、自分の存在意義が、少しずつ削られていくような感覚があった。


 工場の玄関先まで見送りに出てきた工場長が、ふと思い出したように言う。

「ところで、お泊まりは?」


「すぐそこの山辺ホテルです」


「えー、あそこ?」

 工場長は少し驚いた顔をした。

「今、改修工事してるよ?インバウンドでこっちまで宿泊客が流れ込んでくるから、キャパを広げるんだとさ。まー宿泊業はかき入れ時だからね、儲けられるときに儲けないと」


 景気のいい話をしながら、工場長は陽向と俺それぞれと握手を交わし、「また頼むよ」と笑って戻っていった。


「……は?」


 工場長の背中を見送りながら、間抜けな声が出た。

(ホテル改装中……? いやちょっと待て、それ聞いてねーんだけど)


「じゃあ宿どうすんだよ……」

 思わず口に出してしまう。


 時計は20時前を示している。今から駅に戻ったとしても、最終の新幹線には、間に合わないだろう。


 横に立つ陽向が、ふと視界に入る。


 ――気のせいかもしれない。けれど、陽向がほんの一瞬、口元をニヤリとさせたように見えた。

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