【リメイク用】神様の茶会
えのぐ
第1章 神の目
第1話
雪が溶け、暖かな陽が顔を見せ始めた頃、
少年は公園の日向をぐるぐると追いかけていた。
母の手の温もりも知らない、小さな子ども。
その目は公園の出入り口を気にしながら、
時折、もう数週間もすれば花でいっぱいになるであろう花壇を物色していた。
「…あ、来た。」
マフラーに顔を埋め、温かそうな帽子を被ったまだ小さな女の子を先頭に、色とりどりの衣服に身を包んだ子どもたちが、彼女たちなりの精一杯の速さで、少年の元へ駆け寄った。
「…今日は何する?」
「これ!絵本!読んで!」
「…ああ、これか。」
ほんの少し、少年は顔を顰めた。
遊んだ方があったかいんだけどな、と呟くも、その声は子どもたちには届かない。
「わかった、それじゃ、いつものコレね。」
チャリン…と小気味良い音が、リオの目の前の小さな空き缶で小さく響く。
やがて音が途切れた頃、リオはページを捲り出す。
「むかしむかし、神様が世界を作った頃のお話です。神様はたくさんの宝物を持っていました。とても大事にして、宝物たちとずっと一緒でした。だけどある日、宝物は神様の手を溢れて、世界中に散らばってしまいました。」
「なんで、こぼれちゃったの?」
「…神様、泣いちゃったんだよ。」
子どもたちが息を呑む。
「抱えきれなかったんだ。…だから、神様は今でも探しています。世界の果てまで、山を越えて海を越えて、ひとりぼっちで探しています。散らばった宝物をまた両腕に抱えるために。」
「見つかったのかな…?」
ぎゅっと手を握りしめて、ある女の子は尋ねた。
リオはそっと目を伏せ、首を横に振る。
「まだ、だと思う、…だって、」
彼はゆっくりと目を開けた。長い髪の奥、その瞳に暖かい陽が差し込む。
「だって、もし見つかったなら、きっとこの世界は…もう少し、優しいはずだから。」
子どもたちはリオの言葉に聞き入った。言葉の意味なんてわからないけれど、悲しい声色は届くものだ。
ふう、とリオがため息をつく。
それを合図に、1人の子がそっと呟いた。
「じゃあさ、リオも宝物なのかな?」
「どうかな…、そうなら、いいな。」
リオは少しだけ笑った。
けれどもその笑みは、どこか遠くに向けられているようでもあった。
「…神様は、きっと幸せだよ。」
まだ、春は先だ。
神様は、今日も宝物を探してる。
自分の手で、世界中にばら撒いた宝物を…。
第2話
パンを焼くいい香りがする。
いつもはこの匂いで空腹を満たした。
冬は嫌いだ。お金がなけりゃ食べるものが何もない。
おまけに寝床もないときた。
冷めたパンを頬張りながら、リオは雲を数えていた。
ふと、視線に気づく。
自分を見つめる、小さな女の子。
何度か見かけた顔だった。
「…なに?あげないけど。」
「い、いらないもん!」
ぷくっと頬を膨らませる女の子。怒らせただろうか。
その目はまっすぐ、リオを見つめた。
するとふわりと優しく風が吹き、リオの長い前髪から金色の目がちらりと覗いた。
「…きれいな目ね、あのね、おうちないの?」
「…ないよ。」
ぱあっと咲いた笑顔に、リオは困惑した。
家がない、という回答のどこに、笑顔になる要素があるのだろうか。少なくとも、リオは知らない。
「あのね、あのね…!きれいな目の子ね、一緒に来て!」
リオの返事を待たず、女の子は袖を掴み走った。
…なんで、手を振り払わなかったんだろう。
確かに僕は非力だけれども、それぐらいはできたはずなんだ。
でも、だって、…向けられた笑顔は、言い訳になるかな。
…着いた先は、孤児院だった。
こんなにも眉間に皺が寄ったのは、生まれて初めてかもしれない。
第3話
朝、神様に祈りを捧げる時間。
リオはこの時間が億劫だった。
億劫だったが、何も考えずに済む、唯一の時間であったこともまた確かだ。
カーテンを開ける。真っ白なシーツに、陽の光がキラキラと反射する。
…眩しい。
冷たい水で顔を洗って、ふかふかのタオルでゆっくり拭いて。着慣れない服に袖を通して、跳ねた髪をなんとか正そうと押さえつける。
ふう、とついたため息を合図に、軽快な音が3つ鳴る。
「…どうぞ。」
するりと部屋に入った男は、リオの身なりを全て整え、品定めするように全身くまなくチェックする。
…嫌だなあ、動きにくいの。
「朝食の準備ができております。ダイニングへどうぞ。」
「…はい。」
…ああ、嫌だ。
なんでこんなところにいるんだっけ。
趣味の悪い金ピカの壺や皿が並ぶ廊下も、
獣のように目の前の食事をかっくらうこの醜い男も、
僕の目だけを見つめる骸骨みたいなこの女も、
…嫌だな。
読み書きのできる子供は、珍しい時代だった。
それも孤児ともなれば、天地がひっくり返ってようやく1人現れるかどうかといったところか。
彼は十二分に持ち過ぎていた。
読み書きのできる才も、整った容姿も、処世術も。
そして何よりもその目は、あまりにも貴重で。
孤児院に来てたった数日で、どこからか噂を聞きつけたどこぞの貴族が、彼を引き取りたいと申し出た。
それが、今まさにリオの「嫌なとこ」である、ギルドラ男爵家であった。
「…おはよ、うございます。」
「リオ、髪が目にかかっています。
朝食を食べ終えたらすぐにルドルフのところへお行きなさい。」
「…わかりました。」
「はは、厳しくしすぎじゃないか?
この目があるだけで素晴らしいことなんだ!
少しのことぐらい目を瞑って差し上げろ!」
いかにも面白いジョークだと言わんばかりに、
でっぷりとした腹を揺らして男は笑った。
反対に痩せすぎな女は、フンと鼻を鳴らして
再びリオの目だけを、穴の開くほどに見つめ続ける。
…嫌だ、見んなよ。
飯、食えなくなるだろ。
食事もそこそこに、リオは足早に部屋へと戻る。
本当に、どうして。
僕は、なんにもいらなかったのに。
第4話
「…なんだこれは。」
「旦那様主催のパーティーのご支度でございます。」
「僕は出席するなんて一度たりとも言った覚えはない。
…あんな場所、二度とごめんだ。
義父様にもそう伝え…いででで!」
「ふむ…このところきちんと梳かさずにご就寝されていたようで。奥様から寝癖についても言及されておられるというのに…屋敷に来られたばかりの頃が懐かしいですな。」
櫛の通らない髪を無理やり梳かしつけられたリオの姿は、それはそれは見違えるほどに完璧な貴族の令息であった。
「…ルドルフ、お前日に日に僕に対する扱い雑になってるよな?」
モノクル越しのルドルフの目が、悪戯っぽくきらりと光る。
「滅相もございません。
ささ、坊ちゃま、こちらへ。最後はご自身の目で確認することが身だしなみの心得にございます。」
「…いい、お前が完璧じゃないわけがない。
もう出る。」
相変わらず、買う奴の気が知れない装飾の隙間を縫うように、廊下の先、ギルドラ夫妻が待つ門扉へと向かった。
「おお、馬子にも衣装というものだな!
今日はお前の正式な社交界デビューなんだ、わしの後継人として恥をかかさんでくれよ!」
「まさかあのハビヒツブルグ公爵ご夫妻まで足を運んでくださるなんて…光栄なことよねえ。」
2人のやけに粘ついた笑い声が、どこまでもこだまする…気がした。
「…はは、まさか、僕なんぞのために公爵様が来られるなんて、何のご冗談を…。」
リオの両の目を舐めるような、ニヤついた顔が剥がれない。…ああ、そういうことか。
今から行われるのは、紹介式という名の公開処刑だ。
揺れる馬車の中、リオはもう、ひたすらに耐えるしかないのだと悟った。
真新しい獅子の意匠が、その姿を見送った。
第5話
「まあ!あの子が…!」
「なんと美しい黄金の目…本当にあれが…」
「神からの祝福だわ…!」
誰から始まるでもない。
その場にいる皆が、リオの目を見て囁いた。
神の加護だと。神からの愛だと。
リオは必死に、ただ前を見続けた。
「やあ、ギルドラ男爵閣下殿…随分と大層な催しですな?…いや失敬、妻がどうしても噂の目を見たいと聞きませんもので…」
「これはこれは!ハビヒツブルグ公!
いやあ是非是非、坊の目、せっかくですから近くでご覧くださいましな!」
「…これはどうも、ご丁寧に。」
遥か遠くで、そんな会話が聞こえた。
…まるで貴族と商人だ。
「まあ、まあ、まあああ…!!
これが、神のご加護ですのね…!
あなた、もっとよく見せてちょうだい!」
「…はは、眩しくて、見えないかもしれませんよ。」
どっと笑いが湧き上がる。
なんてことだ、さすがは神の目だ、センスまで持ち合わせておられるとは…!
…ああ、もう。
キン…とマイクが鳴り響き、一斉に静まり返る場内。
ギルドラ男爵がその腹を揺らしながら、
相変わらず、ギラギラと不気味に輝く指を見せつけながら、ゆっくりと一歩踏み出した。
「えー…皆々様、本日は我がギルドラ家のパーティーにお越しいただき…」
挨拶が始まるも、皆、その目だけは、
リオの目を見つめている。
思わず、半歩後ずさる。
だがギルドラ夫人は、それを見逃しはしない。
「…私たちに恥をかかせるおつもりかしら。皆、あなたの目を見にいらしたの…決して逸らしてはなりませんよ。」
絡みつくような、ねっとりと、それでいて氷のような声が、リオの耳元を漂った。
…もう、嫌だ。
「…さあ、ご紹介いたします。リオ=ギルドラ、我が【神の目】でございます!」
呼吸が、浅くなる。
獲物を漁るような目。
品定めするような、値踏みするような、そんな目だ。
それでも、もうどこにも行き場はなかった。
助けを求める術は、持ち合わせていなかった。
「あああ、なんて美しい目でしょう…!」
「もっと、もっと近くで見せておくれ…!」
「素晴らしい…金色の、神の色の目だ、これは本物だ…!」
リオの喉奥は、もう限界だった。
第6話
あの目が。
あの光景が。
リオの喉奥を、焼き続けた。
酸っぱいのは好きじゃない。
流れる水音が、長い嗚咽をかき消した。
遠くに聞こえる笑い声、微かに鳴る楽器の音色さえも、今のリオを蝕むには十分すぎる種となった。
美しく整えられた髪が乱れることも厭わない。
ただ、すべてを吐き出すことだけに意識を注いだ。
「は…っ、うぅ、おえ…っ!
はあ…っ!
なんなんだよ、なにが…っ!何が神だよ…!
なにも、たったの一度も…!!」
顔を上げた先にあったのは、自身の目だった。
黄金に輝く目。散々に持て囃されてきた目。
尊厳を奪った目。お前自身に価値はないと、思い知らしめてきた目。
「あ、ああ、ぁ…あああああああああ!!!!」
鏡の割れる音。リオの絶叫。
それは誰にも届かない。
「見るな、見るな見るな見るな、見るなァ!!!!」
無数に散らばった神の目を、自らの目に突き刺した。
『きれいな目ね』
…はずだった。
ただ純粋に、きれいだと言ってくれたあの声が、花のように咲いたあの笑顔が、リオの心を保つ、唯一の記憶となって蘇る。
「ぁ…あ…なんで…いまさら、君のこと…」
手の怪我は、思ったよりも深かったようで。
ギルドラ夫妻からは手ひどく怒られ、
ルドルフからも冷たい視線を投げられた。
傷が癒えた頃、ギルドラ男爵はリオを呼びつけ、こう告げた。
「喜べ。貴様のような問題児でも行けるらしいぞ、貴族様の学園ってやつに。…1ヶ月後だ、わかったらとっとと失せろ!」
「…承知いたしました。」
黄金の蛇が見守る中、踵を返したリオの背中を、怨めしい声が鈍く打つ。
「…あの日の恥、忘れんぞ。」
睨めつけるような視線を、閉ざされた扉を隔ててなお、ジリジリと感じた。
…仕方のないことだろう。あの日、男爵家の家紋に泥を塗ったのは事実だ。
時が過ぎるのを待つその顔に、もはや感情と呼べるものは、ない。
第7話
「わー、あれが噂の…!」
「本当に金色だ…綺麗ですね…。」
「神の祝福なんて…羨ましい…!」
同じ光景を、以前にも見た。
どこに行くにも、やれ神の加護だ、やれ神の愛だと囁き出す。
これが小鳥の囀りであれば、どれほど耳心地の良かったことか。
もう、何人(なんぴと)もリオの目には映らない。
少なくとも、今の今までは。
「うわー!!!ごめんね!!まさかそんなところにいるとは思わなくて!!!」
金髪の小柄な少年が、廊下の先で叫んでいる。
見事な顔面スライディングだった。
鼻を真っ赤に染めながらもブンブンと手を振るその様は、恐怖を通り越してもはや神々しい。
…関わってはいけない人種だ。
「…アーセル様。その見事な転倒芸も結構ですが、いい加減落ち着きを持つ練習もなさってはいかがですか。」
背後からの無機質な声が届いた頃には、傾きかけたリオの体はあっさりと元に戻っていた。
…ああ、耳にしたかもしれない。
留学生の変人王子と、その従者。
リオにとって、それは未知との遭遇だった。
「……細いですね。」
さも当然のようにリオの衣服を整えながら、その少年はふと呟く。
「立って歩ければ十分かと。
その観察眼、【あちら】へ向けられては?」
わずかに顎をしゃくった先には、
床に這いつくばるアーセルの姿。
何かを探しているように見えるが、それは上流人とは、ましてや王族とは到底思えぬ姿である。
「……ごもっともでございます。
さておき、あなたが倒れようとも、私には関わりのない話でございますね。失礼いたしました。」
2人同時に、たった瞬きした瞬間だった。
「あ!!見つけた!!!」
ひょいと体を持ち上げ、アーセルはリオの元へと駆け寄った。
その右手には、先ほどの探し物を握りしめている。
「これ!お近づきの印にあげるね!」
弾む声に、思わず差し出したリオの手に落とされたそれは、まさかのーー
「…は?」
「うん!歯!折れたから!」
頭を抱える少年がニ人。
アーセルの笑い声と、【贈り物】の再び床に転がる音が、一層リオの決意を強くした。
…絶対に、こいつらとこれ以上関わるものか。
第8話
夕陽が差す頃、馬車の中。
言いようのない疲れに、リオはただゆっくりと身を沈め、深く息を漏らした。
心地いい静寂は、むしろ鮮明に記憶の門を叩くものだ。
「…本当に、なんだったんだ…。」
いまだ、リオの頭ではあの奇妙な光景が陣取っている。
耳の奥に残る喧騒は、拒絶するにはあまりに強烈で。
「なんでだよお…!仲良くしたいなら贈り物が良いって言ったのはディナじゃんか〜…!」
「歯は贈り物に含まれません。思いつきだけで行動する癖を慎むようにと何度言わせるおつもりですか。」
まるで不毛なやり取りが、放課のチャイムが鳴り響く廊下の隅で、まだなお、繰り広げられていた。
一歩たりとも動かぬディナ。
その足元で、アーセルは子犬のように震えている。
不意に、アーセルの目が、こちらを捉えた。
輝く金と、深淵の黒。
二つの視線が交差する。
ほんの少し。視界が揺らいだ、気がした。
するとディナも気付いたのか、外の景色に目をやった。
「…ああ、もうそんな時間ですか。ほら、行きますよアーセル様。」
言うが早いか、ディナはアーセルをむんずと掴み、小脇に抱えてそのままくるりと向き直す。
「それでは、ごきげんよう。…リオ様。」
「リオー!また明日ねー!!」
…見なかったことにしなければ。
そうして足早に帰路へ着き、よくやく一息、声を漏らした暇(いとま)となった。
同時刻、とある名家にて。
華美には飾らず、洗練された家具が揃うその部屋に、似つかわしくなく佇むクマのぬいぐるみと、1人の少女。
ひそひそと、内緒話が聞こえてくる。
「ええ、ええ、本日です。
本日昼下がり、やっと叶いました…。
あのお三方のお姿を拝することが叶ったんです…!」
ああ、この胸の高鳴りを止めてくれるなと言うように、手を組み少女は言葉を紡ぐ。
「ああ…、本当に目の保養、
あの方々こそ、神の最高傑作に違いありません…!
アーセル様の天真爛漫で天使のような可愛らしいお姿に、おとぎ話の王子様を彷彿とさせる佇まいでいらっしゃるディナ様…!そして、ああ、名前を呼ぶことすら恐れ多い、凛々しくも儚い、触れたら壊れてしまいそうな美しさを持つリオ様…!あのきれいな目に見つめられたなら…っ、わたくし、この学園を選んで本当に…!己の選択を、心から誇りに思いますわ…!」
何も応えぬぬいぐるみをよそに、
ただ一晩中、夢中で語り明かすのだった。
第9話
朝、いつもと同じ時間、リオは神への祈りを捧げる。
あの日からの習慣。中身のないハリボテ。
形ばかりが整っていく、そんな時間だった。
手を組み跪く少年の静寂を邪魔するように、ドタバタと大袈裟な足音が、一歩一歩と近づいてくる。
そうして部屋の前、ノックもなく、扉が内側に大きく跳ねた。分厚い扉が軋む音。装飾が転がる音を気にも留めず、脂と怒りに塗れた顔が喚き散らした。
「クソ!クソ!なぜだ、お前が何か…!…ああ?何をしている?」
男爵の称号を得てはや数年。
もはや神に祈ることのないその男は、眼前のリオの姿に唖然とした。
「…お義父様。こんな時間にどうかされましたか。」
「あ?…ああ、そうだ、そうだ!
紋章だ!!却下された!お前が庶民の真似事をしているからだ!貴族のお前が神に祈ったりするから紋章が却下されたんだ、お前のせいだ!!」
今にも拳を振り下ろさんばかりの男爵を、静かな声が制止した。
「旦那様。…こちらの紋章、私めに任せていただければ、幾らかの修正で承認されるかと。」
いつの間にやら、扉のそばにはルドルフが立っていた。
冷ややかに光るモノクルが、男爵の激昂を窘める。
「そ…そうか…。なら任せる。
明日にでも使えるようにしておけよ。」
先ほどまでと打って変わって、男爵の声に覇気はなく、どんよりとした空気を纏いそのまま部屋を後にした。
その後ろ姿を、ルドルフは一縷の隙もなく見送った。
「…金で押し通そうとしたか、あるいは王家の紋章との酷似か…。どちらにせよ審査に通れば末期だな。」
ルドルフは何も答えない。
転がった扉の装飾を拾い上げ、恭しく頭を垂れた。
「坊ちゃま。どうか、外の世界を。
あなた様がその目を、外の世界へ向けることを、私めは願っております。」
独り、リオは静寂の空間へ残された。
視線の先には今朝と変わらない、豪華な扉があるだけだった。
第10話
「もし、少しお時間よろしいでしょうか。」
昼休み、誰もいない教室で、本を読み耽っていた時だった。
ミルクティー色の髪をふわりと揺らし、ほのかに甘い香りを纏った少女が、リオにゆっくりと近づいた。
「かまいませんよ。」
「ああ、どうかお掛けになったままで。
お目にかかれて光栄です。わたくし、シュシュエール男爵家の娘、ロゼリア=シュシュエールと申します。お見知りおきいただけますと幸いでございます。」
「こちらこそ。
ギルドラ男爵家の長男、リオ=ギルドラです。
…何か御用でしょうか。」
あ…っと小さく声を漏らすも、誤魔化すようにロゼリアは一通の手紙を差し出した。
「わたくし、近々小規模のお茶会を予定しておりますの。
お名前を呼ぶことをお許しください、ぜひ、リオ=ギルドラ様にお越しいただければと思いまして。」
「…茶会、ですか。」
「はい!我がシュシュエール家自慢の料理長が腕を振るって茶菓子を用意いたしますし、お好きな茶葉があればすぐに取り寄せます。万一苦手なものがございましたら遠慮なくおっしゃってくださいね。ああ、お好きなお花はございますか?あるのでしたらメイドたちに手配させますわ。庭園の準備も進めておりますのでぜひ…!」
ロゼリアの顔が一瞬、引き攣ったのがわかった。
二人の視線が、噛み合わない。
澄み切った空気の中、僅かな沈黙だけがこだまする。
「ご厚意には感謝します。が、…遠慮させていただきます。失礼。」
リオはロゼリアを一人残し、教室を去った。
ロゼリアはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
放課のチャイムが鳴り、リオはギルドラ家の馬車へと向かった。
「わー!リオの馬車、前より豪華になってるね!」
「まるでドールハウスですね。
…どこから湧いてくるのやら。」
会いたくない声が、聞こえてくる。二人も。
しかし確かに、以前より目立つようになったこともまた事実だ。ルドルフの仕事が早いことを恨む。
リオは二人を一瞥し、軽く会釈を返すだけで、そそくさと馬車へと乗り込んだ。
「あーあ、行っちゃった。あの馬車、揺れなさそうだしそのうち乗せてもらおっと!」
屋敷に着くなり、リオは至る部屋を回った。
訳などない。けれども、今までにない違和感が、彼の目の奥を叩き続けた。
第11話
生まれた頃から、身寄りはなかった。
物心がついた頃にはひとりぼっちで、善悪すら教えてくれる大人はいなかった。
ただ、必死に生きてきた。
ーーだから、気付かなかった。
「…やっぱりそうだ…。
この家、これだけ広くて使用人は……。その上一人しかいないメイドが、こんなに頻繁に変わるものか…?」
窓の外には、美しく整えられた庭園があった。
リオの記憶では、一度も解放されたことのない庭園。
およそ成り上がりの男爵家には似つかわしくない装飾品の数々。
今の今まで見ることを拒んできた景色は、あまりにも不自然で。
「…何を今更…。
何も、いや、…でも…。…どこから、湧いて…。」
居ても立っても居られないとは、まさにこのことだろう。何がリオを駆り立てるのか、まだわからなかった。
ただ、知らなければならない。
違和感の正体が、わからないことが気持ち悪い。
自ら閉ざしたはずの扉を、己の手で崩していく音がした。
そうして、数週間の月日が経った。
リオは広いだけの部屋の真ん中で、ルドルフの淹れる紅茶を待った。
「たった数週間、まるで図ったようなタイミングだな。」
白のティーカップに、静かに香りが満ちていく。
鼻腔をくすぐるその香りは、思考の奥に染み渡るような。
リオの中に溜まった澱を、ゆっくりと洗い流していくような。不思議な、感覚だった。
「なんでこの家は、こんなにクソなんだろうな。」
リオの言葉を窘めながら、ルドルフは紅茶を差し出した。
モノクル越しのその目は、一つの感情も悟らせはしないけれど。
「…幸せではないのやも、しれませんな。」
リオの知らない声色であることは、二人とも気付いていただろう。
その日の紅茶は、屋敷中に散らばる見え透いた黄金よりもはるかに優雅で、輝いて見えた。
ギルドラ家では、常時施錠されている部屋がいくつもある。そのうちの一つの部屋で、蠢く黒い影が二つ。
「探し物はこちらでしょうか?」
あの日、一人嗚咽した少年は、
今、緩やかに前を見据えている。
今宵踊ることになるのは、誰だろうか。
第12話
「何を驚くことが?」
ギルドラ夫妻の顔は青ざめ、目を見開いた。
最も真実から遠ざけるべき少年が、二人の探し物をひらひらと指先で揺らしている。
少年はただ興味深げに書類を見つめ、大きく椅子を鳴らした。
「思ったよりも待ちくたびれました。
…ああ、あなた方の椅子は用意しておりませんのでどうかそのまま、私の話を…あくまで憶測ですが、お付き合いいただけますね?」
ゆっくりと書類を指でなぞりながら、リオの目はギルドラ夫妻を射抜いた。
二人の額に汗が滲む。
日頃の不摂生が原因か、はたまた恐怖による冷や汗か。
「まず疑念を抱いたのは…、
お義父様、あなたが紋章が承認されなかったと私の部屋へ怒鳴り込んできた日です。
あなた方が男爵の地位を王から賜ったのは、もう何年も前のはずだ。なぜ、今更紋章の申請を?
単純なことです。ギルドラ男爵家の格を上げる準備…いや、ようやく、体裁を【整えたように見せかける】準備ができた。
そうですよね?お義母様。」
「な、なんのことだか…!」
「…言葉の刃は振るえても、とぼけるのはなんともお拙いことで。まあ弁明など聞いてはいません。
次に、ずっと腑に落ちない違和感の正体に気付きました。あの形ばかりの紹介式以来、私は公の場に姿を見せることはなかった。あなた方がそれで満足するような器なのか?神の目を、たった数度社交の場で見せびらかす程度で、その膨れ上がった虚栄心が満たされるような輩でしょうか?…この家を調べるには、十分な動機でしょう?」
リオのたったひと睨みが、ギルドラ夫妻の開きかけた口も、窓の外で唸る風の音も、すべてを沈黙へと引き戻す。ここは、リオの独壇場だ。
「なにせこの家は隠し事が多い。実におもしろかった。
定期的に内装の変わる部屋も、恐ろしく整理された帳簿類も…メイドたちの入れ替わりも。奇妙なことに、彼女たちが辞めたという記録は一つも見当たりませんでした。
あなた方が手を出すには、随分と荷が重い仕事だらけじゃありませんか。せいぜい、屋敷中の装飾品を増やすぐらいしか、あなた方の手には負えなかったでしょう?…神の目を掛けた、闇取引で得た金で。」
大袈裟でもない、穏やかでもない。ただ淡々と【真実】を語るリオ。月明かりに照らされたその目は、ギルドラ夫妻を捉えて離さない。
「色々と見つかりました。この家を、真っ当に見せるための画策が。お二人の無い器量で務まったとは思えませんが…まあ、あなた方が一番わかっているはずですね。特に説明は必要ないでしょう。
今後一切の取引の中止と、爵位の返還を求めます。簡単でしょう?」
「は…っ、ふ、ふざけるな!!
ここまでの地位を、ここまでの金を得るのに、どれだけの時間と労力を掛けたと思っている!!」
「そうよ…!あなたには何もかもを与えたはずよ!
そ、それに、あなたに貴族としての礼儀作法を叩き込んだのはこの私ですよ!?恩を仇で…!」
やっとの思いで手に入れた息継ぎは、かつて屋敷を支配した主の、精一杯の抵抗だった。
リオを声高々に愚弄したあの日から、断罪へのカウントダウンは始まっていたことを、二人はようやく思い知った。
「反論は聞いていないのですが…。さすが、反面教師としては優秀だっただけはある。ああ、それと、お義母様には感謝しています。この刃をくださったのは、あなたですから。
…言葉は、時に人を殺すと、教えてくださったのも。」
瞬間、リオの背後を大きな影が覆った。
ギルドラ夫妻はつんざくような悲鳴を上げ、床へと崩れ落ちた。
「い、嫌だ、わしはまだ死にたくない、踊りたくない…!」
「な、何でもします!お願い、お願いだから…!」
影の中から、リオの金色の目だけがギラリと光る。
「…いずれ、誰でも踊るものですよ。お義父様。」
リオの瞬きを合図に、巨大な影がギルドラ夫妻を飲み込んだ。
目を開くと、そこには泡を吹いて倒れる二人の姿があるだけだった。
「…それに、私の願いは…何者にもならず、平穏に死ぬことなんです。
あなた方が、私をリオ=ギルドラに仕立て上げたんですよ。」
リオは静かに部屋を去った。
足元に落ちた、真っ白な羽根に気付くことなく。
第13話
その後、ギルドラ夫妻は呆気なく逮捕され、
男爵不在のためにリオが仮の当主として家名を背負うこととなった。
とはいえ、やるべきことは山ほどあった。
10代前半の少年が一人では到底成せないほどの、膨大な厄介ごとが。
それでも幾日と経たず、あとは闇取引の証拠の数々を王宮へと提出するだけとなったところで、リオは国王から直々に召喚されることとなる。
「よくぞ来てくれた。神の目よ…否、ギルドラ男爵代理、リオ=ギルドラとお呼びすべきか。
…此度は、ご苦労であった。」
「私にはもったいないお言葉です。」
「さて…ふむ。風の便りで聞いた話だ。そなたが屋敷ごと手放したと。…手にした富は、【償い】と呼ぶに足り得たかね。」
王はその細い指先で、玉座の肘掛けを一度、軽く叩いた。憐れむような、どこか誇らしげにも聞こえる声色に、リオは聞き覚えがあった。
「…わかりません。正直に申しますと、私は彼女たちの顔も名前も覚えていません。それに彼女たちの境遇は、私のそれとは全く別物です。…私が全てを手放した結果、あるべきところに還っただけです。」
「…そうか。そなたの判断は、私にも、神すらも咎めることはできまい。」
不意に、王の体が微かに揺れた。
それは何かを庇うような動きだったが、その場の誰にも気付かれることはなく、王は言葉を続けた。
「報告によれば、そなたは爵位の返上を望んでいると聞く。…無論、それが規則により認められぬことは、そなたも承知しておろう。
それに加え、これは私個人の願いでもある。どうか、【神の目】を、王家の庇護のもとに置かせてほしい。」
途端に、王も、その側近たちもぎょっとした。
眉間に深く刻まれた皺、細められた目。まるで嫌悪を体現したようなリオの表情は、紛れもなく不敬そのものの顔だった。
王は再び体をもぞりと動かすも、小さな咳払い一つで何事もないように口を開いた。
「爵位を返上することは、そなた一人の意思では成せぬのだ。
だが、…【名】を変えることまでは、咎めはせぬ。
これよりは、ギルドラ男爵改め、エスペール男爵と名乗るがよい。
…新たな道でも、その強固な意思がそなた自身を導いてくれるだろう。」
「…希望、ですか。恐れ多き御名、ありがたく拝命いたします。」
リオは深く頭を下げ、そのまま退室を試みた。
誰からも呼び止められることなく、リオはその場を後にした。
リオが去った後、王は小さく息をついた。
「…所作はともかく、あまりに幼い容姿ではないか。
まさか、日の当たらぬ者があそこまで多いとは思わなんだ…。
ギルドラ家では苦労を強いたな…不甲斐ない。」
「記録では、正確な年齢は分かりませんがまだ13歳とのことです。」
ずるりと、王の体が玉座を滑り落ちる。
…たった13歳の子供が、あれだけのことをやり遂げたのか。神の加護なのか、それとも。
ゆっくりと座り直した王の手は、無意識に腹部をさすっていた。
王宮を出ると、ルドルフが御する馬車に乗り込み、帰路へと着いた。
屋敷とは到底呼べぬ、小さな家。
決して目立たず、ひっそりと、まるで子供の秘密基地のように佇むその家は、これからリオの住まいとなる。
「…色々と手間をかけた。」
馬車を降り、御者席へ向かうとリオはそっと呟いた。
ルドルフは手綱をまとめる手を止め、いつもの表情で、いつもの声色で、その言葉を受け取った。
「私は仕えた者のために動いたまででございます。」
「そうか…。
お前は、僕のことを憐れだと思うか。誇りに、思うか。」
ルドルフは何も答えない。
ただいつかと同じように、モノクル越しの目が悪戯っぽくきらりと光った。
すると何やら家の中から、ドタバタと騒々しい音が響いた。
「リオー!おかえりー!!」
そこにいたのは、主人よりも先に家へと踏み入り、満面の笑みで扉を開け放つアーセルだった。
ほんの一瞬、リオの瞳孔が限界まで開いた…のち、その目は遠くの無理解に向けるかの如く脱力した。
アーセルの奥では、はっきりと頭を抱えたディナの姿もある。
「…なぜお前らが私の家に居座ってやがるんですか。」
「えっ、だってお友達って家に招待したりされたりするんでしょ?僕たちもう立派なお友達だもん、これからもよろしくね!」
そうしてまた、苦悶する少年が一人増えることとなる。その様子を、アーセルはただ不思議そうに眺めていた。
「…リオ様。恐れ入りますが、私はこの辺りでお暇させていただきます。」
しばらく三人の姿を静観していたが、ルドルフは静かにリオに声を掛け、リオも彼に向き直った。
あらかじめ用意された道のりはなんとも楽で、同時に、どうにも落ち着かなかった。
そしてその道標となる者は、この先いなくなるのだろう。
「…ご苦労だった。」
ルドルフは深々と一礼し、御者席へと戻りゆっくりと馬車を走らせた。
「お疲れ様ー!あとは好きに生きるんだよー!」
その背中を見送りながら、ブンブンと右手を振るアーセルに、リオが珍妙なものを見る目を向けたのを、もちろん、ディナは見逃さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます