第11話 偶然を装って、マックでの出会い

 仕事帰り、裕司はふと思い立ってマックに入った。

 暖かい珈琲を飲んで帰るだけ<本当に、その程度のつもりだった。

 トレーを置き、椅子に腰を下ろした瞬間。

 「珍しいわね」

 背筋がぴくりと跳ねた。

 この声は聞き間違えようがない。

 振り向かずとも分かる、元妻の愛華だ。

 「あなた、珈琲そんなに好きだった? しかもマックなんて」

 断りもなく向かいに座ってくる。

 裕司は無言で睨んだが、愛華はまるで気にしていない。

 「もしかして……待ち合わせ?」

 「たまたま、珈琲が飲みたくなっただけだ」

 「ふぅん?」

 声は軽いのに、目だけ妙に鋭い。

 裕司は内心ため息をついた。

 「もしかして彼女がいないか、なんて思って来たんじゃないの?偶然の出会い、とか〜?」

 「恋愛ドラマの見すぎじゃないか」


 呆れ気味に言うと、愛華は楽しそうに笑った。

 「あら、女は幾つになっても恋がしたいものよ。それに偶然ってね、意外と拾えるのよ?」

 からかうような口調だが、そこにわずかに本音が混じる。

 裕司はカップに視線を落とした。

 

 「あっ、ここよ!」

 愛華が突然、腕を大きく振った、呼び止めるような明るい声、裕司は反射的に振り返った。

 歩いてくる女性、その姿を見た瞬間、思考が止まった。

 「せ、先生っ!」

 美夜の瞳が大きく開いた、驚いている。

 その驚きが、裕司の胸をさらにざわつかせた。

 「ほら、座って。甘い物、たくさんあるから」

 当然のように場を仕切る愛華、美夜は戸惑いながらも隣の席に腰を下ろした。

 タイミングが良すぎる。

 いや、良すぎるどころか出来すぎている。

 愛華のほうを見ると、計画通りと言いたげに、楽しそうに笑っていた。

 「愛華さん、突然、マックに来てって言われて、びっくりしました」

 美夜が小さく笑う。

 その声すら、裕司の胸をざわつかせる。

 愛華は軽く頷き、さらっと言った。

 「この間のモデルのお礼にね。甘い物好きって言ってたし、誘ってみたのよ。そしたら、ほら。元夫がコーヒーを飲んでるから、私も驚いちゃった」

 「そ、そうなんですか、偶然ですね、先生」 

 美夜がこちらを見る、裕司は言葉を詰まらせた。

 (いや、偶然じゃない)

 喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 愛華が意味ありげにニコニコしてるのが、腹立たしい。

 「ところで」

 唐突に、愛華が口を開く。

 「病院じゃないんだから、先生呼びはやめたら?」

 愛華は、どこ吹く風といった顔でポテトをつまむ。

 「ほら、前に言ってたじゃない。患者や看護師から、先生って呼ばれると、仕事スイッチ入って落ち着かないって」

 裕司は心の中で頭を抱え、反射的に愛華を睨みつけた。

 「いきなりは無理だろうから、裕司先生で、ね?」

 「えっ、でも」

 驚いている当たり前だと裕司はお持った。

 だが、ほんのわずかの沈黙のあと。

 「ゆ、裕司先生っ、ですか」

 その声は、どこか申し訳なさそうだった。

 裕司は、何か言おうとしたが、そのまま固まってしまった。

 ただの呼び方。名前に先生がついただけだ。

 なのに、動揺している自分がいた。

 

 エリックは後になって気づいた。

 愛華に聞く必要など、本当はなかったのではないかと。

 今の時代、連絡先を探す方法などいくらでもある。

 やろうと思えば、驚くほど簡単に辿りつける。

 SNS、Facebookなら実名で登録しているのが一般的だ。

 検索ワードを絞れば、数分で相手の輪郭くらい掴める。

 だが、関連しそうな単語を組み合わせても、結果は何も変わらない。

 偶然に頼るという行為が、何より自分に似合わないことは分かっている。

 自分は結果を計算し、確実に取りにいく男だ。

 なのに、今、手元には何もない。

 愛華の言葉が脳裏に浮かぶ。

 駅前のマックで、息子と一緒のところを見かけて声をかけた、その「偶然」を聞いたときは、取るに足りない情報だと思った。

  しかし今は違う。

 (らしくない、だが、他に方法があるか?)

  苦笑に似た息が漏れる。

 偶然に頼る――

 本来なら最も自分に似合わない選択肢だ。

 だが、他に手段がなかった。

 エリックは夜の街に出た。

 冷たい風が頬を掠める。

 目的があるわけではない。ただ、足が向かった。

 (確か、この辺に、マックがあったはずだ)

 街の灯りの向こうに、赤い看板が見える。

 その瞬間、自分でも意外なほど胸がざわついた。


 夕食前の時間帯。

 学生たちの笑い声が店内から漏れてくる。

 別段、特別な空気ではない。

 そのはずだった、エリックの足が、突然止まった。

 (……愛華?)

 ガラスの向こう、手前のテーブルに座る女性が、あの編集者の愛華だとすぐ分かった。

 だが、問題はそこではない。

 彼女の隣に、美夜がいた、メイクをしている。

 向かいの席に、男がいた。

 穏やかな表情で座るその男。

 美夜と同じテーブルで、自然に会話しているように見える。

 胸の内側で、静かに、しかし鋭い衝撃が走った。

 探しても探しても見つからなかった彼女が、何の前触れもなく、こうして視界の真ん中にいる。


 「そろそろ帰らないと。あまり遅くなると」

 美夜が遠慮がちに言いかけると、

 愛華が頷いた。

 「裕司、送ってあげて。外は暗いし」

 さらりと言われ、裕司は思わず言葉を詰まらせた。

 昼間ならまだしも、今の美夜はメイクをしている。

 もし傷が露わなら、誰も振り向かないかもしれない。

 しかし今の彼女は違う、目を引いてもおかしくない美しさがあった。

 「家まで送ってあげてよ」

 小声で囁かれ、裕司は苦々しく顔をしかめた。

 だが、外は本当に暗い。

 女性の一人歩きには危険がつきまとう。

 二人が店を出てゆく背中を見送りながら、愛華は心の中で“頑張れ”とエールを送った。

 マックの照明が静かに二人の背中を照らす。

 その様子に、愛華はどこか母親のような気持ちすら覚える。

 (さて、私は……)

 珈琲はまだ半分残っていたが、妙に胸が高鳴って、もう一杯欲しくなった。  

 「おかわり、しよっかな」

 立ち上がろうとした、そのとき、テーブルの上に、そっと影が落ちた。

 愛華はゆっくりと顔を上げた。

 「せ、先生っ……!?」

 驚きと戸惑いが混じった声が、 愛華の口から漏れた。

 「少し、話せますか」

 エリックの声は低く、静かだった。

 愛華は思わず息を呑んだ。

 さっきまでの軽い甘い空気は一瞬で姿を変えた。

 ドラマの幕が、新しく上がった瞬間だった。


 「彼女の向かいにいた男は誰です」

 エリックの声は低く、無駄がなかった。

 その一言に、愛華は内心で眉を上げる。

 (直球でくるわね、この人は)

 「父親には見えなかった」

 視線に、どこか探る光が宿っていた。

 愛華はゆっくりと椅子に座り直し、あえて軽く息を吐いてから答えた。

 「元夫、医者なんです。彼女の主治医でもあります」

 エリックは一瞬だけ目を見開いた。

 (そこ、予想外だったみたいね)

 だがすぐに態度を整え、短く問う。

 「仲が良さそうに見えたが」

 「付き合いが長いですから」

 愛華はさらりと言った。

「あたしの息子と二人で住んでます」

 愛華の言葉に、エリックの表情がかすかに陰る。

 「独り身なのか」

 「ええ。真面目すぎるくらい、彼女は惹かれてるみたいですよ」

 その一言に、エリックの胸が静かに波立った。

 思ってもいなかった方向に会話が転がっていく。

 「年上に見えたが」

 「ええ、先生よりも年上です」

 その瞬間、エリックの顔に再び影が落ちた。

 ほんの一瞬の表情の揺れ、年齢差、職業。生活レベル。

 想像した何かが、彼の中で引っかかったのだろう。

 愛華はその変化を見逃さなかった。

 「裕福な医者……とか思いました?」

 その言葉が落ちた瞬間、エリックの思考が一瞬止まった。

 深夜の救急外来、休む暇もなく働く医師。

 逼迫した現場を訴える特集。

 過労、責任、クレーム、医療ミスへのプレッシャー。

 作家として取材で見聞きした情報ではなく、社会がずっと抱えてきた“痛みそのものが蘇ってきた。

 愛華は笑った。

 「医者が高給取りなんて、昔の話ですよ。今は人手不足で、 どこもブラック企業並みです」

 その言葉は、軽い調子なのに、妙に重かった。


 マックを出てから、裕司はどうにも落ち着かなかった。

 病院でも診察室でもない場所を、誰かと並んで歩く。

 それ自体が、もう久しぶりすぎる。

 いつ以来だ、記憶を辿って、すぐに思い当たる。

 以前、街中のギャラリーで、偶然、会ったあの時以来だ。

 自分は緊張していると思った。

 「今日は、どこかに出かけていたのかい」

 口に出してから、質問が回りくどすぎると気づく。

 医者のくせに、問診が下手だ。

 「はい?」

 美夜は一瞬、肩を跳ねさせた。

 明らかに予想外だったらしい。

 「いや、その、綺麗にメイクしているから」

 言った瞬間、さらに気まずくなる。

 褒めたつもりでも、詮索したつもりでもない。

 ただ、気になってしまった。それだけだ。

 「あ、あのっ、愛華さんがマックにいるってメールが来て、人が多いから、メイクしたほうがいいかもって」

 なるほど、一応、筋は通っている。

 だが、裕司は心の中で首を振った。

 違う、俺がマックにいるから、愛華の顔が、ありありと浮かぶ、偶然を装うときの、あの余裕の笑み。

 あいつ、愛華の顔を思い出した。

 若い頃なら無視できた感覚が、今はやけに鮮明だ。

 裕司は小さく息を吐き、何事もなかった顔を作ることに全力を注いだ。

 医者は、感情を顔に出さない、少なくとも、そうあるべきだ。

 「せ、せっ、あっ、裕司先生が、いるとは思いませんでした」

 裕司がちらりと隣を見ると、美夜はわずかに俯いている。

 その仕草だけで、十分すぎるほど伝わってくる。

 名前を呼ばれた、それだけで。

 裕司の胸は、無駄に忙しくなった。

 愛華とは、そんなに頻繁に連絡を取っているのか。

 そんな考えが、反射的に浮かぶ。

 理由が分からないからこそ、余計に落ち着かない。

 「渡したいものがあって、愛華さんに頼もうと思って」  予想もしなかった言葉だ。

 「でも、直接渡したほうがいいって言われて」

 俺に渡したいもの?

 「本です。表紙のモデルをした」

 なるほど、と内心で頷く。

 「病院で渡すのは、看護師さんとか、患者さんが見たら、変に思われるかもしれないし」

 その説明は、ひどく真っ当だった。

 裕司は小さく息を吐く。

 確かに、詮索されれば説明が面倒だ。

 医師と患者、という枠は、案外すぐに騒ぎの種になる。

 それだけの理由だ、そう、頭では理解している。

 自分に向けて「渡したい」と言われた事実が、

 胸の奥に、静かで確かな重みを残していた。

 「そうだね」

 やっと、それだけを口にする。

 声は落ち着いていたはずだ。

 少なくとも、自分ではそう思っている。

 医者としては、問題ない対応。

 大人としても、きっと正解だ。



  「彼女は、誤解しているんだ」

 エリックは、いつも通りの落ち着いた声で言った。

 感情を挟まない。事実だけを整理する。

 それが彼のやり方だ。

 「医者が患者を心配して、気遣うのは普通のことだろう。恋愛経験の少ない、若い女性の勘違いだ」

 理屈としては、完璧だった。

 少なくとも、彼自身はそう信じている。

 その言葉を聞いて、愛華は小さく笑った。

 反論でも、否定でもない。

 どこか余裕のある、楽しげな笑みだった。

 「子供扱いしすぎですよ」

 声は柔らかい。

「彼女、気遣いのできる若い女性です。連絡したいと思っても、私や息子の英介に連絡して、『先生はご在宅ですか?お忙しくないですか?』って、必ず確認してからにするんです」

 愛華は、目を細めて笑った。

 「真面目ですよね、本当に」


 その一言が、エリックの胸の奥で何かを打った。

 言葉では否定していたはずだった。

 エリックは笑えなかった。

 愛華の微笑の奥にある、冷静で、どこか皮肉めいた確信が、彼の胸に静かに刺さっていた。

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