第2話 因縁
中区役所を通り過ぎたところで、警察車両がごった返していた。
誘導灯を振る警官に止められて、優花は胸に付けた秋霜烈日のバッジを見せた。秋の霜と夏の日差し。
検察官は刑罰の厳しさを絶えず胸に刻んでいる。
警官が慌てて敬礼し、優花は瀬戸口と一緒に規制線を
錆びたシャッターが狭い路地の左右に暗幕を下ろしている。薄暗い路地の奥に、外壁だけを厚化粧のようにリニューアルしたアパートが立っていた。
『エンジェルハイツ栄』
アパート下で待機していた不動が優花に気付いて、素早く敬礼した。
「お待ちしていました。機捜も機鑑もフル動員していますが、なんせ死体の数が数だけに、相当、時間が掛かりそうです。柏木はすでに署に引っ張りましたが、反省の様子は微塵もありません。とにかく、現場を見られますか?」
「現場を見せるために私を呼んだんでしょ。私に問うなら、意味のある問いにして」
不動が苦笑いして、人差し指で頬を掻いた。
「俺が見てきた現場の中では、少なくとも史上最悪だ。吐いて現場を乱されちゃ敵わんから、ここで待機してるか?」
「そういう訳にはいきませんよ。立会事務官は検事の捜査に同行しないと。僕と笹嶋検事は一蓮托生ですから」
瀬戸口が強がりを言う。
三階に上がった。
アパートの通路は狭く、捜査員で溢れ返っている。廊下の突当り、三〇一号室の前で管理人らしき中年男性が事情聴取を受けていた。
「勘弁してくださいよ。殺されたのはうちの子じゃないかって、全国からクレームの嵐ですわ。個人事業のアパート経営なんで、こんな事件を起こされたら、倒産ですよ、倒産」
管理人が片手で小刻みに腹を摩りながら、分厚い唇をせわしなく震わせた。
これほど凶悪な事件が起きているのに、管理責任を放棄して倒産の心配。
この国は、大量殺人すら他人事になったのか。平和ボケした管理人に遺族の悲しみを訴えて、目を覚まさせるしかない。
優花は管理人から離れて、不動を呼んだ。
「改めて、柏木の詳しい情報を聴かせて。凶悪犯罪者には、必ず何かしらの特殊な成育歴や過去の犯歴があるはず」
不動が背筋を正した。
「柏木道成。二十九歳。フリーランスのジムトレーナーです。両親は他界して、母親の妹の
不動がスマホの画面を見せてくれた。
――次の瞬間、優花は息を呑んだ。鼓動が激しく胸を打つ。指先の震えが止まらない。優花は不動からスマホを奪った。
「笹嶋検事、どうかされましたか?」
「……柏木道成。こいつの養子縁組前の名字と、出身中学は?」
不動が小走りで近くの捜査員を捕まえた。自分の鼓動が煩くて、周囲の音が聴こえない。耳鳴りがする。
戻って来る不動の動きが、やけにスローに見えた。
「柏木道成の旧姓は、
世界から音が消えた――。
不動の顔が霞んで、優花は膝先から崩れ落ちた。
「笹嶋検事、大丈夫ですか? 立ち
ようやく瀬戸口の声が聴こえた。
優花は過呼吸気味の喉を両手で押さえて、息を整えた。
「八田道成。そんな……あり得ない。嘘でしょ」
不動が屈んで、優花を見詰める。
「まさか、知り合いの犯行ですか?」
記憶がフラッシュバックする。
♢
咲き誇る桜の花びらを見上げながら、中学二年のスタートを真理と一緒に祝った。
最高の親友に出会えた中学一年。進級しても、同じクラスになりたいという、小さな夢が叶った日だった。
始業式が終わって、校庭の桜並木の下で真理と語る未来。共に目指す法曹。
真理は『加害者と被害者の心を理解できる裁判官になりたい』と話してくれた。
不意に、真理が何か大きな力に押されて、桜の木に抱き着くように倒れた。背中に突き立った包丁。藍色の制服に黒い染みが広がっていく。
優花が叫ぶ中、見知らぬ男子が屈んで包丁を引き抜き、真理の制服の白襟で刃先を拭った。真理の背中に花びらが降る様子を、ただ眺めていることしかできなかった――。
♢
「……私の親友を殺した男。十三歳で人の命を奪った柏木は、家裁送致され、少年院に入った。刑法第四十一条、十四歳に満たない者の行為は罰しない。柏木は私の目の前で、そう呟いた」
不動が露骨に舌打ちをした。
「柏木の両親は心中しています。つまり、息子が少年院の間に耐えきれなくなって逃げた。そこを母の妹である敏子が引き取った。笹嶋検事の話だと、十三歳の柏木は、刑法の処罰年齢を理解した上で悪用したと」
優花は唇を噛み締めながら頷いた。
真理の命を奪って嵐のように消えた男と、やっと出会えた。この手で必ず罪を償わせる。
瀬戸口が天を仰いだ。
「そこまで狂った奴だと、弁護側が当時の殺人を持ち出して、責任能力を否定してきそうですねぇ。十年以上、経過してますから記録はもうないかもしれませんが」
令和四年十月。
日本弁護士連合会は、少年事件記録の適正な保存を求める会長声明を発出した。
一九九七年に神戸市で起きた中学生による児童連続殺傷事件、二〇〇四年に佐世保市で起きた小六女児殺害事件の全記録破棄。
これらを受けて、少年が二十六歳に達した時に、記録を特別保存するか否かを検討するようになった。
たとえ事件記録が破棄されていても、柏木は真理を突き刺した感触を覚えているはずだ。
「起訴前本鑑定は依頼するけれど、責任能力がないとは絶対に言わせない。私はもう大丈夫だから、行きましょう」
医師が犯行当時の被疑者の精神状態について意見を述べる起訴前本鑑定。取り憑かれたように減刑を狙う弁護士側は、これを拠り所にする他ない。
覚悟は決まった。
真理の仇を討つ。これは天から与えられたチャンスだ。検事になって、自ら柏木と対峙する。父に頼るしかなかった中学時代の自分とはもう違う。
優花と視線が合って、管理人が
「おたくらだけで行ってよ。ありゃ、地獄だ。私はもう見たくないんだ。何度も見たら、頭がいかれちまうよ」
管理人が両手で顔を覆った。声のトーンの下がり方から、相当な精神的ダメージを負っているように感じた。
だが、仕事は仕事。きっちり協力させる。
「管理人として柏木を警戒してくれていたら、事件は発生しなかったかもしれない。入居前後の部屋の違いなども確認したいから、同行しなさい」
管理人が声にならない悲鳴を喉の奥から漏らした。
瀬戸口が管理人の背中に手を添えた。
「僕も本当は怖くて
不動が顎をしゃくって、三〇二号室に向かった。
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