第3章 神様と黒騎士
第24話
進級の季節も過ぎ、ロゼリアがいなくなって数ヶ月後。
あれだけリオの周辺に群がっていた女子生徒たちは、何一つとして進展のない状況に嫌気がさしたようだ。
代わりに今ではリオを遠巻きに眺めながら、彼の顔色の悪さを噂し合うことが日常となった。
「リオ様、今日も酷い顔色…。」
「彼女が退学されてからずっとあの調子ですね…。」
「ああ、わたくしがあの方の代わりになれたなら…!」
その声がリオの耳に届くことはなかったが、周囲が心配するほど疲れが顔に滲み出ていることは、紛れもない事実だった。
「ねえリオ、顔色悪いよ。風邪?」
「大方睡眠時間が足りていないのでしょう。」
今日も変わらずアーセルとディナはリオの部屋で、新しい茶葉を吟味している。
その隣では椅子に腰掛け、天を仰ぐリオがいた。
「…睡眠時間が足りないのは誰のせいだと思ってるんだ。」
リオの言葉にディナは視線を逸らし、アーセルは茶菓子を貪りまるで聞いていない。
あらかたこの二人が、特にアーセルが原因であろうことは容易に想像がつく。
この家に越してすぐ、リオの生活が心配だからとアーセルが寝袋を持参したことがあった。リオはなんとか追い返したが、今度は庭を拡大してアーセル専用の小屋を建てようと画策し、リオとディナは数日寝ずに妨害するという、なんとも愚かな攻防をその後度々繰り広げている。
そもそも学生のうちは特別措置として、王宮からの仕事依頼の対価に生活全般が援助される運びとなったことは、アーセルも承知していたはずだ。
何をどうして小屋を立てる結論に至ったか、リオがどれだけ頭を捻っても理解が追いつかなかった。
「…それに、最近ずっとセラフ先生につけ回されてる。」
「セラフ先生?今期赴任された?」
「ああ。学園中を毎日毎日…やけに紅茶も勧められる。」
セラフの噂は、ディナもある程度は把握していた。
異常な猫背で陰気臭く、前髪で目が隠れているにも関わらず不気味な眼光を放っている…と。
ディナは菓子盆を頭上へ避難させ、考え深げに顎に手を当てた。アーセルが周りをぴょんぴょんと飛び跳ねるのを気に留めている様子もない。
「アーセル様、菓子に対する執着を凡人程度に下げてください。…あの男、少しばかり気になります。」
「セラフはっ、悪い人っ、じゃっ、ないから!
リオもっ、甘いの食べればっ、寝れるよっ!」
確かに以前、アーセルは一度にケーキを大量に食べたせいで気絶したことがあった。
あれは睡眠ではなく気絶だと教え込んだはずだが。
ディナは小さく息をつき、今にも寝そうなリオに視線をやると、アーセルを担ぎその日はリオ宅を後にした。
それから学園内では、リオの言っていた通り、一定の距離を空けてはいるがリオの後をつけているセラフの姿があった。長身だが猫背がひどく、羊のようなモサモサ頭の男がコソコソと身を隠している様は、なぜ今まで気付かなかったのかと不思議なほどに目立っていた。
ただアーセルはまったく無関心で、一人で行動するわけにもいかずディナは横目でその姿を追うだけだった。
しかし数日後、リオが行方不明となった。
第25話
リオがいなくなった。
その報せを受けたアーセルは、ディナでさえ見たことのない表情で、その場にいる者を威圧した。
誰も彼もが、ひりついた空気を乱すことを拒んだ。
「…は?なんで?
リオがいない…?リオ…どこ行ったの…?」
アーセルはブツブツと呟き始め、一人の空間の中誰の声も遮断し、活字を追うように目だけを何度も左右へ走らせた。
ディナだけが体を動かすことを許され、すぐに探して参りますと教室をあとにした。
「いない、いない!いない!!
なんで!?僕がリオを見つけられないわけ…!」
結局、リオは見つからないまま放課後となった。
アーセルは自身の目を抑え、【天使のような笑顔】とは程遠い、獲物を逃した獣そのものだった。
アーセルの周囲で音を立てようものなら、たったひと睨みでその者はたちまち逃げ出してしまう。
「…ねえディナ!!まだなの!?
なんで見つからないのさ!!」
声を荒げたその時、息を切らしたディナが教室へと戻ってきた。なんとか呼吸を整えながら、ディナは口を開いた。今は、言葉を選ぶ時間さえ惜しい。
「アーセル様、リオ様が、見つかりました。
こちらです。」
ベッドに横たわるリオは、まるで安らかに眠っているように見える。
いつもの眉間の皺は消え、まだ幼さの残る顔が、彼が14歳になったばかりだと告げている。
「なに、これ?…は?」
ディナは身構えた。
開けてはいけない扉を、こじ開けてしまった。
窓は開いていないにもかかわらず風が吹き、竜巻のように周辺の書類やティーカップを巻き込んだ。戸棚のガラスは一斉に割れ、ディナは立っているのがやっとだった。
「あ、アーセル様!落ち着いてください!」
「許さない…、許さない許さない…!
僕のリオ…誰が!?」
アーセルの目からは堰を切ったように涙が溢れ、視界は歪み、自らの感情の波へと攫われていく。
その時、部屋の奥からひょっこりとモサモサの頭が現れた。同時に、ディナの叫び声が部屋中に響く。
「アーセル様!リオ様は死んでいません!!
寝ておられるだけです!!」
「………へ?」
間抜けな声と共に、先ほどまでの混乱が嘘のようにその場は脱力した。
セラフが腰を曲げながら、散らばった書類や割れたカップを見て、あああ、と小さな叫び声を上げた。
「あ〜、アーセル様、何してるんですかぁ…。
研究室がえらいことに…、エスペールくん、起きてないですよねぇ?」
その長身からは考えられないようなひどく間延びした声を、アーセルは何度も聞いてきた。その声が、今はあまりにも憎い。
「…セ〜ラ〜フ〜…何勝手なことしてるんだよ…。
僕リオが死んじゃったと思ったんだからね!?」
「ええ〜!?勝手って、アーセル様に言われたから僕ここ100年ぐらいずっと見守ってきたのにぃ…!」
アーセルはセラフの背中に飛び乗り、そのモサモサ頭をポカスカと叩き始めた。
ディナは二人の姿にようやく合点がいったようで、小さく息をついて普段の表情へと戻っていった。
「うー…ん…うるさ…。」
そこでリオが目を覚ましたが、目の前の荒れた部屋と三人の奇人、そして自分がベッドで横になっている状況に眩暈がした。
「あ〜もう、アーセル様が騒ぐからぁ…。
エスペールくん、まだまだ寝ないとクマも取れないのに…。でもちょっと、顔色はましになりましたねぇ。」
「…は?いやちょっと待て。何があった?
僕は…セラフ先生の淹れた紅茶を…。」
「はい!無理やり飲ませましたぁ!寝てほしかったので!」
ニコニコと上機嫌に答えるセラフ。
目こそ前髪で見えないが、口角の上がったその口元はどことなくアーセルと似ている。
目に映る何もかもが、リオの理解を軽々と飛び越えてゆく。追い打ちをかけるように放たれたアーセルの次の言葉は、リオの思考を完全に断ってしまった。
「もう!リオは僕の目なんだから!
勝手に僕がわからないところに連れて行かないでよね!」
アーセルの漆黒の目が、初めて生気を帯びたように、きらりと光った瞬間だった。
第26話
天聴の神とその分身について
(『天界誌』第一巻「創世神話篇」より)
古き時代、天上に「天聴(てんちょう)の神」と呼ばれる存在があった。
その神は、人の子らを己が眷属のごとく愛し、朝夕に寄せられる祈りを聞くことを無上の喜びとしたという。
神は祈願のほとんどを叶え、またしばしば天上より下界を眺め、人々の営みを見守った。
かくして幾千の歳月が過ぎ去った。
やがて神は、ある静かな日、ふと悟った。
――人には家族があり、友があり、恋人がある。されど我は、永き孤独に在る。
その想いより神はこう嘆じたと伝えられる。
「誰かと共に茶を飲みたい」
そこで神は、自らの身を分かち、目・腕・内臓など様々な部位より“人形(ひとがた)”を造り出した。
それらは「神の一部」と総称され、神と共に日ごと茶会を開き、香る茶を賞味した。
この日々は、祈りを聞く時に並ぶほどの悦びであったとされる。
しかし時が経つにつれ、奇妙な変化が訪れる。
神の「耳」にあたる一部だけが、茶を残す日が増えていったのだ。
その頃より、祈りの時は神にとって重き労となった。
人々の願いの中に、利己と害意が混じり始めたからである。
――「金を得たい」
――「あの者を不幸にせよ」
――「あれさえなければ」
それらをなお聞き続けた結果、ついに耳は一滴の茶も受け付けず、祈りの声すらも受け入れられなくなった。
神は耳を切り離し、地上へと投げ捨てた。
曰く「この耳、あまりにも穢れたゆえ」と。
それでも神は人を憎むことができなかった。
ゆえに残る「一部」たちも、次々と地上へ遣わした。
――彼らが清らかにして純なる祈りを捧げんことを。
――その祈りが叶えられ、やがて世界を浄めんことを。
こうして「神の一部」は人の姿を取り、今も地上に在ると信じられている。
第27話
「…もう一度聞くが、この神がお前なのか…?」
「そう!宗教学でこの話が出てきた時、僕のことだ!ってちょっと誇らしかったんだ〜。」
にわかには信じがたい。
何度教科書に目を通しても、この荘厳な雰囲気の神と、目の前にいるアーセルの無邪気さは、到底同一人物とは思えない。
「ありえない…。
この目が本当に神の目なら…僕はなんで、今まで…。」
リオは眉間に指を当て、過去の自分を思い巡った。
ずっと一人で生きてきた。
家族ができても形だけの、なんの意味も持たない集合体で。利用され続けただけの日々。
胃から込み上げる酸っぱさは、いつまで経っても慣れることはできなくて。
咄嗟に口元を覆ったリオの姿を、アーセルは不思議そうに首を傾げて見つめていた。
「ありえなくないよ。
だってリオは、あの家でずっと僕の一部と一緒にいたんだよ?」
何も思わなかったわけではない。
ずっと引っかかっていたけれどこれだけは、関わりたくなくて避けてきた。
なぜ、ギルドラの内情を知らないはずのアーセルが、ルドルフを労う言葉を掛けたのか。
なぜ、アーセルがルドルフの淹れた紅茶の味を知っていたのか。
あのとき、ルドルフの「外の世界を見てほしい」という言葉が、妙に重くのしかかったのも。
「…ずっと、見てたのか。」
「うん!だってリオは僕の目なんだよ。
途中で死んじゃったら困るでしょ?」
あまりに澱みのない、冷酷な目だった。
リオを手に入れること。
おそらくアーセルは、己の目的以外に興味がない。
その目の奥に潜む虚は、リオまでも包み込まんとしている。
「…とはいえ、リオ様。
アーセル様は…少々思考回路に欠陥はあるものの、あなたの願いを叶えるという一心で動いておられます。
万が一の場合は、私があなたをお守りすると誓いましょう。…天使の羽根は、何よりも堅い盾となりますので。」
「天使…。
お前、そのクソみたいな口調で天使なのか。」
「私のこれは元々です。」
わずかに軽くなった空気の中、爽やかな香りが三人の鼻腔をくすぐった。
「まあまあ、皆さん落ち着いて。
紅茶が入りましたよぉ。」
セラフがそれぞれ紅茶を差し出すも、リオはカップの中身に苦々しげな視線を投げた。
当然だろう。彼はセラフの紅茶で半日以上眠っていたのだから。
「エスペールくん、そんなに警戒しないで…。
それは普通に淹れたのでなんの効果もないですよぉ。」
セラフは紅茶を一口飲み、ほらね?と言うようにカップを軽く傾けてみせた。
「本来神の一部たちが淹れた紅茶は、それぞれ違った効能が宿ります。神の脳であるセラフ様なら睡眠の量や質の向上、ルドルフ様は…神の膵臓、浄化の効果ですね。」
そう聞くと、リオはほんの少し体を揺らした。
しかしそれには気付くことなく、柔らかな湯気を切るように、セラフの声が低く響いた。
「ここで集まれたのも神の加護です。
…皆さんに、ぜひご相談が。」
その前髪のわずかな隙間から、三人の姿を捉える眼光が覗いた。
第28話
アーセルを除く三人が神妙な面持ちのなか、セラフが話を切り出した。
「最近、妙な話を耳にしましてぇ。
ディナさんはご存知でしょうか。
…街で夜な夜な、黒騎士が暴れ回っている…という噂。」
未だ紅茶と睨み合っているリオを尻目に、ディナは一口紅茶を啜り、片眉をわずかに吊り上げた。
「その噂の種が、僕らの同胞かもしれなくて。
調査をお願いしたいんですよぉ。」
「同胞?まさか、アーセル様はもうリオ様以外すべて手中に戻しているはずです。
アーセル様の命令を聞かない者などいるわけがない。」
真新しい湯気をくゆらせるティーカップを片手に、セラフは深く頷いた。おそらくその目線の先には、話の底が見えていないリオの姿がある。
脳が理解を拒む様子は、幾度も見てきた光景だ。
「まあ、同胞かもというか、100%同胞なんですけどねぇ〜!」
「ねえ、同胞って言うけど、僕そんな黒騎士なんて子知らないよ?」
セラフの用意した菓子類をほぼ一人で空けてしまったアーセル。口元をディナに拭かれながら、気ままな声が漏れた。
「そうなんですよねぇ。
だから調べてほしいんですよぉ。僕は仕事もあるのでなかなか街には出られなくて…。」
「…どういうことだ、わけがわからん。
その黒騎士ってのがこいつの一部なら、こいつが呼べば戻ってくるんじゃないのか?」
リオは顔をしかめ、アーセルの方を指差した。
かすかにディナの瞳が揺れるも、当の本人は全く気にする様子がない。追加された菓子に右手を伸ばし、さらに貪るだけだった。
「異端、と言えるでしょう。
リオ様、不思議には思いませんか。あなたは神の目、アーセル様の一部です。しかしあなたの行動はアーセル様の命令に左右されることはありません。」
「要するに、願いを叶えてもらってない状態のエスペールくんは、まだただの人間。アーセル様から干渉はされないんですよぉ。逆にもう願いを叶えてもらった僕らは、一度天界へ呼ばれて、アーセル様の命令でまたここにいるんです。」
「…その黒騎士は、どちらでもない存在、ということか。」
三人が同時に、アーセルへと視線を注いだ。
アーセルは優雅に紅茶を飲み、そのまま深く息をつく。
「そんなこと、ありえないけど…。
でも、おもしろそうだね、ね?二人とも。」
ニヤリと笑う目がリオとディナを捉えると、リオは寒気と同時に、いつかあったあの感覚を思い出す。
わからないことが、気持ち悪い。
人が好奇心と呼ぶそれは、リオの頭を電流のごとく駆け巡った。
「リオ様。その黒騎士とやらの調査は、私とアーセル様とで行います。あなたは足手纏いにしかなりません。」
「…それはどうだろうな。
お前はともかく、そこの菓子を食い漁るしか芸のない神様よりは、役に立つと思うが。」
「エスペールくん、君ただの人間ですからねぇ。
君にも聞いてもらっておいてなんですけど、役に立つとは僕も思ってないですよぉ。」
アーセルがニコニコと見守る中で、三人の間に火花が散った…かと思われたが、セラフが再度、無理やりリオに紅茶を飲ませたことにより、その場は平穏に収まった。
セラフ曰く、リオはまだ寝ているべき、なのだそうだ。
第29話
夜な夜な街で黒騎士が暴れている。
噂が飛び交い始めたのは、ここ数週間の話だ。
宗教国家であるが故に、また騎士団の存在が大きいために、この国は戦争とは無縁であった。
だからこそ、騎士が暴れているという噂は、リオからすればあまりにも滑稽に聞こえた。
帰り道、月明かりだけが頼りの中。
閑静な夜の街には似つかわしくなく、金属が擦れ合うような音が響いている。
姿は見えない。
それなのに、どこかすぐ近くで、こちらを見張っているような、嘲笑っているような。
呼吸が浅くなる。誰かいる。誰も見えない。
雲が、月を覆った。
その瞬間、走った。家の方へ、一直線に。
早く。早く。ああもう、もっと速く走れないのか。
ゆっくりと雲が流れ、再び月が顔を見せた時。
目の前に立ちはだかる、大きな鎧の姿。
煤で汚れているのか、鈍く黒光りする姿は、まるでおとぎ話に出てくる呪いの黒騎士だ。
私は悲鳴をあげて、そのまま気絶してしまった。
気付いた時には、その姿はもう、どこにもなかった。
「以上が、黒騎士を見たと言う者の証言です。
…あとは、屋根の上を移動している姿を見た、と言う者も。」
リオは資料を繁々と眺め、その目を細めた。
隣にいるアーセルも、資料を覗き込むもどこか他人事だ。
「これ、噂に尾鰭どころか背鰭までついてるね。
全然【暴れて】ないじゃん。」
「ええ、しかし…証言が事実であれば、ただの人間にしてはこの身体能力はいささか不可解です。
セラフ様の言った通り、神の一部であることは否定しきれない。」
どうにも、リオは納得がいかない。
だんだんと近づいてくるアーセルの頭を払いのけながら、リオは小さく咳払いをした。
その様子に気付いたディナは、ああ、と思い出したように言葉を続ける。
「以前も説明したように、まだ神が願いを叶えていない一部、つまりリオ様、あなたはまだただの人間です。特別な力はありません。
ですが、すでに願いが叶った者、セラフ様やルドルフ様のような方は神の一部としての力が戻った状態です。そして天界へ、神の元へと還り、神の命令でお二人のように再び下界へと降りる者もいます。」
「ルドルフ、凄かったでしょう?
一人で屋敷のこと全部やってたの、知ってた?」
二人の言葉に、リオは面食らった。
ギルドラ家に引き取られてからずっと、身の回りのことや屋敷内のことはすべて、ルドルフが引き受けていたことは知っている。
だがそれは、リオにとってはあまりにも当たり前の光景で。
それが特別なことだとは、認識できていなかった。
そして、ひとつのことに気が付いた。
「…なあ、その神の一部としての力ってのは、願いが叶った時には戻るんだろう?
それなら…。」
続くリオの言葉に、二人は唖然とした。
あまりにも単純で、ありえないミスを、過去に犯した可能性がある。
アーセルの背後にゆらりと動いたその影は、一晩中、無機質な声で説教を垂れ流し続けた。
第30話
あの日から、あまり夜が好きではなくなった。
こんなに月が綺麗な夜は、特に。
街に出たリオたちだったが、黒騎士を捕える策があるわけではなかった。
まずは行動あるのみと、アーセルが言って聞かないのだ。
「アーセル様、やはりここは慎重に動くべきです。
リオ様もいる中で、情報も定かでないまま時間を消費するのは無駄でしかありません。」
ディナの言葉にアーセルは顎に手を置き、眉間に皺を寄せた。まるでディナやリオの真似だったが、本人は至って真面目なようだ。
しばらくすると、何かを閃いたように目を見開き、大きく息を吸い込んだ。
「黒騎士ー!!どこに…──!!」
二人の嫌な予感は、当たった。
どこの世界に、こんな真夜中に大声で噂の元を呼ぶ愚か者がいるだろうか。
慌ててディナとリオ、二人がかりでアーセルの口を押さえにかかった時、その愚か者が目の前にいるのだと痛感した。
アーセルは肺に残る大量の空気を、僅かな隙間から不満の声として漏らすしかなかった。
「お前本当に何考えてるんだ…!」
「思いつきの行動は私に相談しろとあれほど…!」
「そーそー、夜中に叫ぶなんて俺でもやらん。」
風も、雲も、すべての動きが、止まった。
聞き覚えのない声が、空から降ってきたような。
三人が顔を上げると、まさに噂の鎧が、屋根の上からこちらを見下ろしている。
人が近づく気配など、なかったのに。
アーセルだけが、何事もなかったようにまっすぐに鎧の男を見つめている。
「久しぶりだなあ、アーセル。200年ぶりか?
様ってつけた方が良いんだっけ?」
「久しぶり、ヴァリアン。
…ここで何してるの?」
「…あ?」
ヴァリアンと呼ばれた鎧の男は、鉄製の兜に覆われた視界の中でアーセルのみを捉えている。
逸る気持ちを抑えるように、静かに瞬きを繰り返した。再びアーセルを見据えた時、その目にははっきりと憎悪が浮かんでいた。
「何してる?何してるかって?
あんたが一番よくわかってんじゃねーのか、なあ!?」
ヴァリアンは屋根から一気にアーセルの目の前へと飛び降りた。ガチャガチャと大きな音が、夜の帷に響き渡る。
アーセルはまるで身じろぎもしない。
それどころか小首を傾げ、その仕草がさらにヴァリアンを逆撫でした。
そのすぐそばで、リオを守るようにディナは一歩前へと進んだ。
噂の種と出会ってたった数分。彼はリオを連れてきたことを、深く後悔していた。
ただの人間など、足手纏いになることはわかっていたのに。
「…ああ、そいつがアーセルの目か。
良いよなあ、愛されててさあ。」
ディナの反応が、遅れた。
ヴァリアンはまだ正規の手順では神の一部としての力を取り戻してはいない。それでも。
天使であるディナの手を、嘲笑うようにすり抜けた。
「なあ、こいつがいなきゃ、あんたは俺を見てくれるかよ?」
二人の前に差し出されたのは、鎧に締め付けられるリオの姿だった。
痛い、苦しい。だけれどそれよりも。
ヴァリアンの目がかすかに揺らいだのを、リオは見逃さなかった。
第31話
なんで。
どうして。
置いていかれた?
他のみんなは笑ってるのに。
「俺はずっと待ってたんだ!
なのになんで、何の資格もないこいつが、お前と一緒にいるんだよ!?」
悲痛な叫びだった。
ヴァリアンはリオの体が宙に浮くのも構わずに、腕を大きく振りながらアーセルへ必死に訴えた。
どんな過去があれば、こんなにも人を憎めるのだろう。
何を持って生きていれば、ここまで人に執着できるのか。
「ヴァリアン、さっき叫ばないって言ってたのに…。
近所迷惑になっちゃうよ?」
「…なっ…!お前、の、そういうところが…!
俺は気に入らんのじゃァア!!」
ヴァリアンは吠えた。
彼の指先がリオの喉を掴み、その体を軽々と持ち上げた。
だんだんと荒くなっていく息遣いが、鎧越しにも聞こえてくる。
小さく響く金属音は、微かな震えが鎧に伝わるからだろう。
今にもアーセルに飛びかからん勢いだが、その足元は微動だにしない。
アーセルに近づくことを、恐れているのか。
当のアーセルは未だに頭を捻り、何がヴァリアンの原動力となっているのかを理解していない。
リオはもがいてはいるものの、非力な彼にはヴァリアンの指一本も動かせはしない。
おそらく話し合いで解決する相手ではないけれど、冷静さを欠いては何も進展しないだろうこの状況で。
ディナは大きく息を吐いた。
「…ヴァリアン様。
あなたはおよそ200年前には、すでにアーセル様に願いを叶えられたはずです。なぜ、天界へ戻って来られなかったのですか。」
僅かな声色の揺らぎを、ディナ本人も自覚していた。
それでも慰めでも戒めでもないその無機質さは、鎧越しの耳にも届いたらしい。
カシャンと大きな音と共に、ヴァリアンの体がディナへと向いた。
「そんなもん、こいつに聞け。
あの日、俺は戻ろうとした。でも呼ばれなかった。
こいつが…!アーセルが!俺を捨てたんだ!!」
言葉を発するたび鎧の関節が軋み、リオの喉元に食い込む指がさらに強く締まっていく。
「ああ!それで怒ってたんだね!
うーん?…なんで呼ばなかったんだっけ?」
「アーセル様、黙っててください…!
あなたが口を開いてもろくな状況に転じない!」
ディナは再びヴァリアンへと向き直り、ゆっくりと燃え盛る空気を切り裂いた。
「ヴァリアン様。あなたの目的を、お聞かせください。」
目的。
まるで初めて聞いた言葉のように、それはヴァリアンの頭で反芻した。
あったはずだ。
何か。
喉を掴む指がほんの少し緩むのを、リオは薄れゆく意識の中で感じていた。
第32話
神様に願いを叶えてもらった。
何を願ったんだっけ。
もう忘れてしまったけれど、頭を撫でられた感覚は今でも覚えている。
初めての神様の茶会の日。
神様の隣の席を陣取ったんだ。
たくさん話をした。
ずっと隣で笑っていたかった。
それなのに。
「…っお前は!あいつが他人のこと考えて行動する奴だと思ってるのか!?
僕よりずっと、知ってるはずだろ!!」
力が緩んだ隙に、リオは掴まれた首元に腕を捩じ込み気道を確保していた。
鎧の振動から、ヴァリアンが口籠るのを感じていたのだろう。
「お前は見捨てられただ忘れられただと!
真偽も確かめず子供のように振る舞って泣き喚くだけで!何を気付いてもらおうなんて甘えているんだ!」
「うるさい…!!」
鉄の指先に力を込める。そのつもりが、目に見えて震える手は空回りするだけで。
違う。
「ずっと、アーセルから愛され続けたあんたに、俺の何がわかる…!!
俺はずっと…!アーセルに…っ!」
言葉が、続かない。
なんと言えば良い。何を伝えれば良い。
だって、アーセルが見捨てたことは事実のはずだ。
でも。
ヴァリアンはリオを投げ出し、腰の細剣を按じた。
リオの向こう側に、アーセルの姿が見えた。
その目には、怒りも悲しみもなく、ただ純粋にヴァリアンを見つめている。
ほんの一瞬、ヴァリアンの体勢が傾いたのを見逃さず、ディナはリオを抱え、飛んだ。
リオは体が浮くのも構わず、ヴァリアンに向かって声を張り上げた。
「だからその尻すぼみをやめろと言ってるんだ!
自分の言葉で最後まで言え、アーセルは逃げない!!」
不意にヴァリアンの視界に入ったリオの目は、彼の記憶にある神の目と同じ色をしていた。
彼はただ、昔のように。
あの頃のように、神の隣にいたいだけだったのに。
なぜこんなにも、遠回りをしてしまったんだろう。
ヴァリアンは膝から崩れ落ち、嗚咽した。
兜をかなぐり捨て、広がった視界にも、やはり映るのはアーセルだけで。
アーセルが一歩一歩と近づくたび、ヴァリアンは声を押し殺すことができなくなった。
「アーセル、アーセル…。
俺は、あんたに大事にされたくて、なんで…っ、俺を捨てたの…。」
ヴァリアンの頭に、ふわりとした感触が降りた。
「僕、ヴァリアンも大事に思ってるよ?
ごめんね、一人にして。」
たったその一言が、ずっと聞きたかった。
この手の温もりを、ずっと感じたかった。
やっと手にした神の隣は、あの頃と変わらない、彼が唯一安心できる場所だ。
ヴァリアンはその日一晩中、泣き続けた。
リオには、なぜ彼がそこまでアーセルに執着するのか、まだわからない。
ただ不思議だったのは、ヴァリアンに掴まれていた喉元には傷ひとつなく、怖いという感情も生まれなかったこと。
その様子をディナは一人、静かに見据えていた。
第33話
小さな秘密基地のような部屋で紅茶を嗜む様子は、もう見慣れたものとなった。
この日はいつもとは違い、大柄の男性が一人、煤けた鎧を纏ったまま、カップを手にする姿がある。
「…悪かったな、色々…振り回して。」
「ああ…。色々と勘違いしてすみませんでしたぐらいは言ってほしいものだな。」
ヴァリアンの視線に気付き、リオは喉元をさすった。
そこに何の痕も見当たらないのが、神の加護というものなのだろうか。
「勘違い、といえば。
アーセル様、なぜヴァリアン様を天界へ呼び戻さなかったのですか。
よもや忘れていたなどということはないでしょう。」
三人が同時に、アーセルへと視線を注いだ。
以前にも見た光景に、何が楽しいのかアーセルは満面の笑みを見せた。
「あー…、僕右利きだから左腕ってそんなに使わないんだよね〜。あとは忘れてた!」
アーセルの無邪気さは、今に始まったものではない。
しかし時としてそれは棍棒として振るえるのだと、この1年でリオは学んでいた。
今の言葉が、ヴァリアンの脳天へ振り下ろされたことも、容易に想像がつく。
「…わす、れ…?
俺…アーセルにとって、その程度の…。」
「わー!ごめんね!ヴァリアン大好きだよ!!」
今にも泣き出しそうなヴァリアンに、さすがのアーセルも失言だったと気付いたのだろう。もしくは、自身の一部であるヴァリアンの泣き顔は見たくなかったのか。
「僕だっておじさんの泣き顔はギルドラ男爵で十分なんだが…。」
リオの言葉に、ヴァリアンの耳がぴくりと動く。
「ああ!?誰がおじさんじゃ!
こちとら若き期待の聖セルフィア騎士団副団長様だ!!まだピチピチの三十路じゃァ!!」
「僕からすれば倍の年齢はおじさんだ。
…そもそも、お前200歳超えてるんじゃないのか…?」
「200歳な訳あるか!!30歳だ!!」
二人のやりとりをニコニコと眺めていたアーセルだったが、ふと疑問をぶつけた。
「ヴァリアン、君騎士団員なの?」
「お?ああ!聖セルフィア騎士団!
格好良い名前だろ?アーセルの名前とも似てるし、響きが荘厳で、優しくて、まるでアーセルみたいな…。」
「騎士団の副団長がこんなところで油売ってていいの?」
その途端、ヴァリアンの顔がみるみる青ざめていく。
時刻は正午。とうに活動開始時間は過ぎている。
アーセルのことしか頭にない彼だったが、騎士団員としての誇りは持ち合わせているようだ。
「俺、もう行かないと…!遅刻…!
茶、ごちそうさま!
アーセル、困ったことがあればあんたの左腕、騎士団副団長の俺を!頼ってくれよ!!じゃあな!」
ガチャガチャと大きな音が、だんだんと遠のいていく。
ああ、やっと終わったのだと、リオとディナは小さく息をついた。
そうして翌日、学園にて。
昼休みには、セラフの研究室で集まることも、また一つの習慣となっていた。
「いやぁ〜、黒騎士ってヴァリアンくんのことだったんですねぇ!何はともあれ解決ですねぇ!」
相変わらず朗らかな笑い声は、物が散乱した部屋ではむしろ異質に聞こえるものだ。
「…解決したと、お思いですか?」
ディナの声は和やかな空気さえ断ち切り、カップに注がれた水面をも震わせた。
その場にいる誰もが、理解していた。
あのヴァリアンが、市民を脅すような真似を、なぜ今になって行ったのか。
「まさか。
あなた方に協力していただいた間に、ちゃぁんと調べておきましたよぉ。
…我が同胞が、闇に潜んでいるんですから。」
この国の神という存在は、なぜこうも平和には生きられないのだろうか。
リオ自身、己の存在への疑問が、いくつも膨れて今にも溢れそうになるのを、ひしひしと感じ取っていた。
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