30 ここまで来たというのに、あと少しだけ足りないのか


「朱鷺っ!」


 鷹晴が駆け寄ろうとするが、させじと別の束が行く手を阻む。


「どけっ!」


 鷹晴が怒号とともに刀を振るう。


 ざんっ! と髪の束が斬られ、ばらばらと塵と化して消えていく。


 だが、朱鷺に迫る髪には間に合わない。


 自分に迫る黒髪を見つめながら、朱鷺は必死で頭を巡らせていた。


 朱鷺の手には刀も弓もない。おとといは足に巻きつかれたところを鷹晴に助けられたが、今度は助かるのか。


 鷹晴が朱鷺を見捨てるとは欠片も思わないが、鷹晴の助けが来るより先に首をへし折られたら――。


 恐怖に心臓が轟く。


 だが、恐怖よりも強く朱鷺の胸を締めつけたのは言いようのない悔しさだった。


 ここまで来たというのに、あと少しだけ足りないのか。


 嫌だ。こんなところで死ぬなんて、受け入れられるわけがない……っ!


 誰に祈っているのかもわからぬまま縋るように胸元を握りしめた指先が、硬いものにふれる。


 同時に、懐が燃えるように熱くなった。


「っ⁉」


 息を呑んだ朱鷺に、巨大な鎌のように黒髪が迫る。


「朱鷺っ!」


 雨に濡れ、蒼白な顔で叫ぶ鷹晴を視界の端に捉えながら、朱鷺は無造作に懐に手を差し入れた。


 指先にふれた熱の塊を引き抜き、迫る髪へと振るう。


 白く清冽な光を放つ、つげ櫛を。


 ざぁっ、とつげ櫛がふれるだけで、焼き切れるように髪がちりと化していく。


 ぎゃおぉぉんっ! と髪の中心から悲鳴が上がり、朱鷺達を取り囲もうとしていた髪の動きが目に見えて鈍る。


「いまだ! 走れっ!」


 刀を納めた鷹晴が朱鷺の左手を取り、強引に走り出す。


 足の痛みも忘れ、朱鷺はつげ櫛を握りしめて鷹晴に手を引かれるままに駆ける。


 蓑を無くした身体に雨が打ちつけ、足元で泥が跳ねる。


 だが、それも長くは続かなかった。


 ふと身体に打ちつける雨が途切れる。


 頭上が陰った気がして走りながら見上げると、道の両側の木々から伸びた密に繁った枝葉が雨を遮っていた。


 無我夢中で走るうちにようやく八品神社へ辿り着いたのだと悟る。


 生い茂る枝葉で先ほどまでよりさらに薄暗いというのに、不思議と恐怖を感じない。


 薄闇の中にぼんやりと見えるのは朱色に塗られた古びた鳥居だ。


 走る勢いのままに鳥居をくぐった途端、まるで不可視の幕で区切られているかのように、清らかな空気が朱鷺達を包み込んだ。


 ごく自然に敬虔な気持ちが湧き起こり、朱鷺は自然に足をゆるめた。鷹晴も走るのをやめて歩調をあわせる。


 この神域の中には決して怨霊は入ってこられないと、本能的に悟る。


 同じように感じたのだろう。潰れんばかりに朱鷺の手を握りしめていた鷹晴の手が、わずかにゆるむ。


 だが、大きな手のひらは朱鷺の手を包んだまま放れない。


 鳥居の先は、木々に挟まれた土の参道になっていた。


 両側に立つ幹の太い木々から参道に張り出すように枝が伸びているため、ときおり雫が落ちてくる程度で、雨はほとんど降りかからない。


 雨粒が木の葉を打つ音が、いくつも鼓を鳴らしているように聞こえるだけだ。


 神域に満ちる気配に気圧されたかのように、朱鷺も鷹晴も無言で歩む。


 さほど長くない参道を進むと、丸太を横倒しにした階が現れた。


 二人も並べばいっぱいになる横幅の階をゆっくりと上がる。三十段ほどの階を上がると、茅葺かやぶきの拝殿が見えてきた。


「櫛……」


 上がった先に鎮座している拝殿を目にした途端、朱鷺は思わず呟いた。


 拝殿の軒下には、横幅だけで朱鷺の片腕ほどの長さはある大きな櫛が吊るされていた。


「私……。小さい頃、何度も八品神社へお参りしていました……」


 立ち止まった朱鷺の口から、無意識に言葉がこぼれ出る。


「櫛職人のおじいちゃんに連れられて、毎月のように……。この神社には櫛の女神様がいらっしゃるから、女神様が気に入ってくださるよい櫛が作れるようにお祈りするんだと……」


 大きくあたたかな鷹晴の手が、記憶の中の祖父の手と重なる。


 骨ばってごつごつと固い職人の手。頼もしいその手に引かれて歩くのが好きだった。


 無骨な手が木を削り形を整えていくと繊細な造りの櫛ができるのが、幼心に不思議で仕方がなかった。


 そうだ。この櫛だって――。


 朱鷺は右手に握りしめたままだった櫛をそっと胸に押し当てる。


 先ほどまで櫛に宿っていた熱は、とうに消えている。


 けれど、胸の奥がほのかにあたたかくなった心地がした。


「この櫛は、私のためにおじいちゃんが作ってくれたんです。『とき』という名前もおじいちゃんが……」


 朱鷺は隣に立つ鷹晴を見やり、小さく笑う。


「『とき』は鳥の『朱鷺』ではなく、髪をくほうの『き』だと……。たったいま、思い出しました」


 まだ、すべてを思い出したわけではない。思い出せていないことがほとんどだ。


 けれど、祖父がいたこと。そして、その祖父に可愛がってもらっていたことを思い出しただけで、いままであやふやで定まらなかった足元が、ほんのわずかに固まったような気がする。


 この神域を満たす清浄な気のおかげかもしれない。


「『梳き』か……。先ほど、その櫛が怨霊を祓ったのも、その櫛に籠められたお前の祖父の祈りに、天櫛玉命あめのくしたまのみことがお応えくださったのかもしれないな。『櫛』は『し』に通じると、昔、聞いた覚えがある。霊妙なことが起こったとしても、不思議ではない」


 朱鷺の言葉に、鷹晴が神妙な面持ちで応じる。


「はい。天櫛玉命様のご加護に違いありません」


 きっぱりと頷いた朱鷺は、鷹晴とつないでいた手を放して櫛を濡れた懐に戻すと、拝殿の前まで歩み寄り、柏手を打って深々と頭を下げる。


 残念ながら怨霊を完全に祓うことはできなかったが、この櫛の力がなければ、きっと朱鷺も鷹晴も無事ではすまなかった。


 心の中で、天櫛玉命に感謝と願いの祈りを捧げる。


 祈り終わり隣に立つ鷹晴を見ると、鷹晴もまた真剣な表情で両手を合わせ、頭を下げていた。


 すっかり濡れそぼった水干の袖から伸びる腕には、まだ赤い跡がついたままだ。


 痛々しい赤さに、朱鷺は思わず嘆息する。


「どうか呪いが解けますようにと天櫛玉命様にお祈りしましたけれど……。だめみたいですね……」


 自分のことはよいから、どうか鷹晴の呪いが解けますようにと一心に祈ったのだが、残念ながらそう都合よく呪いは解けぬらしい。


 閉じていたまぶたを開けた鷹晴が、己の腕に視線を落とした。


「そうらしいな。この跡をなくすには、呪いをかけた怨霊をどうにかするしかないのかもしれん。いまは痛みはないが……。朱鷺、お前はのほうは――、っ⁉」


 振り返った鷹晴が、朱鷺を見た途端、目を瞠る。かと思うと、顔ばかりが身体ごと朱鷺から目を背けた。


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