第15話 公爵邸の平穏と、聖典の秘密


王宮から公爵邸に移ってからというもの、シルヴィアは、これまで感じることのなかった「平穏」という感覚に包まれていた。


王宮での日々は、常にルドヴィクの不機嫌と、自称聖女リーゼの巧妙な罠に備えるという、極度の緊張状態の中にあった。しかし、公爵邸では、父カールの静かな威厳と、兄ガブリエルの冷徹な守護のもと、彼女はようやく自分自身を取り戻しつつあった。


公爵邸の庭園を散策するシルヴィアの隣には、可愛らしい笑顔と、銀髪を柔らかくしたような穏やかな髪色を持つ、公爵夫人、つまり彼女の母が、優雅に寄り添っていた。


「シルヴィア。王宮で辛かったでしょう。でも、もう大丈夫よ。貴女は、誰かを支える義務から、一旦解き放たれたのですから」


母は、シルヴィアの冷たい鉄の仮面の下に隠された献身的な愛と、深い傷を、誰よりも理解していた。母は、公爵夫人としての威厳を持ちながらも、家の中では、花を愛し、小さな喜びを見つける、心優しい女性であった。


「お母様……わたくしは、公爵令嬢としての義務を全うしたまでです。ですが、父上と兄上が、わたくしの代わりに、あの不当な屈辱を引き受けてくださっている」


「カール様も、ガブリエルも、貴女が自分の居場所を失うことを、何よりも恐れているのよ。貴女の強さは、『守るべきものがある』という愛から生まれている。その愛を、今は自分自身に向けてあげなさい」


母の温かい言葉に、シルヴィアの瞳の奥の凍結が、微かに溶けるのを感じた。


この穏やかな時間の中で、シルヴィアは、父から託された公爵家の古い聖典の解読に没頭していた。聖典の記述は、単なる伝説ではなく、古の王家に伝わる秘術についての具体的な指示書であると判明しつつあった。


聖典には、以下の記述があった。


「銀の髪とエメラルドの瞳」を持つ者が、真に王家の血を引く聖女の資質を持つ。


聖女の力は、「絶望の淵から、無償の愛によって救い出されたとき」に開花する。


力を開花させる儀式は、「自然の精霊が宿る、公爵家の森の聖域」での三日三晩の祈りによって成就する。


シルヴィアは、聖典の記述が、自分の銀の髪とエメラルドの瞳、そして婚約破棄という絶望と、家族の無償の愛という、今の状況と完全に一致していることに気づいた。


(わたくしは、もしかすると、王室の安定という義務ではなく、この国そのものを守るという、別の、より大きな義務を果たすために、この世に生を受けたのではないだろうか)


彼女の心の中で、「ルドヴィクの妃」としての過去の義務感が完全に消滅し、「真の聖女」としての新たな使命感が芽生え始めていた。


一方、王宮では、王妃イゾルデが公爵家への報復に失敗し、経済的に追い詰められる中、自称聖女リーゼが、王妃の派閥に完全に組み込まれ、傲慢さを増しているという、危険な兆候が見え始めていた。

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