第2話

 『冥王星近傍の重力異常と発生した球型物体に関する初回研究』と書かれた書類をあれから何度も読み返した。何度見ても変わるわけない、そんなこと分かっていても頭の中ではまったく分かっていなかった。


 ふと顔を上げ時計を見ると、時刻は午前十時半――あ、そういえば今やっている仕事ってどうなるんだ。


 書類を手にもって上司の部屋に向かった。

 上司に連れられて歩いているときはしょんぼりしていて分からなかったが、研究所内は興奮に包まれていた。どうして分からなかったのか、それすら分からないほど研究員は互いの興奮を伝え合う。

 興奮は重なり合い、波のように合成しては大きくなっていった。


 そんな波に揺られながら俺は扉をノックした。


「すみません。ちょっとだけ聞きたいことがありまして」


「いいぞ」


 部屋の中は静かだった。扉が閉まるとさらに静寂が部屋の中を包み込み、さっきまでの喧騒が夢だったように感じる。


「その、俺が今やっている研究ってどうなるんでしょうか。いったん中止してまた戻ってきたら始めるような感じですか?」


「もちろんわかってるだろ」


 まさか、

 ……「行くまでにやれと? いやいやちょっと待ってくださいよ、しのめだって自分の研究があるでしょ。さすがに一週間後の出発までに終わらせろなんて」


 あ、しのめって。上司は……気が付いていないみたいだ。はぁ、俺も気を付けないと。


「しのめ研究員はもうすでに終わりかけている。彼女は補助機械を最大限利用できる立場にいるからな。それに彼女はアイディアの宝庫――もし違っていたとしてもデータからすべてを導き出してんだ」


「こわ~」


「そんなこと言ってる暇あるんだったらさっさと仕事を始めろ」


 俺は失礼しますと言って部屋を出た。興奮はまだ冷めやらぬ……俺のつかみかけた幸運はもうすでに消えかけそうなのだが。自然に生まれた対比が余計にきつい。

あ~、どうなってもするしかないようだ。


 俺は自室に向かって足を進めた。

 普段から泊まることも多々あるので自室表記で正しい……まあ第七研究室を勝手に使っているだけなのだが。


 手元のカードキーで扉のロックを解除し、積まれた書類と格闘を開始する。

 救い? なのかは分からんが、とにかく大詰めを迎えていたのは幸いだ。これがなかったらどうなっていたことやら。

 ペラペラ。ペ~ラペラとページをめくる音が静かな部屋に吸い込まれていく。


 今どき紙なんて使っている人間は少ないが、俺は昔っから紙一筋でここまで来た。 

親が、『デジタル機器なんて使ったら頭が悪くなる!』と言っていたせいだろう。そのせいでいまだにデジタルは苦手――しのめさんみたいに使いこなせればいいんだろうが。


 はあ、文句を言っても仕方ない。とにかくできることは数値と関係から考え、相関関係がみられるグラフを見つけ出す。


 『重力的エンジンに関する研究』これが完成したら今までコールドスリープばかりの惑星間航行も大幅に短くなる。もちろん稀代の天才であるしのめさん――いや、様も研究しており、最近は内部と外部の時間差――ウラシマ効果を遮断する構造を見つけ出したとかなんとか。


 ちなみに抵抗気味に言っておくが、俺はエンジンの誤差に関する研究を行っている。もちろん現物はまだないが、理論的に考えると誤差は確実に発生し得るはずだ。その時のためにデジタルデータで計算したものを使用している。


 う~む。おそらく近くの惑星と、太陽系全体に広がる太陽の重力範囲。これらすべてを統合すればおそらくこんな感じに……

 ぶつぶつと呟きながら作業を進める。こっちの方が思考を整理できてやりやすいんだが、人が来たときはかなり気まずい。まさに今みたいに。


「あ、しのめ……さん」


 ちょうど椅子に座っている俺の顔と同じくらいに彼女の頭はあった。小柄な彼女は何やってんだこいつと言わんばかりにこっちを見つめる。シュッとした目が鋭く空気を切り裂きながら俺の脳天を突き刺してきた。


「ねえ、そのデータ貸してもらえるかしら。その……」


「あ、僕の名前は浅木 土です。さっきはしのめなんて言ってすみませんでした」


 椅子から立ち上がり彼女に頭を下げる。きっちり45度頭を下げたが、まだ彼女の頭より少しだけ高かったのでもっと下げた。

 頭上からめんどくさそうな声が聞こえてくる。


「そんなことしなくていい。あなたもあの上司にしないでしょ」


 ま、まあはい。

 俺は顔を上げ、データをUSBにコピーした。


「ありがとう……浅木、さん?」


「浅木 土です。またあとで会いましょう」


 彼女はドアを閉めた。また一人になった研究室に俺の心臓の拍動が聞こえてくる。さっさと落ち着かせようとデータに向かうが、余計に聞こえてきて頭には一切入ってこなかった。

 ただでさえ時間がないというのに。


 ふと時計を見ると休憩時間になっていた。いつもなら食堂に行くのだが、今日はそうこうしている時間も惜しい。

 研究所の中にあるコンビニで商品を取って部屋に戻った。有人もあれはあれでいいのだが、無人の方が早く済ませられるので楽だ。タグを使って商品を検知しているとかなんとか。


 お茶とともに鮭おにぎりを胃に流し込んでいく。


 ――よっし終わり。俺は午後からの仕事を始めた。書類はある程度見終わったので、次はこれらからどんな関係が生み出せるかだ。


 たまにこんなことに意味があるのか疑問に思ってくる。もちろん大切なことは分かるけれど、俺のような人は教科書に載ることなんてまるでない。多くの人が学ぶ物理には五百年以上前の偉人の名前しか載っていない。

 はあ、この世界は広いよな。


 疑問を思った時にはいつもこの言葉が浮かぶ。口ずさむ。


「すべてを分かった気になってはいけない」


 きっと俺の研究も誰か次の研究につながっている。そう思うと何となく頑張ろうかって気分になったりならなかったり。


 とにもかくにも午後の仕事を進めていった。

 カチリカチリと秒針が一周すると、分針が少しだけ動く。分針が一周すると長針は一時間進んだことを告げていく。

 まるで浦島太郎になったように、気が付くと六時間が経っていた。


 あんなに疲れたようなことを思ったのにやっぱり楽しいんだな。タイやヒラメの舞踊りはないが、代わりにデータたちが踊っていった。


 ふう、一応糸筋的なものは完成したからあとは少しやるだけ。

 ぐッ、あぁ。ずっと座ってると体が固まってくるな。上司に言われた通りたまには運動しないと。

 カードキーを指して扉をロックし家路へ歩き出した。終業時間より少しだけ遅いがいつもと大して変わらない。それよりも荷物を整理しておかないとな。


 ダイナミック駐輪をした自転車を取り出し漕ぎ出す。町は少しづつ夜に向かって歩みを進めていた。

 街灯がチラホラとつきはじめ、住宅街の方からは美味しそうな夕食のにおいが風を伝ってやってきていた。


 まあ俺は一人暮らしなので適当なコンビニ飯を買う。引っ越した初めはやろうなんて思っていたのだが、やはり大学時代と同じでめったに飯は作らなくなった。もっぱらコンビニとか惣菜が多いよな。


 マンションの階段をカツカツと音を鳴らしながら登っていく。エスカレーターを使うかどうか迷ったが、上司の小言が耳元が聞こえたので階段にした……若干後悔気味。


 しかし、階段の横から見える景色はとても美しかった。

 また朝とは違うきれいさ――町はキラキラと人工の光で色づき、まるで空の天体のように輝き星座を作っていた。

 いつも変わらない真空チューブ列車が時刻ぴったりに駅のホームに入っていくのが見える。あれも俺の所属している研究所から生まれたらしい。


 カツカツと足を上げていると、いつの間にか俺の階を通り過ぎかけていた。

 おっとと。

 カバンにつけたカギを持ちドアに差し込む。ドアの奥からライフが動いている音が聞こえた。


 彼に冥王星の異常研究に参加することになったのを伝えてあげよう。それと朝どうやって予想したのか教えてもらおう。きっと研究に役立つはず。

 俺はドアノブを持ち部屋に入った。

 ――「ただいま~」


 「おかえりなさい、浅木特別研究員」


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