第3話 屠畜場のアパート

 落ち着きのある白いドア。


 木片にパーソナル・ジム『肉の孵化ふか』と墨文字の達筆で書かれている。いかにも個人事業の胡散臭い雰囲気だ。


「怪しくて入会する気は、とてもしないでしょ」


 優花が吐き捨てると、不動が頭を掻いた。


「ダイエットを始めてすぐに体重が減れば、誰でも嬉しいですから。ましてや無料。騙される気持ちも分かります」


「残念ね。始めたばかりの体重の増減なんて、水分の変化だけなのに」


 優花は近くにいた機動鑑識隊からシューズ・カバーを受取り、ヒールの上から装着した。ビニール・キャップを被り、ゴム手袋を装着して、玄関に踏み込む。


 瀬戸口が管理人と一緒に後から続く。


 不動が両手を軽く広げた。


「こちらがジム兼柏木の生活スペース、隣の三〇三号室が会員の宿泊部屋兼犯行現場となります」


 優花は小ホールからリビングに抜けた。


 十四畳のリビングには小型テレビと卓袱台だけが置かれている。家具は少なく、テーブルや棚に埃もない。潔癖症なのだろうか。至る所に除菌スプレーや消臭剤が置かれていた。


 リビングと一体化したキッチンの食器棚を開けてみる。大量に並べられたスプレー型の酸素吸入器が、ずらりと数十本。いくらジムトレーナーでも、ここまで大量にストックしておく必要はない。


「多すぎるでしょ。在宅酸素療法用でもあるまいし。殺害の道具として、使っていたとか?」


「分かりません。ですが、柏木が自ら使用していたと思われる缶が枕元で見つかりました。柏木本人の指紋も検出されています。他にも不思議なのが、大量の尿取りパッドが備蓄してありまして。介護施設でもあるまいし」


 不動が食器棚の下段を開けた。


 開封されていない尿取りパッドが、所狭しと並んでいる。殺人の際に、被害者が失禁するのを防ぐ目的だろうか。


 それにしても、数が尋常じゃない。


 一人に一枚あれば十分なはず。だとすれば、解体時の血液の吸収用。だが、尿と血液とでは成分が異なり過ぎて、効果のほどが疑わしい。


 瀬戸口が優花の隣に並んで、食器棚の中を覗き込む。


「たぶん、心配性なんですよ。よほど切らしたくないんでしょうね。僕も単三電池とか、サランラップとか、大量に予備を抱えるタイプなので」


「普段の生活から、どのくらいのスピードで替えが必要になるか計算できないの?」


「笹嶋検事は庶民の気持ちが分かってないですねぇ。予備があると安心するんです。柏木もきっと、トレーニングで酸素不足になると怖いから、つい大量購入しちゃうタイプなだけかと」


 優花は視線を移した。


 調理器具は整理され、清潔感がある。シンクには、箸と茶碗が一組。ケトルと電子レンジが置かれた腰ほどの高さの収納棚。一人用の小型の炊飯器に、新品同様の冷蔵庫。


「柏木はジムを開設して何年?」


 管理人が契約書を慌てて捲った。


「二年と四ヶ月ですな。その間、家賃の未納はないですから、ジムの経営も上手く行ってるもんだと。ささ、室内をざっと見て回りますかね。早く終わらせましょう」


 管理人がやっつけ仕事のように、部屋の説明を始めた。


 リビングの右手には、布団が敷かれたままの八畳の和室。残りの三つの洋室はトレーニング用になっている。


 ランニング・マシン、エアロ・バイク、ステア・クライマーの有酸素運動に特化した部屋。

 チェスト・プレス、ショルダー・プレス、ラット・プルダウンの胸、肩、背中の筋トレに特化した部屋。

 アブクランチ、ヒップ・アブダクション、レッグ・プレスの腹、尻、脚の筋トレに特化した部屋だ。


 瀬戸口が呑気な顔をして、嘆声を漏らした。


「金が掛かってますねぇ。あっ、これ! 僕の通っているジムと同じランニング・マシンだ。消音性に優れてて、結構、快適なんだよなぁ」


 瀬戸口が触れようとして、不動に注意された。


「本当に、ここを生活の拠点にしていたの? 他に潜伏場所は?」


「ここだけです。買い物に出かけず、すべて通販で生活していたようで。押収したPCの取引履歴には、生活雑貨や食材が並んでいました。他には、どこから入手したのか分かりませんが、屠畜場の映像がいくつか。柏木はそれを見ながら、女性会員を手に掛けたと思われます。悪趣味、極まりない」


 不動が首を摩りながら、歩き出した。


 優花も歩調を合わせて、不動に並んで歩く。


「もはや私の理解の範疇はんちゅうを超えてる。刑罰を科されないなら、人を殺してみたいという歪んだ男だから。でも、今回は肥満女性ばかりを狙った。ここに柏木の異常な拘りを感じる」


 柏木は、柏木の正義で人を殺している。この正義を打ち破らなければ、何も始まらない。


「移動しましょう。まずは柏木の正義とやらを、我々の目に焼き付ける」


「私はここで遠慮しときますよ。絶対に、ここから先にはもう入りたくない」


 管理人の両膝がガタガタと震えていた。


 不動と瀬戸口を引き連れて、柏木が寝床にしていた和室に進む。押入れの戸が外されていて、内側に黒いドアが一枚。


 不気味な光沢だ。ここから先は、おそらく柏木の腹の内が見える。


 不動がドアの隣に立った。


「三〇三号室に繋がるドアです。このドアを使えば、室内で行き来が可能。会員を安心させるためか、二重ドアになっていて両側から鍵が掛けられます。就寝前に施錠すれば、二つの部屋は分断され、アパートの単なる隣人になりますからね。女性会員も安心なわけだ」


 不動がドアノブに手を掛けた。


 ドアをゆっくりと引くと、フローリングの床に寝袋が一つ広げられていた。


 六畳の洋室。小さな卓袱台ちゃぶだいの上に、飲みかけのペットボトルの緑茶と、チャックが開いてビューラーが飛び出たコスメ・ポーチがあった。


 機動鑑識隊が淡々と写真を撮っている。


 不動が鑑識に向かって、小さく手を挙げた。


「最後の被害者、三上江梨子みかみえりこが使用していた合宿スペースです。被害者の女性たちは寝室として、この部屋を与えられ、シェイプアップに必要な指導を常時、隣の部屋の柏木から受けられる仕組みになっていました」


 不動が広げられた寝袋を避けるようにして、フローリングを歩いた。


 コールマン製のソロキャンプ用のシュラフに、折り畳み式の簡易マット。ベッドや敷布団で眠るより、合宿に打ち込んでいる気分に浸れるのかもしれない。


「事件発覚の切っ掛けは? これまで、十一人もの被害者がいながら、発覚しなかったのに。つまり、三上江梨子の合宿だけ、柏木に何かミスがあった」


 不動が頷く。


「柏木は合宿に通信機器を持ち込ませない方法で、秘匿性を維持してきました。ダイエットにお菓子もスマホも必要ないと。被害者は皆、三〇三号室の何もない環境でダイエットに打ち込んでいる最中に殺されたんです。ところが、三上は異常なまでの柏木ファンでした。自分の目線で見る柏木を録画したくて、眼鏡にピンホール・カメラを仕込んだ」


 ――盗撮。


 柏木からすれば、会員による致命的な裏切りだ。スマホは警戒できても、生活必需品に埋め込まれたカメラにまでは、気付けなかった。


「三上江梨子の執念が、『肉の孵化』の闇を暴いたわけだけれど、眼鏡を外させなかったのは、被害者の視界を鮮明にして、肉を剥ぐ時に真の恐怖を与えるためでしょう」


「ご名答。笹嶋検事は犯罪者心理が、よく分かりますね。柏木は、牛刀をチラつかせ、剥いだ肉片を本人に見せる演出に酔っていたようです。では、柏木の食肉処理場に参りましょう」


「嫌だなぁ、僕、管理人さんに聞き込みを続けていてもいいですか?」


 瀬戸口の足が止まる。


「一生、立会事務官でいるつもりなら、好きにしなさい」


 機捜と機鑑の間を縫いながら、白いドアの前で不動が止まった。


 瀬戸口が嘆きながら、不動の隣で身を小さくしている。


「ここからは、私が先に行く。柏木の行動をトレースしたいから」


 優花は不動を下げて、自らドアノブを引いた。目の前に木製の扉がもう一枚、姿を現す。全身の毛穴が開くような嫌な予感がした。

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