午後の撫でるような風を受け、隣で気持ちよさそうに窓を眺めているこの女の子は俺の脳が見せている幻ではなかった。

 認めざるを得ない。

 だとしてもだ。

「なんで見えるようになった?」 

 俺のつぶやきに、りつは振り返ると、瞬きした。

「それは私にもわかりません。 ですが、この前ご家族と見ていた……、奇跡体験アンビリーバボー」

「あれだろ。事故で臨死体験をして霊が見えるようになったってやつ」

 あいにく臨死体験はしていないが、死にかけたのは事実だ。まあでも似たような理屈なんだろう。

「というか本当に俺に取り憑いてるんだな」

「取り憑いているのではなく守護しているのです」

 律は心外だといわんばかりの勢いで言った。

「違いがいまいちわからん」

「取り憑くというのは、その相手に害を為したりします。ですが守護霊というのはその名の通り、守護者が生まれたときから寄り添い、見守る存在の事を指します」

 寄り添い、見守る、か。

「そうだ、思い出したぞ。お前、俺が眼が覚めたとき、しがみついていただろ」

 そう言うと、律は途端に顔を真っ赤にした。

「せ、せめて身体を温めようと……」

 霊なんだから意味ないだろ。

「あれは取り憑いてると言わんのか。やっぱりお前、悪霊なんじゃ……」

 リンゴみたいな顔の律は、その言葉にいたくプライドを傷つけられたようだった。

「しかも不気味な呪いの言葉吐いてたじゃないか」

「楽譜記号を言霊にして読み上げるのが私なりの祈りの言葉です」

 なんで楽譜記号が祈りになるんだ。

「それに俺を充血した目で恨みがましく睨んでたな」

「意識を取り戻したので、顔をあげただけですよ。必死で祈っていたから充血していたんです!」

「ホラー映画みたいに床に頭を何度も打ちつけてたのは?」

「ご両親に、守護霊としての不甲斐なさを謝罪していたのです!」

「じゃあ、俺の頭を撫でてたのは?」

 律はすっと無表情になると、結わっていた髪をほどき、ばさっと髪で顔を隠した。

「……パウザ休符……」

 どうもこいつは困窮極まると表情を隠して音楽用語でごまかす癖があるらしい。

 その時、俺はまさかと思い当たった。

「お前……、ひょっとして、これまでもあんなことしてたんじゃないだろうな……。俺が見えてなかったのをいいことに……俺の身体を……」

「パウザ、パウザ、グランパウザ沈黙です!」

「ひょっとしてトイレとか風呂ものぞいてたのか……」

「プライバシーは侵害してません! ドアの前などで待機し、危機が及んだときにはいつでも突入できるように耳をそばだて」 

「セクハラじゃないか!」

「い、いいじゃないですか、私はなぎちゃんの守護霊ですよ! 生まれたときから一緒なんですから、頭撫でたり抱きつくくらい許されたっていいはずです! どうせ声も届かない、触れられもしなかったのですから!」

 逆ギレされてしまった。

 律は頬を膨らませながらも、椅子に行儀良く座った。

 霊なんだから浮いてればいいのに、律儀なヤツだ。

 俺が見えていなかった間、律がどんなセクハラ行為に及んでいたのか想像するだに怖いのだが、それよりも気になることがたくさんあった。

「生まれたときから一緒って事は、お前も子供だったの?」

「いえ、私は守護霊ですから、成長することはありません。ああ、あの頃は本当に可愛かったですねぇ。いえ、今も逞しくなってそれはそれで立派になられて……」

「守護霊になる前は人間だったのか?」

 遠い目をする律をなんとか現実に引き戻して尋ねた。

 律は首をかしげる。

「さあ、どうでしょう。守護霊になる前の記憶は消去されていますから。その前は誰かの守護霊だったのかもしれませんし、人間だったのかもしれません。ですが、守護霊は基本的に守護者から離れず過ごしますから、私の音楽用語の知識は凪ちゃんの15年間の人生で学んだものにはありません」

 確かに、俺は音楽に詳しくないし、興味もあまりない。

「ということは、私は音楽に詳しい人の守護霊だったのか、それとも音楽に携わっていた人間だったのかもしれませんね」

「知識はあるのに、記憶はないって変じゃないか」

「守護霊は知識に関しては持ち越せるのです。守護者を守るための基礎知識と、自分が得た知識、それ以外の記憶はリセットされ、守護者のもとに配属されます」

 データは消去され、OSは再インストールされるというところか。

「それは、誰がリセットしてるんだ?」

「わかりません」

 律はなんでもないことのように、首を振った。守護霊というのは、自分が何者だったのかとか、興味ないのだろうか。

「じゃ、守護霊ってのは、人間には必ずいるものなのか」

「たいていは」

 全人類に1人ずつ(人なのかはわからないが)守護霊がいるとは。可視化すればとんでもないことになりそうだ。

 ひょっとして昨今の気候変動には人口増加に伴う守護霊のCO2も影響しているんじゃないか。

「さっきはどうやって窓をあけた?」

「集中すると、少しの間ものを動かせたりするんです」

 律は少し得意そうに答える。

「軽いもの限定ですが。それに一度使うと疲れてしばらく動かせません」

 割とポンコツな事を言っているのになんでそんなに立派な顔をしてるんだ。

「その力で事故から守ってくれてもよさそうなもんだけどな。守護霊なら」

 途端に律はうつむき、視線をそらした。

「俺、今まで運がよかったな、と思う事すらなかったんだけど、お前いたことでなんか助かった事あるなら教えてよ」

 自分でも意地悪だな、と思いながらも皮肉が止まらない。

「凪ちゃんの不運はいわば特級呪物クラスでして、この私でも防ぐことはなかなか難しいのです。ブルスカメンテ荒々しく突然です」

 律は視線をそらしたまま、ごにょごにょと言った。

「俺の不運は動く天災かよ」

 律にツッコミを返したところで、ドアが開いて、男が入ってきた。

「よお、なんだ、思ったより元気そうじゃん」

 高校の同級生、只野ただのだった。

「つか話し声したけど」

「スマホで親と話してた。これが元気そうに見えるか?」

 俺は焦ってなんとか話題をそらした。

 横目で見ると、なぜか律は険しい目つきで只野を見つめている。

「ふ〜ん、あ、これお見舞いの品」

 そう言って只野がベッドに備え付けの簡易テーブルに置いたのは、授業のノートだった。

「助かる」

 果物よりもありがたいお見舞い品だ。

 俺たちの学校はそれなりに進学校なので、入学早々授業において行かれるのは困る。只野はお調子者だが、そういう所はずいぶん気配りがいい。

「まあ、中学からのよしみって事で。ていうか、お前も災難だよなぁ。これで入院何回目よ。ノートとるのもそろそろ飽きてきたわ」

 中学から付き合いのある只野は知っている。

 俺の不幸遍歴を。

 道を歩けば鳥にふんをかけられる。角を曲がれば自転車がぶつかってくる。棚の本は俺の頭めがけて落ちてくる、料理をすれば包丁が滑って足に落ちる、風呂に入れば熱湯で火傷する。

 数え上げればきりがない。

 俺の人生で生傷が耐えない日はなかった。

「なんかの呪いじゃねーの。一度お祓いとかいけば」

「いいよ、あまり期待してない」

「欠席続きで顔も覚えてもらえないまま高校生活終わっちまっていいのかよ」

「もう諦めてる」

 いつものやりとりだった。しかし、只野の顔はいつになく真剣だった。俺の口調もいつもより覇気がなかっただろう。それくらい、今回はやばかったという事だ。

 とはいえ、元々そんなに長くは生きられないだろうとは思っている。

 幼い頃から不幸続きだった俺の心は、ある日ぽっきりと折れて、それが戻る事はなかった。

 将来の夢など考えたこともない。

 どうせかなわないなら持つだけ無駄だ。

 友達づきあいも最低限でよかった。どうせ失うなら、最初から必要ない。

 そういうふうにして、俺は何が起こっても、まあしょうがないか、とやり過ごす事にした。

 いつか来るだろうその時までの、波にただ浮かんで流されるだけの人生だ。

 俺の心は凪のように揺れることも高ぶることもなくなっていた。

 唯一、家族にだけは迷惑をかけたくなかったので、勉強は真面目にした。

 おかげで進学校に入れたはいいが、入学早々に大事故に遭ったというわけだ。

 これはもう神様が人生を諦めろと言っているに違いない。

 只野は何かを言いたそうに俺を見つめていたが、ふっと息を吐くと笑顔を浮かべた。

「退院したらノートのお礼はたっぷりしてもらうぜ。教室で待ってるわ」

 そう言うと片手をあげて出て行く。

 扉が閉まると、なんとも重い沈黙が部屋に降りてきた。

 ふと見ると、律が悲しそうな顔で俺を見ている。

「……なんだよ」

 俺は律を睨んだ。

「諦めてはいけません」

「どうしろってんだよ」

 無性に腹が立った。

「俺が不幸なのは俺のせいじゃないだろ。向こうからやってくるんだから防ぎようがない。あの時だって」

「……お父様のことですか」

 俺の心を完膚なきまでにへし折った事件。

 3年前、工事現場を通りがかった時に鉄骨が落ちてくる事故に遭った。

 一緒にいた父が俺をとっさに突き飛ばして軽い怪我ですんだのだが、代わりに父の手は鉄骨の下敷きになって右手の指に障害が残った。そのせいで父は好きだった仕事が続けられなくなった。

 会社の計らいで事務職へ異動となり、転職せずにすんだのは不幸中の幸いだったが、前より残業しなくてよくなったと笑う父の指を見るたび俺の中に苦いものがあふれてくる。

 自分が被害をこうむるのはまだ我慢できるが、家族や他人に迷惑が及ぶのは耐えられない。

「いっそ今回で死んでたらよかったのに」

「そんな事言わないでください」

「俺だってこんな不幸体質、変えられるなら変えたいっつうの。守護霊ついててこんなだぞ。あ、それともお前疫病神か? それならさっさと俺から離れてくれ」

 最低な皮肉だったが、守護霊なんて非科学的な存在が実在する事に、なおさら腹が立つ。神や仏や、幽霊や守護霊がいるなら、なんで俺に加護はないのか。

 世の中は全く不公平だ。

 しかしそんな俺の想いは届いていないのか、律は叩き損なった蚊を探すような目つきを周囲に配りながら、

「いいえ、離れません。先ほどもあの憎き只野は相変わらず凪ちゃんの周りをうろちょろしていますし、警戒を怠るわけには」

「只野ォ? 只野が何かしたか?」

「覚えていないのですか。 凪ちゃんの中学入学初日、クラスの自己紹介の時、あいつは怪我をしていた凪ちゃんを出汁に自分の株をあげたじゃないですか」

 俺は呆れた。よくまあ俺ですら忘れていた些細なことを覚えているもんだ。

 確かにあいつは自己紹介の時に、「よく人からは優しいねと言われます」と、後ろの席の俺が腕を骨折しているのを見て、「トイレに行く時はいつでも声をかけてくれ。お前のジッパーを下げるのは俺の役目だ」と言って周囲の笑いを誘い、『クラスのお調子者』というキャラクターを手に入れたわけだが、律はそれを侮辱と受け取ったらしい。

「別にいいだろ、それくらい」

「凪ちゃんが許しても守護霊として許すわけにはいきません。今度凪ちゃんを侮辱したら、奴の守護霊が見ていない隙にいつでも窓から突き落としてやります」

「お前、それ悪霊じゃん……。ていうか、あいつの守護霊ってどんなんだ?」

 律は汚物を見るような眼で思い出すように虚空を睨み、舌打ちをした。

「嫌な奴です。自分の方が守護霊としてランクが高いのを鼻にかけ、見下してくる最低な守護霊ですね。全く二人揃って下劣な存在です。いくら私の守護霊ランクが低級だからと言って……」

 どうもこいつは俺に危害を加える可能性ありと、独断した相手には徹底的に辛辣になるようだ。いや待て。今何か聞き捨てならない言葉を口にしたな。

「おい、お前、低級って……」

 律は思わずハッとしたような表情を浮かべたが、すぐさま涼しげな顔を取り繕う。

「なんのことでしょう?」

「キャビンアテンダント風のビジネススマイルを浮かべても騙されんぞ」

 律はしばらく顔に貼り付けた笑顔のまま固まっていたが、俺の突き刺す視線に耐えきれなくなったのか、やけ気味に唇を尖らせて、

「確かに私は守護霊の強さを表すランクのうち、最低の部類に入ります、ええ、それはもう低級です」

「拗ねた子供か」

「ですが、それと凪ちゃんの不運を回避できるかは別問題であり」

「強い守護霊ってのは例えばどんな事が出来るんだ」

「特級守護霊ともなると、守護者の運命を変えることすら可能です」

「で、お前ができることは?」

「窓を開けられます」

「何がこの私でも不運は、だ。お前、自分が無能なの隠してやがったな!」

「凪ちゃんを守護するお気持ちは特級にも負けません!」

「黙れ低級霊」

 全く、世の中は不公平だ。

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