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「今日もキノコを食べていませんね」
「だまれ幻、キノコは食べ物じゃないんだよ。お前に話しかけられている方が俺にとっては毒だわ」
俺は味の薄い味噌汁を飲み込んで律を
けんもほろろの態度に律は少し怯んだ様子だったが、きゅっと表情を引き締めると、
「いいえ、黙りません。昔から言いたかったのですが、出されたものは残さず食べませんと、早く治りませんよ。それに」
律は付け加えるように言った。
「幻ではありません」
「お前は事故で脳がバグって見せてる幻覚。俺は幽霊も守護霊も信じてないの。つまり」
俺は付け加えるように言った。
「お前の言うことを聞く必要はない」
律はちょうど呼吸五回分、無、という言葉を顔に貼り付けたまま俺を眺めていたが、
「いいでしょう。それでは今から私があなたの守護霊である事を証明します」
判決を読み上げる裁判官のように宣言した。
「
「俺の脳から生まれてるんだから、記憶を共有していて当然だろ」
俺は律の言葉を遮る。
「それから凪ちゃんて呼ぶな」
凪ちゃん、というのは昔、母さんが言ってた呼び方だ。今更、しかも幻に言われるなんて、全く忌々しい。
律はかすかに眉を八の字にし、どうすれば信じてくれるのでしょう、と窓を眺めた。 いつの間にか律は髪を結わえていた。その出で立ちは衣装と相まって古代の神官か巫女のようにも見える。
五月晴れのお昼時だった。ブラインドをあげた窓からは、アメリカフウの鮮やかな緑をたたえた葉が風でゆっくりと揺れているのが見えた。
きっと窓を開けたら心地よいだろう。
初めて律と話してから数日が経過していた。
その間に訪れた刑事や医師、家族の話によると、俺は学校の下校途中、歩道に突っ込んできたトラックにはねられたらしい。
トラックの運転手は居眠りしていたらしく、俺をはねた後、民家の塀に突っ込んだ。
運転手も怪我をしたが命に別状はなく、他に巻き込まれた人もいなかったそうだ。
俺は民家の人の通報で救急搬送され、ここ中野にある総合病院に運ばれた。
全身打撲、左腕と右足を骨折、頭部の強打で死線をさまよい、散々だったが意識を取り戻してからは順調に回復し、一昨日から食事も解禁となって今に至る。
律はその間、ひっきりなしに話しかけてきては、余計な世話を焼いてくる。言い返せば決まって最後は、
「私は凪ちゃんの守護霊ですから」
と、あるのかないのかよくわからない権利を主張する。
しかし残念だが、まともに会話するつもりは毛頭無かった。
こいつは俺にしか見えない、俺が作り出した幻影だ。俺の頭は事故でおかしくなってしまったようだった。今のうちに脳の検査をしてもらったほうがいいかもしれない。
そう思っていたとき、ドアがノックされて、医師が入ってきた。
あの、後ろで髪をひっつめた女医だ。
痩せぎすで背が高く、細いフレームの眼鏡をかけている。胸につけたネームプレートには『
「
俺の対面に立って、タブレットでカルテを開くと問診を始める。
俺は答えながら、ちらりと律を見た。
彼女は何か考え込んでいるらしく、難しい表情を浮かべて窓を見つめている。
俺の体調が概ね良好である事がわかると、椋は明後日に相部屋に移ること、足の状態が良くなったらリハビリを始めることを事務的という表現がぴったりな口調で俺に伝え、眼鏡のつるに手を当てた。
「あの、脳の検査とかって大丈夫だったんでしょうか?」
おそるおそる話を振ると、椋はタブレットから顔をあげて俺を見つめた。
「なにか?」
抑揚の無い声はやる気がなさそうにも感じるが、眼鏡の奥の細く鋭い眼は少しの違和も見逃すまいと決めているようだ。
「あ、いや、頭を打ってたと聞いたんで心配になって」
「頭痛、めまい、吐き気などありますか」
「いえ、そういうのはないんですが」
椋は真意をはかりかねているのか、薄い眉を寄せて俺をじっと見つめた。
俺がそれ以上何も言わないでいると、ふっと息を吐いた。
「事故直後は脳の腫れが見られましたが、その後のMRI検査で腫れは引いており、損傷も無かったことが確認されています。脳波測定でも異常は見られませんでした」
脳自体に何か問題があるわけでないということか。だとしたら、考えられるのは精神 ……心の病。俺の心はついに壊れてしまったのか。
昼食の空になった器をぼんやりと見つめて考え込む。その間もよどみない椋の声が耳に入ってくる。
「ですが、脳は繊細です。気になるようでしたらもう一度検査しますが……」
がらり。
そよそよとした風と、新緑の香りが深い思考の中に沈んでいた俺を浮かび上がらせ、椋の言葉を遮断した。
顔をあげると椋が窓を見つめている。横顔が見えて、こけた頬があらわになっていた。結びきれなかった短いほつれ毛がそよそよと風で揺れている。
中野セントラルパークから子供達の楽しげな嬌声が聞こえた。
風? 匂い? 声?
俺はようやく気づいて、窓に顔を向けた。
病室の窓は縦に開くタイプで、事故防止の為、全開まで開くことはない。その窓が少しあいている。さっきまでは閉まっていたはずだ。
俺は窓の隣で自慢げに立っている律を見つめた。
お前が開けたのか。
その言葉を口にする前に、
「そう、あなた、現実に干渉できるのね」
椋が驚くべき言葉を放った。
律が、あら、といった表情を浮かべる。
「見える方でしたか」
椋は少し首をかしげた。
「あの……」
俺が声をかけると、椋ははっとしたように振り返った。
「失礼しました。なんでも……」
「何か見えるのですか?」
椋の言葉を遮り、俺は尋ねる。自然と身体は前のめりになっていた。
椋は切れ長の眼を丸くさせると、
「だから、MRIの検査をしたかったのね」
納得したように頷く。頭の回転の速い人だ。医者というのは皆そうなのだろうか。
「こういう仕事してるからかな。たまにね、見えるの。内緒だけど。こんな話をしたら信用されなくなるもんね」
俺も見えていると察したのだろう。秘密を共有したせいか、口調が先ほどより砕けている。
「その、今見えているのは髪が長くて」
「民族衣装みたいな服きた女の子」
「さ、さっき、その子はなんて言いました?」
「それはわからないの。たまに一生懸命話しかけてくる人もいるんだけど、聞き取れない。姿も透けてて、ただ口をぱくぱくしているようにしか私には見えないのよ」
椋は少し残念そうに首を振った。それから、薄い唇にほんのりとした笑みを浮かべる。
「世の中には不思議なこともあるものよ」
そう言うと椋は持っていたタブレットを小脇に抱え直す。
「あなたの脳は正常よ。初めてあなたを診察した時から、私にはその子が見えてた。可愛い子ね。あなたが心配でたまらないみたいだったわ」
椋は扉を開けると、振り返って眼を細めた。
「きっとあなたを守ってくれてるのね」
扉が閉まる。
俺は律を見た。
彼女はまるで救世主に祈りを捧げるか弱き子羊のように両手を胸の前で組み、女医が去った扉を見つめていた。
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