低級守護霊下剋上

平尾隆之

第一話 処女航海 maiden voyage

 意識を取り戻したとき、眼に飛び込んできたのは何かを耐えているような父の顔、ほっとしたような顔の妹、そして、俺にしがみついている女だった。

 見知らぬ女だ。

 ベッドに寝かされている俺の背中に両の手を回してがっちりと挟み込み、胸に顔を埋めている。だが、苦しさを感じるはずの重さを感じない。柔らかいはずの感触もない。あたたかな肌のぬくもりも伝わらない。

 あきらかに生きている女ではなかった。

 悲鳴をあげようとしたが、口がうまく動かない。というか体も動かない。喉が痛い。

 眼だけを動かすと包帯でぐるぐる巻きにされた腕やら足やらが見えた。鼻と口に何かかぶせられている。それが人工呼吸器のマスクだと気づいたとき、俺は、

 ああ、またか、と心の中でつぶやいた。

 記憶は飛んでいるが、どうやら今回は相当危なかったらしい。

 と、いう事は、こいつはつまり、いわゆる死神というやつか。俺をついにあの世へ連れて行こうとしているのか。俺の耳に聞き慣れない声が途切れ途切れに聞こえる。

 女が何かを呟いていた。


 ぐり さ

 ぴっい と

 あ る


 地の底から聞こえてくるような低く、くぐもった不気味なその声は意味不明の言葉を囁き続けている。俺を死出へと誘う呪いの言葉だろうか。

 怖気が走る。

 ふいに女が顔をあげた。

 長い髪の毛が顔を覆い隠している。その髪の隙間から、大きく見開かれた眼が俺を捉えた。白眼は真っ赤に充血し、眼球は黒々として感情というものが読み取れない。

 開ききったその瞳孔を見た時、再び俺の意識は途切れた。

 

 そこから俺の意識は喪失と覚醒を繰り返し、やがて麻酔の量が減って痛みで眠れなくなった。

 ばたばたと周囲がやけに騒がしくなる。

青海おうみなぎさん、私の声が聞こえますか? 聞こえたらまばたきを一回してください」

 まばたきをすると、髪を後ろでひっつめた女医が人差し指を立てる。

「それじゃこの指を眼で追ってください」

 俺は言われたとおり眼で指を追いかける。視界にあの女は見えなかった。あれはやはり、生と死の狭間でみた幻だったのろうか。それとも俺は三途の川とやらに渡るところだったのだろうか。

 女医の検査がひとしきり終えたあとも、医者や看護師が入れ替わり立ち替わり点滴を交換したり、家族と話したりしていた。

「お兄ちゃん、トラックに跳ねられたんだよ。学校の帰りに」

 妹の羽海うみがくりくりした眼を見開いて、俺をのぞき込んでくる。

 そんなに近づくな。声が頭に響いて痛みが増す。そう言いたかったが、俺の口から出たのは「あう」という情けない声だけだった。

「羽海、もう少し静かに喋りなさい」

 さすが父だ。以心伝心とはこのことか。

 父は不満そうに口を尖らせる羽海の頭をなでながら、俺を見た。

「とにかく意識が戻ってよかった。あちこち怪我してるが、後遺症は残らないだろうってお医者さんも言っていたから」

 羽海の頭をなでている手を見て俺はやりきれない気持ちになった。

 いつもいつも、俺はこの家の疫病神で迷惑ばかりかけている。

 むしろ死んだ方がよかったかもしれない。

 あの女が本当に死神だったら、連れて行ってくれてもよかったのに。 

 罪悪感に耐えきれなくなって家族から眼をそらすと、病室の隅にあの女がいた。

 心臓が跳ね上がる。

 女は床に座り、頭をたれていた。形の良いつむじから長い髪の毛が床に広がっている。その頭が上下に揺れている。その度に髪の毛が不気味にうねった。まるで床に頭を何度も何度も打ちつけているようだ。

 ぞくりとした。先ほどまで死を願っていたというのに、根源に埋め込まれた生存本能が恐怖という危険信号を発する。

 俺は家族に女の存在を知らせようと、痛む手を必死に動かす。

「なに、お兄ちゃん、何かして欲しいの?」

 羽海が指の動きに気づいた。

 そうだ。いいぞ。あそこに女がいるんだ。

「あ、わかった! お兄ちゃんおしっこしたいんだ!」

 違う。俺は全力で首を振る。

「身体が痛いんだよな、凪。点滴の量を増やしてもらおう」

 父がナースコールを押す。

 どうやら父にも俺のボディランゲージは伝わらなかったようだ。

 看護師がすぐさまやってきて、点滴の量を慣れた手つきで調節する。

 それにしても、あんな女が病室にいれば誰だって気づくはずだ。

 やはりこの女は俺にしか見えていないのか。

 恐怖がそうさせるのか、眼をそむけたいのに、俺の視線は女に集約してしまう。

 女は白い、民族衣装にも似た服をまとっている。小学生の頃に読んだ漫画版日本神話を思い出す。鎮痛剤が効いてきたのか、まぶたが重くなってきた。

 うつらうつらした意識で、女が顔をあげたのがわかった。

 その顔が一瞬、泣きそうな表情に見えたのは寝入りばなの幻だろうか。

 俺は深くて暗い泥の中に沈んでいった。


 次に目覚めたのは夜だった。

 体中がじくじくと痛む。体の内側でマグマが暴れて焦がしているような、重く陰湿な痛みだ。脳が湯につかっているようにぼうっとする。人工呼吸器はいつの間にか外れていたが、体が痛くて寝返りが打てない。

 点滴の量を増やしてもらおう。

 ナースコールを押そうと、どちらの手が動くか確認する為に右手を見た。

 誰かが俺の右手に触れている。

 どきりとして、ゆっくりと目線を手から上へ上げていく。

 小さく細い手から、二の腕を包んでいるあの特徴的な服、そして、俺の眼前にあの女の顔があった。女は俺に寄りそうにぴたりと身体をつけてベッドに横たわり、俺の頭をそろりそろりと撫でている。

 窓から月光が射し込んで、カーテン越しに顔をほんのりと照らしていた。髪の毛が流れて、女の顔があらわになっている。

 静脈まで透けて見えそうなほど白い肌、奥二重の大きな眼に黒々としたまつげが濡れたように光を反射している。すっと整った鼻梁びりょうの下には小さくぷっくりとした唇。

 鼻先が触れるほどの距離で見た女の顔はどこか重く、沈んでいるように思えた。

 黒目がちな女の眼の中に、恐怖で固まっている俺の顔が映り込んでいるのが見える。

 視線がこれ以上ないくらいにぶつかっているにも関わらず、女はぼんやりとしていた。まるで何も見ていないかのように。

 怖いはずなのに、俺は吸い込まれそうな女の眼から視線を外せない。

 と、女の眼の焦点がゆっくりと、俺の視線にピントを合わせたのがわかった。 

 彼女の眼が一気に大きく見開かれる。

 一度、瞬きをしたあと、伺うように少し顎を引いて上目がちに俺を見つめた。

「……私が、見えるのですか?」

 低く落ち着いた、ささやくような声。

 俺が面食らって固まっていると、女は動揺を隠すように視線をさまよわせた。

「いえ、そんなわけはありません。私が見えるはずが……」

「見えてるよ」

 つい、答えてしまった。

 女がぱかっと口を開ける。半開きになった口から小さな前歯がのぞいていた。その口が一瞬閉じて、喉が少し動く。

 つばを飲み込んだらしい。

 こっちが気の毒になるくらい、顔が真っ赤になっていた。

 弾かれたようにベッドから降り、長い髪の毛をばさりと振って顔を覆い隠す。

「し、失礼しました。勝手に触れてしまい……。ま、まさか見えているとは思わず……アジタート激しく動揺です」

 女は打って変わった高めの声で早口にまくしたてた。

 さきほどよりもずいぶん印象が幼く見える。

 語尾はなにを言っているのかわからなかった。 

「アジ……? 君は誰?」

 意識が戻って以来、喋るのは初めてだったから、声はずいぶんとしゃがれていて自分のものだと思えなかった。 

 こっちが気の毒なくらいにかしこまっていた女は、慌てたように居ずまいを正すと、ぺこりとお辞儀をしてこう言った。

「大変申し遅れました。私はりつ。あなたの守護霊です」

 顔をあげた女はどこか誇らしそうな、嬉しそうな様子だった。

 そんなふうにして、俺は律と出会った。

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