「あなたが確かにいたことを、私は決して忘れない」。
イズラ
「あなたが確かにいたことを、私は決して忘れない」。
「この絵、私が書いたんです」
初めは、無視した。
「この美術館が開く、ずっとずっと前」
構わず続ける。俺の隣に立っているのは、女性だった。
「あの夜は寝たくても寝れなくて、怖くて怖くて……」
女性は声だけを発し続ける。俺に見向きもしていないようだった。
「だから、書いたんです。こう、『たすけて』って」
言われてみれば、そうも見える気がした。
自動扉を抜けた俺は、コートのポケットに手を入れる。
今日は、手袋を忘れた日。
そして、あの女性と出会った日。
心に刻んだ。
*
一週間後の日曜日。
「また会いましたね。続きを聞いてください」
女性の声は、どこか弾んでいた。
それを感じて、俺も少し嬉しい気がした。
なぜ、見ず知らずの人間の語りを、わざわざ聞きにきたのだろう。
「私、好きな人がいたんです」
その言葉に、俺は眉間を寄せる。
「コタロウっていう、同級生の子でした」
女性は、やはり俺の表情など見ない。
「私、元々は男らしい人が好きだったんです。でも、彼は違った」
俺は無意識に、女性との距離を一歩詰めていた。
「彼は、言ってしまえば、弱い男でした。こんなやつが、将来兵隊さんになるなんて、信じられなかった」
女性は動かない。後ろで組んだ腕さえも、一切。
「ある日、私が学校を抜けてすぐのことでした。コタロウが、男たちの中でも特別背が高い、シゲルっていうやつに殴られてました」
俺は、その腕に手を伸ばした。ついに、手を伸ばした。
それでも女性は間髪なく、語りを続ける。
「私はとっさに『助けて!』って叫びました。そしたら、私も一緒に殴られました。……結局、コタロウは私に謝り倒しました。土下座もしてきました。『女の子殴らせた、俺は、俺は……』って」
あと数センチで触れる。
女性の、その手に触れる。
「そんで、結局罵れなかったんです。コタロウは自分のことを。それがまぁ、面白くて、笑って笑って。……そんで、私たちはその日から友達になりました。毎日のように、一緒に帰りました」
女性の声が美しい。
喋り方も、情緒も、繊細な語りも。
もう、俺が、彼女を──。
「……遊びもしました。……めんこも交換しました。……まつりの日のりんご飴、おいしかった。そんで、それで……」
その瞬間から、女性の声が震え始める。
俺は慌てて手を引っ込め、またもや絵に集中しているふりをした。
「……でも、彼は、コタロウは死んだんです。……出刃包丁で、何度も、何度も刺されて……」
女性は今にも引きちぎれそうな情緒を震わせていた。
「……コタロウ、かけてた眼鏡も、血だらけで……」
そして、女性はついに泣き出した。
嗚咽を繰り返しては、洟をすする。
何度も洟をすする。
やがて、また声をしゃくり出す。
「……結婚しよって、言ったのに……」
俺は、もう、彼女と付き合おうなど、よこしまは一切消えていた。
ただ、彼女の気持ちを考え、胸を抑える。
「……コタロウを殺したやつは、私の家にも来ました……。『つぎはおまえ』って、血の付いた手紙を置いていって……」
女性は、すでに別の感情に揺れていた。
「その夜は、お母さんと一緒に寝ました。次の夜も。その次も、そのまた次も。……でも、誰も来ませんでした。……あの日、私は割り切って、一人で寝ました」
そこから先は、知るまでもなかった。
彼女は、男女仲を疎んだやつに殺された。
出刃包丁で、めった刺しにされた。
そして、1930年7月10日──死んだ。
*
「……もう、話し終えましたよ」
次の日曜日、また訪れてみた。
でも、女性はそれ以上の話を語らなかった。
「……私は、あなたとは会えない。……あなたも、私のそれ以上を知らない」
女性は動かなかった。
「……だから、もう忘れて。私のことなんて、思い出さないで」
顔は分からなかった。
肌の感じも。
髪質も。身長も。事件以外のことも。人間性も。かけがえのない誰かとの会話も。
俺は、彼女を知らない。それ以上、知りえない。
それでも、確かに聞こえた。
彼女の”声”だけは、鮮明に聞こえたのだ。
どれほど、泣き叫んだか。
どれほど、助けを求めたか。
どれほど必死に、母の名を呼んだか。
その全てを、俺は感じた。
だから、今なら言える。
「あなたが確かにいたことを、私は決して忘れない」。
一滴の涙が、頬を伝った。
*
俺は今日も、知らない誰かの死を、知らないままでいる。
その苦しみを、文字で見ても、決して感じはしない。
でも、それじゃぁ、駄目だと分かった。
それは、あんまりにも──。
「……ありがとう」
あんまりにも、寂しい。
だから、彼女という女性を忘れないこと。
それが、終わりのない苦しみの螺旋の──救いになるんじゃないか?
「あなたが確かにいたことを、私は決して忘れない」。 イズラ @izura
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