4 だから無理はするなと言っただろう


「っ⁉」


 次の瞬間、ついさっきまで朱鷺が立っていた場所を、黒い何かが通り過ぎる。


 次いで、がんっ! と硬いもの同士がぶつかる大きな音が響いた。


「な、何が……っ⁉」


 音の発生源を見るべく巡らそうとした顔を、大きな両手でがしっと掴まれる。


「すまんっ! とっさだったとはいえ……っ! 怪我はしていないか⁉」


 ずいっと鷹晴の凛々しい面輪が大写しになり、驚きに思わず悲鳴を上げそうになる。


 濡れた頬を包むあたたかな手のひらに、冷えていた頬に熱が瞬時にのぼった。


「し、してませんっ! 大丈夫ですっ! それより……っ!」


 抱き寄せられた拍子に蓑の稲藁が頬をこすったが、痛みなど感じる余裕もない。


 身をよじって鷹晴の手から逃れた朱鷺は、飛んできたものを振り返る。


 強風で折れたものが飛ばされてきたのだろう。


 甲板にごろりと転がっていたのは、子どもの腕ほどもある太い松の枝だった。


 もしこれが直撃していたらと思うと背筋が寒くなる。


 だが、それよりも。


「貫之様っ! 奥方様っ! 大丈夫ですかっ⁉」


 松の枝がぶつかった衝撃で屋形の扉に穴が開いているのを見て、血の気が引く。


 扉に駆け寄り中の貫之に声をかけると、恐怖にすすり泣く下女達の声に混じって、貫之の落ち着いた声が返ってきた。


「ああ、中は何ともないよ。心配はいらない」


 ほっ、と安堵の息をついた朱鷺は、両膝をついて扉を観察する。


 勢いよく松の枝が当たった板はひび割れ、拳が通りそうなほどの大きさの穴が開いている。


 硬い木の板に穴を開けるほどだなんて、もしぶつかっていたらどれほどの怪我を負っていただろうか。想像するだけでぞっとする。


「これはひどいな。忠持に言ってすぐにふさがせよう。屋形の中までずぶぬれになる」


 影が落ちたかと思うと、頭の上から鷹晴の声が降ってくる。


「ですが、いまは……」


 雨音に混じって、船を浜へ引っ張り上げる水主達のかけ声が聞こえてくる。


 いまはひとりでも人手が欲しい時だろう。


「わかっている。けど、この雨風だ。扉に穴が開いたままでは、このまま船に留まるわけにもいかないだろう」


 いままでも荒天や波が高くて出航できずに湊に停泊している時は、屋形の中で過ごしていた。


 だが、扉がこうなってはそれも難しい。


 と、中に雨が降り込まないようにと、膝立ちになって手で穴を押さえる朱鷺に、鷹晴が手に持っていた桶を差し出す。


「とりあえず、何かふさぐものを持ってくるまでは、これでも当てていろ。むやみにさわるなよ。怪我をする」


「あ……」


 桶なら朱鷺だって足元に置いているのに気づかなかった。それがやけに悔しい。


「いいか。決して無理はするなよ。俺は忠持と今後のことを話しあってくる。水主の手が空いたら、すぐに交代するようにするから、少しだけ待っていてくれ」


 真剣な顔で告げた鷹晴が、朱鷺の返事も待たずに鷹晴が踵を返す。


 鷹晴の長身が離れた途端、大粒の雨と風が顔を打ちつけ、朱鷺は短く返事をするとあわてて唇を引き結んだ。


   ◇   ◇   ◇


 鷹晴が船を降りてどれほど経ったのだろう。


 薄暗い天気と激しい雨のせいで時間の感覚がわからない。


 朱鷺にはずいぶんと長く思える時間のあと、ようやく戻ってきた鷹晴は、出た時と変わらず板戸の穴を桶でふさいでいる朱鷺を見た途端、目を怒らせた。


「朱鷺っ⁉ なぜまだ水主かこと代わっていない⁉」


 言うや否や、鷹晴が水主のひとりを呼び、朱鷺と代わるように命じる。


「ちゃんと交代に来てくれたんです。でも、みなさん忙しそうにばたばたしていたので、せめてこのくらいはと……っ」


 険しい顔の鷹晴に説明しながら水主のひとりに場所を譲り、立ち上がろうとする。


 だが、蓑を着ているとはいえ、激しい雨の中ずっと膝立ちでいたせいで、うまく足が動かない。


 と、鷹晴の腕が蓑の上から朱鷺の腰に回ったかと思うと、ぐいっと強い力で引き上げられた。


 朱鷺がかぶっていた笠が鷹晴の胸元に当たり、ぱたたっ、と雫が流れ落ちる。


「だから無理はするなと言っただろう」


 眉根を寄せた鷹晴が、もう片方の手ですっかりかじかんだ朱鷺の手をとる。


「手もこんなに冷えて……」


 朱鷺の手を持ち上げた鷹晴が、はぁっと息を吹きかける。あたたかな呼気が濡れた手を優しく撫でた。


「だ、大丈夫ですから……っ」


 反射的に身をよじって離れようとするが、鷹晴の手はゆるまない。


「わ、私のことより、忠持さんとどんな話をされたんですか⁉ そちらを先に教えてくださいっ!」


 鷹晴の大きな手から自分の手を引き抜こうと試みながら問うと、ようやく放してくれた鷹晴が、簡単に説明してくれた。


 この辺りの地理に明るい忠持に話を聞いた鷹晴は、ひと足早く下船し、湊からほど近いさわ村という名の村のおさと、嵐の間、滞在させてもらえるよう話をまとめてきたそうだ。


「雨の中を村長の家まで行くことになるからな。蓑などを借りてきた」


「では、貫之様や奥方様にゆっくり休んでいただけますね!」


 いままでの船旅の間は、天候が悪くて停泊せざるを得ない時でも、屋形の中に閉じこもっているしかなかった。


 当然ながら荒天で外に行くことはできないため、手狭な屋形の中で過ごしていると、どうしても鬱々とした空気になってしまう。


 だが、村長の屋敷ならば屋形よりは広々としているだろう。食事だって、船にいる時よりまともなものが食べられるに違いない。

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