第12話 新刊の売れ行き、二人の男の心情

 愛華と別れたあと、エリックはまんじりともしない気分だった。

 胸の奥に残った感情は、怒りとも不快感ともつかず、言葉にするにはあまりに曖昧だった。

 美夜、彼女が恋をしているかもしれない。

 年上の男に惹かれること自体は理解できる。

 経験、包容力、社会的地位、理由が揃っているなら、納得もできただろう。

 だが、愛華の口から語られた男は、どれにも当てはまらなかった。

 元夫、しかも離婚後も、彼女の連れ子、実子ではない息子と二人で暮らしているという。

 目立つ容姿でもなく、洗練されてもいない。

 医者という職業はかっては確固たる成功の象徴だった。

 だが、今では特別な切符ではない。

 激務と責任に縛られ、報われない話も珍しくない現代社会において、勝ち組と呼べるほど単純な肩書きではない。



 「ありえない」

 エリックは低く呟き、自分の思考を強引にまとめにかかった。

 彼女は、誤解している。

 そうでなければ辻褄が合わない。

 医師として、患者だから顔の傷を気遣い、優しい言葉をかけているだけだ。

 専門家としての配慮と年上の男の穏やかな態度。

 それを恋愛感情だと取り違えている。

 そう考えれば、すべて説明がつく。

 説明がつくはずだった。

 それでも、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。

 理屈で片づけたはずの感情が、静かに、しかし確実に居座り続けている。


 マックを出てから裕司は落ち着かない気分だった。

 病院では、迷うことはない。

 診療室という枠の中では、言葉も感情も、自然に口から出てくる。

 医師として何を言うべきか、どう振る舞うべきか、考える必要すらなかった。

 だが、ここは違う。

 肩書きも、白衣もない。

 ただ一人の男として彼女の隣を歩いているという事実が、思考の順序を狂わせていた。

 緊張しているだけだろうか。

 そう言葉にして片づけようとした瞬間、裕司は小さな違和感を覚えた。

 「せっ、あっ、裕司先生っ」

 呼ばれて返事をしようとしたが、理解してしまう。

 先生と呼びかけて、途中で止まり名前を呼ぶ彼女の声に分かってしまう。

 緊張しているのは、彼女も同じだ。

 そう思った途端、胸の奥がざわついた。

 それは安心とは程遠い、扱いづらい感情だった。

 愛華の声が、不意に脳裏をよぎる。

 「彼女、あなたのことが好きよ。でも、自分では気づいてないのよ。真面目だから、自分からは言い出せない。」

 裕司は、歩調をほんの少しだけ落とした。


 彼女は患者だ、そして若い。

 年齢差、立場、医師と患者という、決して越えてはならない線、それを知り尽くしているはずなのに、

 嫌ではない、むしろ、嬉しい。

 そう認めてしまうこと自体が、すでに危うかった。

 だからこそ、その感情を表に出すことはできない。

 自分が、もっと若ければ、立場も経験も、今ほど重くなければ違う行動ができたはずだ。

 そう思ってしまう時点で、答えは出ている。

 愛華なら、どうしただろうか。

 ふと、そんな考えが浮かぶ。

 若い恋人ができた。

 離婚して、一緒に暮らしたい。

 そう告げたとき、彼女に迷いはなかった。

 周囲の視線も、常識も、年齢差も、彼女を立ち止まらせはしなかった。

 堂々としていた。

 逃げも、言い訳もなかった。

 その姿を思い出し、裕司は小さく息を吐く。


 羨ましい、そんな感情を抱いてしまったことに、わずかな自己嫌悪が混じる。

 自分は、守る理由をいくつも持っている。

 年齢、立場、責任、どれも正しく、どれも手放せない。

 だから、選ばない、踏み出さない。

 そう決めているはずなのに、

 胸の奥では、選ばなかった可能性だけが、静かに重さを増していく。


 「美夜さん。本が出たら、俺が買う」

 言葉は、思考よりも先に形になっていた。

 「そしたら、君に連絡する」

 足音が止まる、彼女が驚いて立ち止まったのだ。

 「マックで会おう。仕事が終わった後だ」

 自分の口から出てきた言葉に、裕司はわずかに息を詰めた。

 こんな提案をするつもりはなかった。

 計算も、準備もしていない。

 愛華の行動が、脳裏をよぎる。


 迷わず、恐れずに行動する彼女の姿、それを思い出したせいかもしれない。

 彼女はは、自分の気持ちをまだ自覚していない。

 自覚したとしても、言葉にすることはないだろう。

 だから、このまま何も言わなければ。

 ずっと医師と患者のままでいられる。

 関係は壊れない。

 安全で正しく何も変わらない。

 だが、それは同時に、

 何ひとつ始まらないということでもあった。

 裕司は、静かに息を吐く。

 これは衝動ではない。

 線を越えるための一歩でもない。

 ただ、止まったままの時間を、わずかに動かすための選択だ。

 壊れないことを優先し続ければずっと、踏み出せない。

 その事実を、裕司はようやく認めた。

 彼は振り返り、彼女の方を見た。


 「珍しいね、この表紙」

 平台に積まれた一冊を前に、女性の一人が足を止めた。

 「ほんとだ。今まで、イラストとか文字だけだったのに」

 表紙を覗き込み、もう一人が小さく頷く。

 「恋愛もの、かな」

 何気ない一言だったが、手はすでに本を取っている。

 ページをぱらぱらとめくり、しばらく視線を落としたままだったが。

 「これ、買う」

 低く呟いた言葉に、友人が少し驚いたように振り返る。

 「え、あんた、この人のファンだった?」

 「うーん。すごくファンかって聞かれると」

 返事に困るけどねと女性は本を閉じ、もう一度、表紙を見る。

 「なんか、面白そうだなって思って」

 その曖昧な言い方に、友人はくすりと笑いながら、同じ本を手に取った。

 「ねえ、読み終わった後でいいから、後で、感想を教えてくれない?」

 友人の言葉に連れの女性は驚いたようだ。

 「詳しくじゃなくていいのよ。ほんと、簡単でいいから」

 思いがけない言葉に、女性は目を見開いた。

 「……もしかして、あんたも買うつもり?」

 「うん」

 即答だった。

 「表紙がね、なんか気になるの」

 理由としては、それだけだった。

 だが、二人とも、なぜかその一言以上を口にしなかった。


  「先生、新刊ですか」

 その日、担当編集の女性に新刊のことですがと言われてエリックは、まさかと思った。

 「売れていないのか」

 半ば無意識に出た問いだった。

 編集者はすぐに首を振る。

 「いえ。それがですね、男性の読者が増えたんです」

 思いがけない言葉に、エリックは自分でも驚いた。   「本当か、それは」

 「はい」

 即答だった。

 「表紙の女性が気になって手に取った、という方が多くて。それで中を読んでみたら、恋愛未満という感じがよかったんじゃないかと」

 恋愛未満。

 その言葉が耳に残り、エリックの表情がほんの僅かに歪む。

 評価としては、悪くない。

 むしろ、売れ方としては理想的だ。

「続きを、書きませんか」

 担当編集のその一言に、エリックは思わず目を上げた。

 驚きが先に来て、言葉が出ない。

 この物語は、読み切りとして書いたつもりだった。

 

 「読み切りとして書いたつもりだったんだが」

 エリックの言葉に、担当編集は一瞬目を見開いた。

 「そうなんですか」

 本気で驚いている様子だった。

 「だったら、なおさらです。ここで恋愛ものを、本格的に書いてみるつもりはありませんか」


 すぐには返事ができなかった。

 言葉を探す前に、胸の奥で何かが静かに抵抗する。

 「売れないかもしれない」

 絞り出すように言うと、編集はわずかに表情を崩した。

 「弱気ですね」

 その一言に、エリックは視線を上げる。

 「らしくないですよ」

 責める口調ではなかった。

 だが、その言葉は的確に刺さった。

 「そうか」

 短く答えたものの、納得したわけではない。

 「表紙は女性モデル、次は別のモデルにしましょうか」

 軽い提案のようでいて、踏み込んだ一言だった。

 エリックは無言になった。


 病院からの帰り道、裕司は足を止め、本屋に入った。

 目的ははっきりしている。

 エリックの新刊を買うためだ。

 新書のコーナーだろう。

 そう思って迷いなく足を向けた、その先で立ち止まった。

 平台に、山のように積まれている。

 「あっ、あった」

 背後から、少し弾んだ声が聞こえる。

 振り返ると、学生服姿の男子が二人立っていた。

 年頃からして、高校生だろう。

 「え、おまえ、小説なんか読むのか」

 やや遠慮のない声が、本棚の間に響いた。

 振り向くと、制服姿の高校生二人が並んで立っている。

 一人は目当ての本を手にし、もう一人は信じられないといった顔だ。

 「いや、俺が読むんじゃない。兄ちゃんに頼まれたんだよ」

 兄、という単語に友人が眉を上げる。

 「お前の兄さん、小説なんて読むタイプだったか?」

 「普段は全然。だけど、友達に勧められたらしいんだよ」

 「へえ、意外だな」

 本を手にした彼は、表紙をじっと見ながら続けた。

 「恋愛小説なんだって、でも、未満らしい」

 「未満?」

 「そう、恋が実ったのかどうかも分からない。はっきりしないまま進む感じのやつ」

 その説明に、友人は一瞬考えるように目を細めた。

 「ああ、そういうって、逆に気になるよな」

 「だろ? 兄ちゃん、そこが気になるから読みたいって」

 「あっ、一応言っとくけどエロいシーンは出てこないってよ」

 「いや、それ期待してない」

 友人は苦笑しながら肩をすくめた。

 「てか、最近の小説も漫画も、やたら露骨だろ。ああいうの疲れるんだよ」

 「だよな。だから逆に、こういうのが新鮮というか」

 少しだけ声を落とし、彼はぽつりと続けた。

「普段はあんまり読まないのにさ、友達に“これだけは読め”ってすすめられたんだって」

 本を手にした男子が言うと、隣の友人は「へえ」と相槌を打った。

 「たださ、表紙、女の人の顔じゃん。兄貴、それ持ってレジ行くのが恥ずかしいんじゃね?」

 「は? なんだよそれ」

 友人は吹き出した。

 「これ、普通の表紙だろ? 裸でもグラビアでもないじゃん。どんだけ純情なんだよ、兄さん」

 「いや、そういうんじゃなくて」

 友人は一瞬だけ黙って、もう一度表紙を見た。

 その目つきが、さっきまでの冷やかしとは違う。

 「ああ、なんか分かる気はする」

 「だろ?」

 「だろっ、なんか、こっちの気持ち読まれてるみたいな顔してるもんな」

 二人は照れたように笑い、レジへ歩いていった。

 裕司は動けずにいた。

 少年たちが軽く口にした“曖昧、未満という言葉が、自分の胸の奥に、妙に響いていた。


 少年たちの「気持ちを読まれているみたい」という言葉

 耳に残ったまま、裕司はゆっくりと表紙へ視線を落とした。

 少年たちの会話と言葉。

 見られてるみたいだよな。

 気持ち読まれてる感じ。


 それは自分だけが知っていると思っていた彼女に、他の誰かが触れているような感覚だ。

 表紙一枚にすぎないはずなのに、予想外の痛みとなって広がっていく。

 マックへ行こうと思っていた。

 エリックの本を買ったら、約束どおり会いに行くつもりだった。

 だが足は自然に、自宅へ向かっていた。

 

 部屋に入り、上着も脱ぎきらないままソファに腰を下ろし、 新刊をそっと開く。

 恋愛、未満。

 そのワードが、頭から離れなかった。

 何故、未満なのか。

 何故、曖昧で終わるのか。

 読み進めるほどに、

 曖昧さの中に潜む痛みが、静かに胸に積み重なっていく。

 そして、読み進めるうちに気づいた。

 未満という言葉が気になるのは、物語のためではない。

 読み進めるうちに、胸の奥でひっかかっていた言葉が、 ようやく輪郭を持ちはじめた。

 裕司は本を閉じ、視線を落としたまま考えた。

 答えは、思っていたよりも単純だった。

 自分が、その状態だからだ。

 恋ではない。

 そう言い張ることはできる。

 医師としての立場を言い訳にすれば、いくらでも理屈は並べられる。

 だが、好きなのだ、彼女が。

 メイクをしていようと、素顔でいようと。

 化粧で整った印象も、病院で見せた不器用な笑顔も。

 その気持ちを言葉にすることはできなかった。

 言った瞬間、何かが壊れる気がした。

 立場と距離、自分が守ろうとしてきた線も。


 言葉にした途端、逃げられない。

 裕司は静かに息を吐いた。

 自分はそんなに強くない。

 迷いなく踏み出す力はない。

 誰かのように、堂々と感情を抱きしめる勇気もない。

 ただ、好きだという事実だけが、

 言葉にもならず胸の底で膨らんでいる。

 裕司はそっと本を閉じた。

 今はまだ、この気持ちに名前をつける力が、自分にはない。

 そう思うことが、痛いほ、どはっきりしていた。

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