消灯教を壊したその日、

U木槌

第1話 手首に数字が浮かんだその日、

 僕の手首には、消えない番号が浮いている。


 それが何を意味するのか、誰も教えてくれない。ただ、十七歳の誕生日を迎えた朝、目を覚ますと、そこにあった。青白く発光する六桁の数字。748291。


 皮膚の下から浮き上がるように光っている。触れても熱くはない。痛みもない。ただ、そこに存在している。まるで、最初から僕の一部だったかのようだ。


 でも、昨日まで確かに何もなかった。


 鏡の前で何度も確認した。消そうとして石鹸で擦った。お湯をかけた。爪で引っ掻いた。何をしても、数字は消えない。それどころか、僕が抵抗すればするほど、数字の光は強くなっていくようだった。


 母は僕の手首を見て、何も言わずに泣いた。


「お母さん、これ何……」


 僕が尋ねると、母は首を横に振るだけだった。その目は、何かを知っているのに言えない人間の目だった。恐怖と、諦めと、それから僕には理解できない別の感情が混ざり合っている。


「お父さんは?」


「お父さんは……仕事」


 嘘だと分かった。母の声が震えていたから。


 父は仕事に行ったまま、三日間帰ってこなかった。その間、母は僕と目を合わせようとしなかった。食事は作ってくれたけれど、一緒に食卓を囲むことはなかった。僕が部屋を出ると、母は別の部屋へ移動した。まるで僕が何かの伝染病にかかったかのように。


 学校に行くと、状況はもっと奇妙だった。


 誰もが袖で手首を隠している。真夏だというのに、長袖のシャツを着ている生徒が大半だった。中には、手首に包帯を巻いている者もいた。でも、誰もそれについて話さない。まるで暗黙の了解があるかのように。


 僕も長袖のシャツを着て登校した。


 廊下を歩いていると、時々、トイレや階段の踊り場で、誰かが袖をまくり上げているのを目にする。そして別の誰かと数字を見せ合っている。彼らは小声で何かを囁き合い、時には携帯電話で数字を撮影し合っている。


 そのたびに、彼らの表情が歪む。


 喜びなのか、絶望なのか、判別できない種類の歪み方だ。笑っているようにも見えるし、泣いているようにも見える。ある生徒は数字を見た後、壁に頭を打ち付けた。別の生徒は、狂ったように笑い出した。


 誰も止めない。


 まるで、それが当然の反応であるかのように。


 三時間目の数学の授業中、隣の席の綾瀬さんが僕に小さなメモを回してきた。


『消灯教に行った?』


 僕は首を横に振った。綾瀬さんは、もう一枚メモを書いた。


『放課後、案内する』


 綾瀬さんは普段、ほとんど誰とも話さない生徒だった。成績は良くもなく悪くもなく、部活にも入っていない。存在感が薄いというよりは、意図的に自分を消しているような印象の女子だった。


 彼女の手首も、長袖で隠れている。


 でも時々、袖の隙間から、微かな光が漏れているのが見えた。


「消灯教って何?」


 昼休み、屋上で僕は綾瀬さんに尋ねた。


「数字が出た人が行く場所」


 綾瀬さんは手すりに寄りかかりながら、街の北側を指差した。


「あっちの方に、古いビルがあるでしょ。あの地下」


「そこに行けば、数字の意味が分かるの?」


「分かる人もいるし、分からない人もいる」


 綾瀬さんの声は妙に平坦だった。まるで、天気の話をするように。


「君は分かったの?」


 彼女は答えず、ただ微笑んだ。その笑顔の端が、ほんの少しだけ震えていた。


「みんな、数字を持ってるの?」


「全員じゃない。でも、十七歳になると、誰かには出る。何人に出るのかは分からない。なぜその人なのかも分からない」


「君の数字は?」


 綾瀬さんは少し躊躇してから、袖をまくり上げた。


 彼女の手首には、982634という数字が光っていた。僕の数字とは違う色だった。僕のは青白いが、彼女のは薄い紫色をしている。


「みんな色が違うの?」


「そう。色には意味があるらしい。でも、それも消灯教に行かないと分からない」


 綾瀬さんは袖を下ろした。


「でも、行かない方がいいかもしれない」


「え?」


「知らない方が、幸せなこともあるから」


 そう言いながら、彼女の目は遠くを見ていた。


 放課後、僕は綾瀬さんに連れられて、街の北側へ向かった。


 古いビルは、駅から徒歩十五分ほどの場所にあった。周囲には廃墟のような建物が並んでいて、人通りもほとんどない。ビルの外壁は煤けていて、窓ガラスの多くは割れていた。


「本当にここ?」


「ええ」


 綾瀬さんは迷いなくビルの裏口へ回った。そこには地下へ続く階段があった。


 階段は照明が切れていて、足元が見えない。湿った空気と、カビの匂いがした。綾瀬さんのスマートフォンのライトだけが頼りだった。


 地下一階を通り過ぎる。


 地下二階を通り過ぎる。


 地下三階。


 階段の先に、重い鉄の扉があった。


「ここが消灯教よ」


 扉には何の表札もない。ただ、ドアノブの上に小さな穴が開いているだけ。人差し指が入るくらいの大きさ。


 綾瀬さんは躊躇なく、自分の手首をその穴に近づけた。手首の数字が、穴の中へ吸い込まれるように光を放つ。紫色の光が穴の中で渦巻き、何かを読み取っているようだった。


 ガチャリ、という音とともに扉が開いた。


 中は、予想以上に広い空間だった。


 天井は見えないほど高く、壁も遠くて境界が曖昧だ。地下にあるはずなのに、まるで巨大な聖堂のような空間が広がっている。物理法則を無視しているとしか思えない。


 ただ、無数の蝋燭が床に並べられていて、その炎が部屋全体を揺らめかせている。蝋燭は規則正しく配置されているわけではない。ある場所では密集し、ある場所では疎らになっている。まるで何かの図形を描いているようにも見えるが、その全体像は掴めない。


「ようこそ」


 声がした。


 どこから響いているのか分からない。天井から降ってくるようでもあり、床から湧き上がるようでもある。男の声でも、女の声でもない。年齢も判別できない。


 ただ、その声は僕の手首の数字と同じ周波数で震えているような気がした。


「君は新しい数字の持ち主だね」


 僕は周囲を見回したが、誰の姿も見えない。綾瀬さんだけが、僕の横に立っていた。彼女は蝋燭の炎を見つめたまま、まるで石像のように動かない。


「これは……何なんですか」


 僕は自分の手首を掲げた。青白い光が、蝋燭の炎に反射して輝く。


「それは君だけが持つ固有の問いだよ」


「問い?」


「そう。君がこの世界に生まれてきた理由。君が果たすべき役割。君が最終的に辿り着くべき場所。君が失うもの。君が得るもの。君が愛するもの。君が憎むもの。その全てが、その六桁に込められている」


 声は続けた。抑揚のない、機械的な響き。


「でも、その意味を知るには代償が必要だ」


「代償?」


「そう。一つの答えを得るたびに、君は一つの光を失う」


 僕は綾瀬さんを振り返った。彼女は蝋燭の炎を見つめたまま、何も言わない。ただ、その目には涙が浮かんでいた。


「光を失うって、どういう……」


「それも、君が知るべきことの一つだよ。でも今日は、まだその時じゃない。今日は、ただ一つだけ覚えておいて」


 声が、少しだけ近づいた気がした。いや、近づいたのではなく、僕の体内に入り込んできたような感覚。


「数字は増えることも、減ることもある。でも決して、消えることはない。たとえ君が死んでも、数字は残る」


 蝋燭の炎が一斉に揺れた。


 その瞬間、僕の手首の数字が熱を持ち始めた。痛いわけではない。でも、何かが僕の体内に侵入してくるような、奇妙な感覚。血管を通って、心臓へ向かっていく何か。それは冷たくて、重くて、でも確かに生きている。


「次に来る時は、一人で来なさい。そして、最初の問いを持ってきなさい」


「最初の問い?」


「君が一番知りたいこと。でも、問いは慎重に選びなさい。一度問えば、もう戻れないから」


 声がそう言った瞬間、全ての蝋燭が消えた。


 何百本、いや何千本もあったであろう蝋燭が、一斉に、音もなく消えた。


 真っ暗闇の中で、僕は綾瀬さんの手を掴もうとした。でも、そこには誰もいなかった。


「綾瀬さん?」


 返事はない。


 僕は一人で、その暗闇の中に取り残されていた。足元の感覚もない。自分がまだ地面に立っているのか、それとも浮遊しているのかも分からない。


 手首の数字だけが、青白く光っている。


 748291。


 いや、違う。


 僕は目を凝らした。


 最後の数字が、さっきまで「1」だったはずなのに、今は「2」に変わっていた。


 いつ変わったのか。なぜ変わったのか。


 それは分からない。


 ただ、確かに数字は変化していた。


 そして、僕の中でも何かが変化していた。


 心臓の奥で、何かが芽生えようとしている。それが希望なのか、絶望なのか、僕にはまだ分からなかった。


(続く)

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