7 夜更けの悪夢


 ……ば……っ! お……さえ……っ!


「やめ……っ!」


 息苦しさに、朱鷺はかぶっていた衣を跳ねのけて飛び起きた。


 まだ深夜だろう。部屋の中は真っ暗だった。


 かぶっていた衣を握りしめ、荒い息を何度も吐く。解いたままの髪が肩に乱れ落ちた。


 冷や汗で背中がじっとりと濡れている。


 水の中でもがいているかのように息苦しさが消えないのは、真夜中になっても激しく降り続いている雨のせいだろうか。


 空気が細かな水の粒と化したかのように重く、息苦しい。


 あえぐように荒い息を繰り返し、朱鷺はぎゅっと水干の胸元を握りしめた。


 懐に入れている櫛の硬さを布地越しに感じる。


 心臓が、ばくばくと嫌な音を立てて波打っている。


 きっと、さっき見ていた夢のせいだ。

 

 どんな夢かはまったく覚えていない。

 けれど、思わず飛び起きてしまうほど恐ろしかったことだけは確かだ。


 深く息を吸い込むことを意識し、ゆっくりと息を整えていく。


 幸い、朱鷺が飛び起きたことに気づいた者はいないらしい。


 呼吸を整えた朱鷺は衣を身体にかけ直し、もう一度横になる。


 けれど、ばくばくと騒いでいた鼓動が元に戻っても、身体は疲れているはずなのに目が冴えてしまってもう一度眠れそうにない。


 諦めの吐息をこぼして、朱鷺はもぞりと身体を起こした。


 明かりはないが、暗闇に慣れた目にはおおまかな形くらいはわかる。


 夜更けになっても、雨はまだ激しく降り続いているらしい。


 絶え間なく降り続く水音は、まるで水の檻に閉じ込められてしまったかのような圧迫感を覚える。


 息苦しさに、朱鷺は大きく息をついて立ち上がった。


 簀子すのこへ出れば、わずかなりとも風を感じられるに違いない。


 少し気分が晴れたら、もう一度横になろう。


 周りを起こさないよう足音を忍ばせ、簾をめくり上げて簀子へ出る。


 軒先からは滝のように雨が流れ落ちていた。


 忠持と水主達は船の見張りも兼ねて漁師達が使う浜辺の掘っ建て小屋に泊まると言っていたが、大丈夫だろうか。


 夕方よりも風はおさまっているものの、扉の修理もあるし、これほどひどい雨では明日の出航は無理だと思っておいたほうがよいだろう。


 土佐からここまでの旅路でも、天候の悪さや波の高さで出航を見送ったことは何度もあった。


 朱鷺が気をもんだところでどうなるものではないと、頭ではわかっているはずなのに、これほど不安が押し寄せてくるのは、この村が自分の故郷ではないかと感じているせいだろうか。


 胸の奥底の開けてはいけない扉の錠前が、きしむ音がする。


 けれど、胸の一番奥で、まだ子どもの朱鷺が怯えながら訴えかけているのだ。


 思い出すな。思い出してはいけないと――。


 朱鷺には、土佐に辿り着く前の記憶がまったくない。


 十年前、六歳くらいの幼い朱鷺は、土佐へ渡る船にいつの間にかまぎれ込んでいたのだ。


 いったいどこの湊でいつ乗り込んだのか、知っている者は誰もいない。


 和泉国を発った船が土佐に着き、荷の間で眠る朱鷺を揖取が見つけた時には、朱鷺は名前以外の自分に関わるすべての記憶を失っていたのだから。


 わかるのは、おそらく和泉国のどこかの湊で乗り込んだのだろうということと、懐にまだ真新しいつげ櫛を持っていたことだけ……。


 記憶を失った幼い朱鷺が何とか生き残れたのは、心細さにしくしくと泣く幼い少女を憐れんだ揖取かじとりが、朱鷺を海に放り込まずに土佐の国府まで連れていってくれ、国衙こくがの下級役人に引き渡してくれたからだ。


 そこで朱鷺は、貫之の娘の子守りに取り立てられるまで、ずっと使い走りの男童おのわらわとして過ごしてきた。


 朱鷺はうっすらとしか覚えていないのだが、記憶がないにも関わらず、朱鷺は女童の格好は嫌だと親代わりの下級役人に泣きついたらしい。


 一度、こうと決めたら頑固だったと、下級役人が二年前に亡くなるまで、何度も愚痴を聞かされたものだ。


 降りしきる雨を眺めながら、朱鷺は懐にしまった櫛を着物の上から押さえてため息をつく。


 飾りに梅の花が一輪彫られた櫛は幼い朱鷺がただひとつ大切に抱きしめていたものだ。


 だが、たったひとつの櫛だけを手がかりに故郷がわかるわけがない。


 ここが本当に故郷なのだとしたら、いったい自分は、どんな事情があって記憶を失ったのだろう。


 こんなにも胸がざわつくのは、突然の嵐によって、思いがけず故郷に辿り着いてしまったからなのか、それとも貫之が『よくないモノが近づいてきている』と告げた途端、嵐にあってこの村へ辿り着いたらなのか――。


「眠れないのか?」


 考えにふけっていた朱鷺は、簾をめくる音と同時に聞こえてきた低い声に、びくりと全身を震わせた。


 振り向いた視界に入ったのは、簀子に出てきた鷹晴が心配そうな表情を浮かべてこちらへ歩み寄る姿だ。


 驚きにとっさに言葉が出てこず、目をみはって見返していると、鷹晴が何かに気づいたように息を呑んだ。


「もしや、悪寒がするとかそういう……っ⁉」


 朱鷺が答えるより早く、足早に目の前へ来た鷹晴が、大きな手のひらを朱鷺の額に押し当てる。


 鷹晴の手のあたたかさに、朱鷺はようやく自分の身体がひどく冷えていることに気がついた。


 悪夢を見て吹き出した汗が冷えてしまったからだろう。


 朱鷺とは対照的に、鷹晴の手は恐怖の残滓ざんしをほどくかのようにあたたかい。


「だ、大丈夫です。熱なんてありません」


 鷹晴の手から逃げるようにさっと一歩下がり、他の者を起こさぬよう囁き声ですげなく答える。けれど、鷹晴は納得しない。


「だが、表情が冴えない。……何か、気にかかることがあるのではないのか?」


「いいえ、鷹晴様が心配されるようなことは何も……っ」


 覗き込む鷹晴の視線から逃げるように顔を背ける。


 最近、鷹晴のまなざしが妙に苦手だ。


 黒瑪瑙くろめのうを連想させる目でじっと見つめられると、どうにも居心地の悪さを感じてしまう。


「鷹晴様を起こしてしまってすみません。すぐに、もう一度休みますから」


 中に戻ってもきっと眠れないだろう。


 だが、鷹晴の前から下がりたい一心でそう告げ、きびすを返そうとして。


「待ってくれ」


「わっ⁉」


 不意に肩を掴まれた拍子にたたらを踏む。


 ぐらりとかしいだ身体を広い胸板に抱きとめられた。


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