第2章 バラの君

第14話


今からおよそ六年前。

突如として現れた、金色の目を持つ少年。

それは神の化身だと、人々は囁きあった。

この国では、黄金は神の色とされているからだ。

誰も彼もが、彼を手中に収めようと躍起になった。

その中で他家を出し抜き、トロフィーを掠め取ったのがギルドラ家だった。


すると今度は、貴族たちの間でとある噂が流れ出す。


神の化身との婚姻を成した者は、一族ともども安泰である、と。


その噂はひどく低俗で芳醇で、凄まじい速さをもって上流界を支配し、やがて奇妙な現象をも生み出した。

若き妻を迎え、子作りに励む老齢の領主。

過去に放棄した我が子を、再び迎え入れた当主。

孤児院に通い、子を探す貴族さえいた。


神の目にふさわしい、伴侶を。

そのためならば、どんな歪な手段も許される。

そんな空気が、この国の上流階級を毒していった。


リオの通う学園でも、毒を吸って生まれた令嬢は少なくない。

神の目を射止めるべく、彼女たちは行動した。

選ばれなければ、意味がない。

リオの周囲に群がる者、遠巻きに眺める者。あらゆる方法で皆が神の目に手を伸ばした。

そのどれもが、リオの圧倒的な眼光に臆するのに、時間はかからなかったが。


ただ一人、ロゼリア=シュシュエールだけは、その熱意を手放せずにいた。



「ふざっけんじゃないわよあのクソガキ!!」


部屋に入るなり、ロゼリアはベッドに佇むクマのぬいぐるみを掴み、上擦った声で言い捨てた。


「何度も!何度も!気を引こうとしてるのに!なんで気付いたらいないのよ!?お茶会は断る!落とし物を拾ってもニコリともしない!この私を…っ!私はシュシュエール家の娘なのよ!?なんで…!

その上!シュシュエールの名が!呼びづらいですって!?顔が良いからって!馬鹿にするにも程がある!」


ロゼリアが言葉を吐く。そのたび、ぬいぐるみは床に叩きつけられ、呼応するように綿を吐き、ただひたすらに時を待った。

彼女の怒りは収まらなかったが、やがて一雫の涙が、破れた布の上にぽたりと溢れた。


「やめたいの、本当はもう…。でも、でもね、…あんなに儚くて、美しいお顔…わたくし、他に知らないの。」


声は震え、その手には力がこもっていく。

ぬいぐるみは、取れかけた目で彼女を見つめた。


「ごめんなさい、シュシュエール男爵の娘ともあろう者が、こんなはしたない…。あとでちゃんと、綺麗にしてあげるから…。」


姿勢を正し、まっすぐに前を見据えるロゼリア。

その姿を知っているのは、何も答えぬぬいぐるみ、ただ一人だった。



リオにとって、彼に向けられる目は等しく遮断すべき対象だった。

そこに込められた意味が何であれ、何ら違いはない。

憧憬も、畏怖も、嫉妬も同情も、すべて【神の目】に向けられた、リオ自身には届かない声。


ただ、あの日の、あの純粋な言葉だけが、今もリオの中で熱を持ち続ける唯一の声となっていた。



第15話


ロゼリアは前を向き、見慣れた後ろ姿を追った。

何度も何度も、彼女の心を折った人の、後ろ姿を。


「…リオ=ギルドラ様…!」


「…何か御用でしょうか。」


ぎくりと、ロゼリアはたじろいだ。

記憶の中のリオの声は、こんな声色だっただろうか。


「あ…あの、大変な目に遭われたと聞きました。心よりお見舞い申し上げ…。」


「あなたには関係ありません。」


名を呼ばれ歩みを止めこそすれ、しかし一度も振り返ることはせず、リオはロゼリアの言葉を遮った。

それでも、ロゼリアは言葉を探した。


「その、でしたら…あの、わたくし、お茶会を…!」


「結構です。では。」


もう、彼は振り向いてはくれない。顔を見て言葉を交わすことも、もうできない。ロゼリアはかつてない程絶望した。

家名を貶されても、茶会を断られても、糸は辛うじて繋がっていたのに。

ロゼリアは唇を噛み、それでも毅然と前を見据えた。


「ねえねえ、その顔ってどういう感情なの?悲しいの?怒ってるの?」


不意に現れた天使のような少年に顔を覗き込まれたロゼリアは、思わず一歩、二歩と後ずさる。

悲鳴を上げなかったことを褒めなければならない。


「ど、どうされたのですか…?」


「んー、君なら願ってくれるかもと思って。

今度お茶会を開いてみようと思っててね。

君にも参加してもらいたいんだ!ね?良いでしょ?」


有無を言わさぬその笑顔に、気付けば招待状を受け取っていた。アーセルの目に、ロゼリアは映らない。

リオと同様、美しいと思うのに、リオとは違って、どこか、恐ろしかった。




「上等な紙…。わたくしが用意した招待状では到底及ばない…。」


アーセルから渡された、クリーム色のシンプルな招待状。たったそれだけで、自分とは違う世界が容赦なく、目の前に広がっていく。リオの隣に立つ資格はないと、痛いほどに思い知らされる。


今のままでは、選ばれない。

選ばれなくては意味がない。

価値が、ない。


「それは、…嫌。わたくしは、シュシュエール男爵の娘…。」


ロゼリアはぬいぐるみにそっと手を伸ばした。

以前よりもツギハギだらけで、それでもまだ、ロゼリアを見つめ続ける目は残っている。


「わたくしは、シュシュエール家の娘です。あの方の隣に立ちたい、立たなければなりません。…お母様のためにも。大丈夫です、わたくしは逃げません。どんな手を使っても、進むしか、ないのですから。」


ロゼリアはまだ、前を向いている。

それが、たとえ寄せ集めの虚勢であっても、彼女はその仮面を手放すことはなかった。



ああ、それでもやはり。

背筋が凍るほどの恐怖心は拭いきれないようで。


「あの笑顔は、できればもう、見ないで済むといいのだけれど…。」


枕元に置かれた招待状が、ひどく冷たく、こちらを嗤っているような気がした。



第16話


「ようこそ〜!僕のお茶会へ!ほらこっちこっち!」


アーセルは無邪気に笑い、迷いなくロゼリアの手を取った。途端に顔が強張るロゼリアに、アーセルが気付くことはない。


「アーセル様。むやみに女性に触れるものではありません。」


そばに立つディナの声が、歪な空気を静かに断つ。

すぐさまアーセルの手が離れ、ロゼリアは内心安堵した。わずかに震える指先を、誰にも見られないようにそっと握る。温度のない感触が、まだそこに残っていた。



「お馴染みの方もそうでない方も、お集まりいただきありがとうございます!

新しい紅茶の茶葉が手に入ったからみんなと飲みたいなと思って!あのね、ディナが凄いんだよ!

みんな違うブレンドで…。」


「アーセル様」


ディナの静止に、ほんの一瞬、その場から音が消え去った。が、次の瞬間には、アーセルは満面の笑みを取り戻していた。


「…それでは、皆様ごゆるりとお楽しみください!」



アーセルのこの催しを、【変人王子による本気の道楽会】と表したのは誰だっただろうか。

始まりは小さなお茶会だったが、人伝に噂が広まると、今では顔馴染みすら現れるほどの評判を誇っている。


「それでさ、僕ずっと気になってたんだけど。」


至極当然に、ロゼリアの向かいに腰掛けながら、アーセルは唐突に切り出した。

ロゼリアは驚き、同時に横目で必死にディナを探した。残念ながら、彼は他のゲストへ紅茶を淹れている最中だ。


「リオのどこが好きなの?」


あまりにも澱みのない、純粋な質問だった。

アーセルに他意はない。だからこそ、ロゼリアは【正解】を探した。


「…お顔が、綺麗だと思いました。

わたくしが強引に…関わりを持とうとしたとき、冷たいのに…、どこか、寂しそうで…。」


「ふーん。」


まるで興味がないとでも言いたげな返事だ。

ただその漆黒の目だけは、ロゼリアから瞬きほども逸らすことはない。


「【神の目】だからじゃないんだ?」


息が、止まった。動悸がする。冷や汗が止まらない。

目の前の少年は、何を、どこまで知って、そんなことを聞くのだろう。

ガタガタと目でわかるほどに震えるロゼリアの手元に、そっと淡いピンク色の紅茶が差し出された。


ゆらめく湯気から立ち込める甘い香りが、ロゼリアの呼吸を宥めていく。


「ぜひ、飲んでみて。このお茶会ではね、紅茶が凄く人気でさ。それは君の名前にちなんで、ディナにブレンドしてもらったんだよ。バラの花びらを乾燥させて…楽しかったよね?ディナ。」


「ええ。」


無邪気に笑うアーセルの問いに、背後から静かな声が答えた。

紅茶を差し出した手がディナだったと、今更になって気が付いた。他に誰も、いないというのに。

ロゼリアは己を恥じたが、その思いを誤魔化すように、ティーカップを口元へと運んだ。


「美味しい…。香りも、優しくて…包まれるような心地です。」


「ああ、やっと笑ったね。

バラって愛の意味があるんでしょう?君はバラの名を持つ令嬢だよ。相手を刺すぐらいの愛情を向けたって、誰も咎めはしないよ。」


アーセルは、微笑んだ。

今までのような笑顔ではなく、慈悲深い、ロゼリアを包み込むような。


「僕は、君を応援してるよ。」


ロゼリアは、その目の奥に潜む虚から、逃げようとはしなかった。



第17話


あの日を境に、ロゼリアの目に野心が灯った。

リオのこと、ギルドラ家のこと。

彼女が手を伸ばせる限りの情報を洗い出し、あらゆる知人・旧友へと手紙を綴った。

しかし現実は甘くはないことを、彼女は思い知るだけだった。


「やはり何も…見つからないのですね…。」


ロゼリアは手紙の束を握り締め愕然とした。

リオという人が世間に認知されてから今現在に至るまでの、彼の軌跡。

それらがあまりにも少なすぎる。


リオが孤児だったこと。

ギルドラ男爵の後継としての紹介式で失態を犯したこと。

その後、学園へ入学したこと。

ほんの数週間前に、ギルドラ家が、没落したこと。

それでも学園に所属し続けている事実から、リオがギルドラとは別の爵位ないしは家名を賜っただろうということ。


この国で貴族として生きていれば、誰もが耳にするような、ほんの上澄みばかりだった。


「…アーセル様に、相談しなくては。」


もはやロゼリアが頼れるのは、アーセルだけとなっていた。



「うーん、リオの新情報?僕もリオにはあんまり構ってもらえないからな〜。」


紅茶を啜りながら、のんびりと答えるアーセル。

それは予想していた通りの反応でも、今のロゼリアにはもどかしくて仕方がない。


「そうだな〜…、ディナ、何か知ってる?」


「…個人情報を容易に広めるような真似は、あまり感心しませんね。」


その言葉に、ロゼリアはぎくりとたじろいだ。

わかっている。どれほど自分勝手な理由で、他人の領域に足を踏み入れようとしているか。それでも。


「…わかっています。わたくしが、いかに自分本位か。

そんなことは承知しています。

だけれど、わたくしにはもう…っ」


何を口走ろうとしたのだろう。

己の保身のために出かかった言葉を抑え込むように、ロゼリアは咄嗟に口元を覆った。


そんなロゼリアの姿を、表情ひとつ変えずにアーセルは眺めていた。


「うんうん、そうだよね。君はリオのために必死なんだもんね。

…ディナ、これは人助けだよ?」


ディナの瞳が、ほんの僅かに揺れた気がする。

不本意だと言いたげに目を伏せたのち、それでも彼は口を開いた。


「…リオ様の住まいは存じ上げませんが、当面は王宮が保護する、との噂を耳にしております。」



その夜、ロゼリアは一人、宙に話しかけていた。


「王宮が…保護…?そうであれば生活面に問題はない…。だけれど、ディナ様でさえ知らないお住まい…誰も…?

それなら、彼はまた、ずっと一人なの…?

私は…何を…。」


突然、ロゼリアの頬に熱が戻った。

自分にしかできない。自分だけが理解者になれる。


「わたくしが、守らなくては…!」


彼女はそう信じて、疑うことはなかった。



第18話


リオがギルドラ家を捨て、エスペールの名を冠したあの日以降。

家主の意思などまるでないかのように、アーセルとディナは連日リオの新居へと入り浸り、今日も今日とて紅茶を嗜んでいた。


「よくもまあ飽きないものだな。」


帰宅と同時に紅茶の柔らかな香りに包まれる感覚には、もう慣れてしまった。

知らぬ間に部屋に上がり込んでくつろぐ姿も、二人からの迎えの挨拶も。


リオは顔も上げず、視線だけをアーセルへ投げた。

部屋に似つかわしくない、水色のクッションにもたれかかるアーセル。

その右手にはティーカップが七色に輝いている。


「今度は真珠層か…。

どれだけ茶器を持ち込めば気が済むんだ。」


「綺麗でしょ?僕のお気に入り!」


「以前のように悪趣味な家ならいざ知らず、

こちらの部屋であれば、この程度の華やかさは調和が取れているかと。」


リオにも紅茶を差し出しながら、ディナが、まさか僅かに口角を上げた。


「…過保護め」


そんな小言は、湯気とともに宙へ舞ったかのように、

どこにも留まらず静かに消えた。


「うーん、ディナの紅茶も好きだけどルドルフが淹れてくれる紅茶も飲みたいな〜。

リオ、なんで辞めさせちゃったの?」


「…行きたいところが、できたそうだ。」


ルドルフの淹れた紅茶の味は、どんなだっただろう。

あの家で、唯一、悴んだ手が温まった。

そんな味だった気がする。


リオの思いとは裏腹に、アーセルの質問は止まることを知らない。


「ふーん。

リオはそういうの、ないの?

行きたい場所とかやりたいこととか。」


「ない。」


「じゃあ、恋人が欲しいとかも?」


「は?」


突拍子もないとはまさにこのことだ。

アーセルの調子に合わせると、必ずどこかで会話の糸が綻んでいく。


「最近、あの子とよく一緒にいるとこ見かけるからさ?

何かあるのかなと思って。」


あの子がロゼリアを指すことは、すぐにわかった。

なにせこの数週間、彼女は学園内で毎日のようにリオに話しかけ、茶会に誘い、泣きそうな顔で笑っていた。


「別に…何も。

…ああ、以前、名前が呼びづらいと言ったら怒られたな。」


不意にリオの視線が揺らぐも、アーセルはそれに気付かない。


「…よく男爵が務まりますね。」


無機質な声が、リオを窘めた。

まっすぐにリオを見つめるディナの目は、アーセルを諌める目とはまた違う色があった。


「僕は望んでない。」


「望む望まないの話ではありません。

貴族としての品性の話です。」


「品性と呼べるほどの本質を整えてから出直していただきたいものだな。」


二人のやりとりを眺めていたアーセルは、やがて朗らかに笑いながら呑気な声を上げた。


「二人は仲良しだね〜。」


はたと、空気が止まる。

つぐんだ口先が、次はアーセルへと的を変えた。


「…リオ様、この辺りに視力回復が見込める修道院はございますか。」


「それより脳を見てもらった方が良い。」


「ならディナも診てもらわなきゃ。平気で嘘つくもんね!」


一人の少女の奔走など、知る由もない。

あまりに間の抜けた空気が、その場を包み込んだ。



第19話


一年が巡り、進級の季節となった。学園の教師陣にもちらほらと新しい顔が増えている。

真新しい制服に身を包んだ新入生たちも、期待に胸を膨らませていた。


【神の目】がいるという、歪な期待に。


あの日の毒は、未だ令嬢たちを蝕んでいる。


学園内ではところ構わず、リオを見つけるや否や周辺に人だかりができた。

神の目であるリオ、容姿端麗なリオ。

彼女たちの心に火をつけるには十分すぎる理由だろう。


「わたくしこそ、リオ様の婚約者に相応しいです!」


そんな騒音が、連日リオの鼓膜を叩いていた。

今年の新入生は、どうにも肝が据わりすぎているようだ。



「…また…、あの方を見ておられるのですね。

無礼を承知で申し上げますが、あなたのような方が…。あなたが、そこまで憂う理由が、僕には…理解、できません。」


視線の先には、いつもリオがいた。

今はもう、群衆の頭越しにしか、見つめることもできないけれど。

周囲からなんと言われようとも、ロゼリアの目に映るのはリオの姿ばかりで。


「…理解していただく必要はございません。

わたくしは、幸せですよ。」


男子生徒の顔が、歪んでいく。

ロゼリアの葛藤も、己の葛藤も、痛いほどに理解してしまった。

それ以上は、何も言えなかった。


ふと一瞬だけ、リオと目が合った気がした。

すぐに背を向けてしまったから、思い過ごしかもしれない。それでも、ロゼリアはほんの少しだけ、微笑んだ。



その日の昼食時、談話室にて。

一番ふかふかなソファを陣取りながら、アーセルは天井を見上げていた。


「君さ、リオのためにーとか、リオを守れるのは私だけーとか豪語してなかった?

それが何?リオは君のことなんとも思ってないって言ってたよ。何も変わらないじゃん。」


「…申し訳、ございません…。

その、なに分、ご本人との接触以外に、方法が見つからず…。」


震えながらも言い訳をするロゼリアを、アーセルは壊れたおもちゃを投げるように、もう興味がないと言いたげに、大きく息を吐いた。


「接触回数多ければ好感度増すって嘘じゃん…。

いいや、もう。君じゃリオは願わない。

あとは勝手に頑張って。」


一人取り残された空間で、ロゼリアはただ立ち尽くすしかなかったが、やがて、ゆっくりと歩き出した。


その数刻後、

リオが帰宅するために学園の庭を進んでいた時。

目の前の茂みがガサガサと動いているのが目に止まった。

なんの気まぐれか、リオはその茂みに近づくと、見覚えのある令嬢がいる。


リオの気配に気付き振り返ったその人は、目に涙を溜め、必死に何かを探しているロゼリアだった。



第20話


ロゼリアは慌てて涙を拭い、いつものロゼリアであろうとした。

だがリオは、その笑顔を一瞥もせず、ただまっすぐに彼女の隣へと歩み寄った。


「何か、探し物ですか。」


相変わらず、口調は素っ気ないけれど。

ロゼリアの姿は、今はっきりとリオの目に映っている。その事実が、何もよりも彼女の影を晴らしていった。


「その、いつもつけている髪留めを、落としてしまって…。」


するとリオは、服が汚れるのも構わず地面に膝をつき、辺りを探し始めた。


「お、おやめください!お召し物が汚れて…っ!

わたくし一人で大丈夫ですから…!」


「二人で探す方が早いでしょう。

もう夕方です、日が暮れる前に見つけましょう。」


黙々と茂みを探るリオの姿を、ロゼリアは倣うしかできなかった。

なぜ、どうして。

リオはいつだって周囲に無関心で、何も見ようとはしなかったのに。

ああ、でもきっと気まぐれだ。

それでも自然と、ロゼリアの心に一雫の温もりが波紋を描いていった。


「…リオ=ギルドラ様、こちらの草の陰も…。」


「今は、エスペールです。」


おそらく公的な場面以外で、リオは初めてその名を口にした。

リオには家名への執着などわからない。

それでも、片隅でずっと燻っていた。


「…以前、シュシュエールの名が呼びづらいと言ってあなたを怒らせてしまった。

何も考えずに…その、…ごめんなさい。」


すぐに地面へ視線を落とし、何もなかったように草むらを分けていったが。

リオは確かに、ロゼリアの目を見てそう言った。


ロゼリアは目を見開き、髪飾りのことを脳裏から手放しそうになる。

もう、何ヶ月の前の話だった。

終わったことだと思っていたのに。

今更だ。それでも。


「わ、わたくし、あの時は家名を侮辱されたものと思い込んでつい、あんな態度をとってしまったけれど…。

あなたに悪気がなかったことは、今ならわかっています…!

それに、もし…もしも、まだシュシュエールの名で舌を噛みそうなら…どうか、ロゼリアとお呼びください。」


「…検討します。」


そうして二人は、再び髪留めを探し出した。

数分後。


「あった。」


リオは髪留めについた土をハンカチでそっと払いのけ、ロゼリアへと手渡した。

それは小さいけれど可愛らしい、バラの形の髪留めだった。


「あ…!ありがとうございます…!

これ、母からいただいた大事なもので…!

本当に、本当にありがとうございます!」


ばあっと咲いた笑顔は、今まで見せてきたそれとは全くの別物で。

リオは、その笑顔を確かに知っていた。



第21話


あれから数日、ロゼリアは周囲から「以前のロゼリア、それ以上に気品に満ちている」と囁かれた。

優雅な立ち振る舞い、洗練された言葉遣い。

彼女のミルクティー色の髪が揺れるたび以前に増して艶めき、あの時の彼然り、一部の男子生徒たちが嘆くほどだった。


リオの周りには相変わらず令嬢たちが群がっていたが、ロゼリアはそれにすら微笑みを向けることができた。


「あら?その髪留め、見つかったのですね…!

あなたの落ち込みようと言ったら…とても心配でしたの。」


「ご心配、ありがとうございます。

…この子が導いてくださったのかもしれません…なんて。」


「まあ、何かいいことが?

近頃のご様子、とってもお綺麗でいらっしゃるものね…!」


「ふふ、…何かがあったとしたら…また今度、こっそりお話ししますね。」


ロゼリアもまだ14歳の少女だ。

友人たちとの会話に花を咲かせ、笑い合うこともある。ようやく彼女の手のひらに、そんな日常が舞い戻りつつあった。



「ロゼリア」


ふと、誰かの呼ぶ声が聞こえた。

振り返るとロゼリアは、驚きのあまり口元を手で覆ってしまった。


「っ、り、リオ、リオ=エスペール様…!?

どうなさったのですか…!?」


まさか、あの群衆をかき分けて、リオがロゼリアの方へと近づいてくる。

周囲はひそひそと、二人に視線を注ぎ、囁き合った。


「エスペール?リオ様の新しい家名…?」

「ええ?公にはされていないはずでしょう?」

「それにあのご令嬢の名前…!わたくしが先に呼ばれるはずだったのに…!」


そんな野次には耳を貸さず、リオは中庭を軽くしゃくり、少し歩こうとロゼリアを誘い出した。



中庭を二人の歩く姿は、まるで絵画のようだったと、のちに生徒たちは語った。


しばらくすると、リオは振り返りロゼリアへと向き合った。そして口を開くも、彼にしては妙に歯切れが悪い。


「その、あー、…聞き齧ったことで恐縮なのですが…。」


「はい、なんでしょう?」


ロゼリアの目は希望に満ちている。

これからどんな言葉が降ってこようと、ロゼリアには受け止める覚悟があった。


「…ロゼリア、あなたが昔孤児院にいたというのは、本当でしょうか?」


その瞬間、ロゼリアの顔から笑みが消えた。

彼女は素早く視線を落とし、その表情を見られまいとしながらも、背筋を伸ばし気丈に振る舞った。


「…申し訳ございません。

体調が優れないので、医務室へ参ります。ごきげんよう。」


ロゼリアは踵を返し、足早にもと来た道を戻っていった。

リオは付き添おうと言いかけたが、ロゼリアの後ろ姿はもう、手を伸ばしても届かないほどに小さくなっていた。



第22話


ロゼリアは部屋に戻ると、そのまま床へと座り込んだ。

リオの言葉が、頭の中を何度もこだまする。


「どうして…わたくしが、孤児院なんかに…。

わたくしはシュシュエール家の娘なのよ、

なにのどうしてそんなところ…!

なんで、あんなところに…!!」


彼女は弾かれたように立ち上がると、ベッドに佇むクマのぬいぐるみを乱暴に掴み、声を荒げた。


「わたくしは愛されて育った!そうでしょう!?

孤児院なんて知らない…っ、わたくしはシュシュエール男爵の娘なの!だってそうじゃなきゃ…、お父様は、あなたをプレゼントしてくれた…愛して、いるから…っ!

わたくしは、ずっと…、ロゼリア=シュシュエールなの…。」


不意に、「聞き齧った」という言葉を思い出す。

誰かが、知っている。

ロゼリアの過去も、執着も、知っている者がいる。

それを、リオに伝えた、誰かが。


「そんなの…あの人しかいない…。

だってリオ様のそばには、ずっと…。」


そして同時に、思い出した。


「…わたくし、あのきれいな目を、知ってる…。」


あの日、ただ純粋に綺麗だと感じた目を。

彼女は己を悔いた。忘れてしまった時間は、あまりにも無慈悲に過ぎ去ってしまった。

もう、戻らないと、悟ってしまった。



次の日、ロゼリアはアーセルを探した。

放課後になってやっと見つけたアーセルは、いつもと同じ、無邪気な笑顔でロゼリアを迎え入れた。


「今日ずーっと僕のこと探してたでしょ?

何の用?僕もう君に構ってあげられる時間ないんだよね〜。」


「…っ、お聞きしたいことがあります。

リオ様にわたくしのこと…何か、お話しされましたか。」


ロゼリアの緊張すら、アーセルは意に介さない。

あくびを噛み殺すような顔をして、ほんの少し首を捻っただけだった。


「うーん、だって、好きな人にはありのままの自分を受け入れてほしいものなんでしょう?

だから僕は、わざわざ、リオに教えてあげたんだよ。

君が、元はシュシュエール男爵に捨てられた、庶子だってこと。」


また、この感覚だ。

息ができない。冷や汗が止まらない。

この人は、何を、どこまで知ってるんだろう。


「可哀想だよね〜!

何年前だっけ?あの時たくさんの貴族が手を変え品を変え…そのうちの一人だったってだけで、叶いもしない願いを追いかけ続けてただなんて!」


からからと笑うその声が、ロゼリアの築いてきた今を、容赦なく崩していく。

アーセルの大袈裟な身振り手振りがぴたりと止み、ゆっくりとロゼリアの顔を覗き込んだ。


「ねえ、僕言ったよね?

…君はバラなんだから、相手を刺すぐらいの愛情を向けても良いって。ね、ロゼリア?」


アーセルの目の奥に潜む虚。

ロゼリアは今度こそ、逃げる場もなくその虚に飲まれていった。



第23話


月明かりの下、ポツンと佇む、華奢な影がひとつ。

その影の目線の先には、まるでおとぎ話に出てくるような、小さくて目立たないけれど、主人を温かく迎えてくれそうな、そんな家があった。


「…ごめんなさい…。

でも、あなたが、…私を、選ばないから…。」


誰からの愛情も失ってしまった。

生きる価値すらも無くしてしまった。

その手にあるのは鋭いナイフ、たったそれだけ。


ああ、神様。

生まれてきたことが、間違いだったのでしょうか。

女に生まれたことがいけなかったのでしょうか。

リオに恋してしまったことが、罪だったのですか。

この時代でなければ。

この国でなければ。

いくつもの後悔と自責の念が、ロゼリアを押し潰していく。


「ごめんなさい…、さようなら。」


ドアノブに手をかけたその時、大きな手がロゼリアの手に重なった。

そんなはずはない。彼は家の中にいる。

振り返るとそこにいたのは、冷たい視線を放つディナだった。


「…っ、どうして、ここに…。

離してください…っ!」


ディナはロゼリアの両手首を掴み、リオの家から遠ざかろうとした。

ロゼリアは抵抗した。

その手に握ったナイフだけは、離すまいと必死だった。


「離して…!だめなの、私じゃなきゃ…!

邪魔しないで!こうでもしないと、わたくし、私が、お父様に捨てられちゃう…!!」


暴れた拍子に、ナイフがディナの頬に小さな傷をつけた。見えなくとも、何かを切っただろうことは手の感触からロゼリアにも伝わった。

彼女は動きを止め、収まらぬ震えに耐えながらディナを振り返る。


「あ…あ…、ご、ごめんなさい…!

そんなつもりじゃ…!」


「…私は、あなたの苦しみなど存じ上げませんし、関心もございません。」


ディナは掴んでいた手を離し、頬に伝う血を拭いながらロゼリアに向き直った。その声は変わらず無機質で、何の情も込められてはいない。


「ですが、私の知るあなたは、リオ様を本当に大切に想われていました。それをあなた自身で否定する意味が、私には理解できません。」


ディナの声に温かみなどないのに。

それでもようやく、ロゼリアの目からは涙が溢れ、まるで子供のように声を上げて泣き出した。


しばらくディナは彼女のそばで泣き止むのを待ったが、その前にリオの家の扉が開いた。

あれだけ騒いで、女性の泣き声まで聞こえれば無理もない。


「…一体、何を…?…ロゼリア?」


名前を呼ばれ、ロゼリアはリオを見上げた。

バカみたいだ。

ただの名前なのに、呪いにも救いの声にも聞こえるだなんて。


ロゼリアはまっすぐにリオの目を見つめた。


「…私、リオ様の目、とてもきれいだと思っています。」


目の前の光景も、ロゼリアの発言も、理解するには時間が足りない。

それでもリオは、その金色の目にロゼリアの姿を映した。


「…僕は、自分の目には良い思い出がありません。

だけど、あの日…君がきれいだと言ってくれたから、きっとそうなんだと思って生きてきました。」


ロゼリアは一瞬目を見開き、それからすぐにはにかむように笑顔を咲かせた。


「…ずっと、お慕いしております。リオ=エスペール様。」




翌日、ロゼリアは護送のための馬車に揺られていた。

未遂といえど、神の目を殺害しようとした罪が消えることはない。

その腕には、バラの髪飾りをつけたクマのぬいぐるみが抱かれている。

足元に落ちた真っ白な羽根は誰にも気付かれることなく、小さな窓から空へと消えていった。




「リオ、何だか大変だったみたいだね?大丈夫?」


心配とは程遠い、相変わらず呑気な声がリオの部屋に響く。

リオはこくりと頷くも、窓の外をぼんやりと眺めていた。


「…リオ様。」


ディナの声はいつも以上に澄み切っていて、リオは思わず振り向いた。


「差し出がましいこととは存じております。

ですが、…突き放すだけが、優しさではありませんよ。」


結局、わからなかった。

昨夜何があったのかも、ディナの言っていることも、そしてロゼリアの告白も。

きっといずれ、その日の出来事など忘れてしまう。

だけれど、言葉の重みが、胸の燻りが、消え去ってくれる日は来ないだろうと、リオはそう予感していた。

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